「パンを裂いて」
2004年2月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ14・13‐21
今日お読みしましたのは、五つのパンと二匹の魚をもって大勢の群衆に食 べさせられたという主イエスの奇跡物語です。現代の読者には、あまりにも 突飛な物語と映るかもしれません。しかし、細かい点は異なりますが、この 物語は四つの福音書すべてに記されております。しかも、この物語に出てき ます五つのパンと二匹の魚は、古代の教会においてキリスト教のシンボルマ ークとして用いられてきたのです。モザイク画などとして遺っているものを 御覧になったことがあるかもしれません。それほどに、この出来事は教会に とって極めて重要なものとして見られてきたわけであります。私たちもまた、 そのような物語として今日の聖書箇所を読み、この箇所を通して語られる主 の御声にしっかりと耳を傾けたいと思います。
●主は憐れまれた
さて、この箇所の直前には、洗礼者ヨハネがヘロデによって無惨にも首を はねられて殺されたことが書かれております。そして、その知らせが主イエ スのもとに届けられます。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、 ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)。深い悲しみと痛みを覚えつつ、 主はひとりになって祈るために、人々のもとを離れたのでしょう。しかし、 主が舟に乗って出て行かれたことを耳にすると、群衆は湖畔を歩いて主イエ スの後を追いかけ、先回りして待っておりました。そこで、「イエスは舟か ら上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」(1 4節)のです。
主の憐れみの眼差し。それが今日の聖書箇所全体を貫いていると言ってよ いでしょう。男だけを数えても五千人の数に上っていた大群衆。主は彼らを 見て、深く憐れまれたのでした。彼らの多くは病人でした。あるいは差別さ れ、抑圧されてきた人々でした。罪人として社会から排除されてきた人々で した。多くの苦しみを抱えた人々が、いつも主イエスを取り囲んでおりまし た。しかし、主が憐れまれたのは、ただ彼らの病気や苦境を見てではありま せん。マルコによる福音書では、今日の聖書箇所と同じ場面で、次のように 記されています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のい ない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6 ・34)。この福音書の9章36節にも、「また、群衆が飼い主のいない羊 のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9・ 36)とありました。そのように、主が憐れまれたのは、何よりも「飼い主 のいない羊のような」彼らの有様だったのです。
かつてダビデはこう歌いました。「主はわたしの牧者であって、わたしに は乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴 われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に 導かれる」(詩編23・1‐3、口語訳)。そこには主なる神を羊飼いとし ている人の幸いが歌われています。しかし、キリストが目にしていたのは、 もはやそのような幸いを歌い得ない人々の姿でありました。真の飼い主を見 失ってしまった人々、誰に信頼し、誰に従ったら良いのかが分からなくなっ てしまった人々、それゆえに、本当の豊かさと命とを失ってしまった人々。 確かに病気は不幸をもたらすかもしれません。社会から排除されていること も不幸なことであるに違いありません。しかし、真の羊飼いを失っていると いうことは、根元的な不幸です。それゆえに、主はそのような群衆を、深く 憐れまれたのです。この「深く憐れまれた」という言葉は、もともとは「腸 (はらわた)」という言葉に由来するもので、腸がちぎれるような苦しみを 覚えることを意味します。主は上から見下ろすようにして憐れんだのではあ りません。主は羊飼いを失っている人々と向き合い、彼らと共に深く苦しま れたのです。
そして、彼らの中にいる病人をいやされました。もちろん、五千人に膨れ 上がった群衆の中のすべての病人をいやすことはできなかったでしょう。し かし、幾人かの病人がいやされました。それは、彼らを本当に生かすことの できる真の牧者なる神が、彼らに恵み深く臨んでくださっているしるしであ りました。まさに神の国が近づいているしるしでありました。真の羊飼いが 憐れみをもって関わり、みもとに招いていることを示すしるしでありました。 そして、主はさらに大きなしるしを与えようとしておられたのです。
●あなたがたが与えなさい
主イエスが群衆と共に過ごしていますうちに、既に夕暮れになりました。 弟子たちは、主イエスのもとに来てこう言いました。「ここは人里離れた所 で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分 で村へ食べ物を買いに行くでしょう」(15節)。弟子たちの提案は実に理 にかなったものでした。しかし、主は彼らにこう言われたのです。「行かせ ることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(16節)。さ あ、大変です。これまで、本当の意味で群衆と向き合っていたのは主イエス でした。群衆の有様に真実の眼差しを向けていたのも、主イエスだけでした。 病人を癒していたのも、彼らの有様に腸がちぎれるような苦しみを共にして いたのも、主イエスだけでありました。しかし、今、他ならぬ弟子たち自身 が、人々と向き合うようにと押し出されます。「《あなたがたが》彼らに食 べる物を与えなさい」と。
