「内なるキリスト」
2004年1月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤ2・15‐21
キリスト教における信仰体験とは何か。それは様々な言葉をもって表現さ れ得るでしょう。しかし、次のパウロの言葉ほど、それを短く適切に表現し ている言葉はないように思われます。「生きているのは、もはやわたしでは ありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20節)。 信仰生活とは、この言葉を自分の言葉として生きることに他なりません。今 週、私たちは礼拝において与えられたこの言葉を、繰り返し深く思い巡らし たいと思います。
●生きているのはわたしではない
「生きているのは、もはやわたしではありません」。そうパウロは言いま す。「わたしは既に死んだ」ということです。いいえ、パウロは死んではい ません。生きているからこの手紙を書いているのです。しかし、実際には生 きているパウロが、自分を既に死んだ者と見なしております。しかも、ただ 死んだと言うだけではありません。「わたしは、キリストと共に十字架につ けられています」(19節)と彼は言います。いいえ、彼は十字架につけら れてはいません。手紙を書いています。にもかかわらず、パウロは自分自身 を、十字架につけられて屍をさらしている者と見なしているのです。これは どういうことでしょうか。
私たちはパウロの言葉を理解するために、この手紙を少し遡ってみること にしましょう。16節でパウロはこう言っています。「けれども、人は律法 の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知っ て、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行では なく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、 律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(16節)。
ここに「義とされる」という言葉がでてきます。「正しい者と認められる 」ということです。神は正しい御方です。そこで当然考えられることは、 《神との正しい関係に生きるためには、正しくあらねばならない》というこ とです。神によって正しい者と認められねばなりません。義とされねばなり ません。義とされるためには、正しい神の要求を全て満たして、正しい人間 にならねばなりません。
この点において、ユダヤ人は一つの自負を持っておりました。《我々は神 の律法を持っている》という自負です。すなわち、正しい神が何を求めてお られるかを知っている、ということです。ですから、神が何を求めているか も知らずに生活している異邦人を「罪人」と呼んで蔑んだのです。15節の 「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人では ありません」というのは、ユダヤ人が一般的に考えていたことでした。
しかし、パウロはその言葉を取り上げて問題にします。確かに、我々は律 法を持っている。正しい神の要求が何であるかを知っている。しかし、本当 にその実行によって、それを完全に実行することによって、正しい者と認め られる人間がいるのか。否、そんな人は一人もいない。「律法の実行によっ ては、だれ一人として義とされない」(16節)と彼は言い放つのです。
「だれ一人として義とされない」――これは実は、文字通りではありませ んが、詩編の引用です。詩編143編に次のような言葉があるのです。「あ なたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命 あるものの中にはいません」(詩編143・2)。既にいにしえのユダヤ人 が、その深い洞察をもって、自分自身について、人間というものについて、 そう告白しているのです。そして、パウロもその言葉に同意します。律法に よって義とされることを望んだパウロもまた、その結論に行き着かざるを得 なかったのです。
正しい神の要求を完全に満たすことによって、正しい者と認められる者は 誰もいない。それは異邦人であろうがユダヤ人であろうが関係ありません。 そうしますと、すべての者は、神に正しいとは認められないままで、神の裁 きのもとにある者として、死んでいかなくてはならないことになります。人 生は、神との正しい関係にはなかったものとして、神の裁きのもとにあるも のとして総括されねばなりません。もちろん、私たちも例外ではありません。
しかし、そのように語るパウロは、ここでもう一つのことを語っているの です。彼は一つの重大なことを知ったのです。何を知ったのでしょう。もう 一度16節を御覧ください。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリ ストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエス を信じました」。そう彼は言うのです。罪ある人間には律法の実行によって 義とされる道が固く閉ざされていると認めざるを得なかったパウロは、そこ にもう一つの道が開かれていることを知ったのです。それはイエス・キリス トへの信仰の道でした。
パウロがイエス・キリストについて語る時、それは十字架につけられたキ リストのことに他なりません。先ほど、私たちは皆、神に正しいとは認めら れないままで、神の裁きのもとにある者として、死んでいかなくてはならな いと申しました。しかし、そのような私たちが受けるべき裁き、受けるべき 神の怒り、神の呪いを、すべて引き受けてくださった御方がおられるのです。 イエス・キリストです。その御方は、自らは完全に神に従い通された正しい 御方であるにもかかわらず、私たちのために、十字架の上で呪われた者とし て死んでくださったのです。
そのキリスト・イエスについて、「わたしたちもキリスト・イエスを信じ ました」とパウロは語ります。日本語では分かりませんが、そこには「イエ ス・キリストの《中へ》(信じる)」と書かれているのです。つまり、自分 の全存在をキリストの中に投げ込んでキリストと一つになることです。「わ たしは律法の実行によっては義とされません。裁きのもとにある者として死 ぬしかありません。私たちはただ十字架につけられたあなたに自分をまかせ るしかありません。」そう言って、自分の身柄をキリストに引き渡してしま うことです。
そうしてキリストと一つとなる時に、キリストの死は私たちの死となるの です。私たちは実際には死んでいないにもかかわらず、既に罪を裁かれて死 んだ者とされるのです。私たち自身は十字架につけられて死んではいないに もかかわらず、十字架につけられて呪われて死んだものとされるのです。神 が私たちをそのように見なしてくださるのです。「わたしは、キリストと共 に十字架につけられています」とパウロが言っているとおりです。既に裁き は過ぎ去りました。そのようにキリストと結ばれ、キリストと共に死んだ者 として、神は私たちを義と認めてくださるのです。
●キリストがわたしの内に生きておられる
続く17節と18節は難解でありまして、様々な解釈がなされてきました。 今日は、その一つ一つを紹介することはしません。皆さんがそれぞれ考えを 巡らしてください。ここではただ一つのこと、「…キリストは罪に仕える者 ということになるのでしょうか」という問いに対して、「決してそうではな い」とパウロが断言しているということを心に留めたいと思います。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義と される」――これを「律法を実行しなくても義とされる」と単純に読み替え る人は、昔も今も少なくありません。つまり「神の前に正しくなくても義と されるのだな。別に罪を犯していても、神に背き続けていても、結局は義と 認められるのだな」と考えるわけです。ローマの信徒への手紙を読みまして も、「恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」(ローマ6・1) などという言葉が出てまいります。
そうなりますと、当然のことながら、「キリスト教は人間に道徳的な感覚 を失わせる。《律法によらずに義とされる》という言葉をいいことに、平気 で罪を犯しような人間を造り出す」という批判、すなわち「キリストは罪に 仕える者である」という批判が起こってまいります。しかし、パウロはその ような非難に対して、全面的に否定するのです。キリストは罪に仕える者だ って?決してそうではない!と彼は言い放つのです。問題はどこにあるので しょうか。「人は律法を実行しなくれも義とされる」と単純に読み替えたと ころに問題があるのです。
良く見てください。パウロは、「ただイエス・キリストへの信仰によって 義とされる」と言っているのです。「イエス・キリスト」という御方との関 わりが決定的に重要だということです。イエス・キリストを信じて、イエス ・キリストという御方の内に自らを投げ込んで、イエス・キリストと一つに なって、その死にあずかって、キリストと共に十字架につけられた者として、 私たちは義とされるのです。そして、キリストは十字架につけられただけで はありませんでした。キリストは復活されたのです。十字架につけられたキ リストと結ばれたならば、復活したキリストとも結ばれて一つになっている はずです。キリストの死にあずかったならば、キリストの命にもあずかって いるはずです。人がキリストと共に死んだ者とされるのは、キリストの命に あずかって新しく生きるためなのです。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ のです」とパウロは言いました。律法の実行によらずして義とされるのは、 もはや律法を与えた神とは無関係に生きるようになるためではありません。 神の御心や神の求めとは無関係に生きるようになるためではありません。神 に背いた生活を安心してできるようになるためではありません。「それは神 に対して生きるためだ。神にしっかりと向いて、神のために生きるためなの だ」とパウロは言うのです。そして、キリストの死にあずかっただけではな く、キリストの命にもあずかった新しい生を、パウロは次のように表現して いるのです。「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と。
もともと旧約聖書の世界に、「わたしの内に生きておられるメシア」など という概念はありませんでした。これは、メシア=キリストの到来、その十 字架と復活、そして昇天と聖霊の降臨によって開かれた、全く新しい地平で す。ファリサイ派ユダヤ人パウロが、キリスト者であるパウロとなったとい うことは、彼が「生きているのは、もはやわたしではありません。キリスト がわたしの内に生きておられるのです」と語る者となったということに他な りませんでした。私たちにとっても、キリスト者としての生活とは、「キリ ストがわたしの内に生きておられるのです」と語りながら生きていくことに 他なりません。私たちは、この言葉を本当の意味で自分の言葉として生きる ことを、これからも求めていきたいと思います。