そこで彼らは、初めて自分たちの貧しさに直面せざるを得なくなりました。 それまで、彼らは意気揚々と、「わたしはイエスの弟子である」と胸を張っ て言っていられたのです。あの十二弟子などは、それこそ「我々は選び抜か れた十二人である。弟子たちの中でも、特に主のみそば近くに置かれている 者である」などと考えていたことでしょう。しかし、群衆と向き合わされて、 彼らは自分たちの持っているものでは、どうにもならない現実に直面するこ とになりました。彼らはこう叫ばざるを得なかったのです。「ここにはパン 五つと魚二匹しかありません」(17節)と。
教会が教会内のことだけを考えている限り、自分たちがいかに貧しいかな どということは、ほとんど考えませんし、さして問題にもならないものです。 しかし、教会がこの世のただ中に存在していること、真の羊飼いを失ったこ の世界とその悲惨な現実のただ中に存在し、そこに生きる具体的な人々のも とに遣わされていることを自覚し始めるや否や、たちまちその貧しさに直面 せざるを得なくなります。私たちの手元に、パン五つと魚二匹しかないこと に気づくのです。そして、世の人々もまた、教会の貧しさを目の当たりにす ることになります。「なんだ、教会にはパン五つと魚二匹しかないじゃない か。教会は具体的な必要を何も満たしてくれないじゃないか。この世界を動 かし、様々な問題を解決するような力も持っていないじゃないか。」そうで す、実際、貧しい。実に貧しいと思います。
しかし、この聖書箇所を御覧ください。パン五つと魚二匹を手に途方に暮 れている弟子たちと共に、主イエスが立っておられるのです。もともと主は ご存じなのです。彼らがほとんど何も持ち合わせていないことをご存じなの です。そこで主は弟子たちにこう言われました。「それを《ここに》持って 来なさい」(18節)と。「ここに」――どこに?もちろん、共におられる 主のもとにです。そして、主はその「五つのパンと二匹の魚」を取って、天 を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて再び弟子たちにお渡しになったの です。弟子たちは、他ならぬ《そのパン》を主の手から受け取って、群衆に 与えたのでした。そして、聖書の伝えるところによれば、「すべての人が食 べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいにな った」とのことです。
いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得るか。 そう思う人がいても不思議ではありません。実際、どのように事が起こった のかは、良く分かりません。しかし、この物語において、一つだけはっきり していることがあります。それは、群衆が満たされたのは、明らかに弟子た ちに由来するものによってではなかった、ということです。弟子たちはほと んど何も持っていなかったのですから。群衆はキリストに由来するものによ って満たされたのです。弟子たちは運んだだけです。つまり、そこで人々が 味わったのは、主イエスから来る豊かさ、天からの豊かさだったのです。
●キリストを人々に
さて、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しに なった」。そう書かれていました。実は、この福音書を読み進んでいきます と、もう一度、この言葉をもって描写される場面に出会うことになります。 それは26章に見る最後の晩餐の場面です。「一同が食事をしているとき、 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えな がら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯 を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲み なさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの 血、契約の血である』」(マタイ26・26‐28)。
かつてガリラヤの草の上でパンを裂いて渡された主イエスは、再び弟子た ちにパンを裂き、「これはわたしの体である」と言って渡されました。そし て、その言葉のとおり、主はパンだけでなく、自分自身をも裂いて渡そうと しておられたのです。――その翌日、主は十字架にかけられて死なれました。 その肉体は、打ち付けられた釘によって裂かれ、槍に刺された脇腹から尊い 血が流されました。その流された血は、主が語られたように、罪が赦される ように、多くの人のために流された血でありました。主イエスは、私たちの 罪を贖うために、十字架の上で死なれたのです。私たちが罪を赦された者と して神と共に生きるためです。飼い主のない羊のような惨めな有様で生きて いた者が、真の羊飼いのもとに生きるためです。「主はわたしの牧者であっ て、わたしには乏しいことがない」と再び語り得るようになるためです。
かつてガリラヤの草の上で、パンを裂いて弟子たちに渡されたキリストは、 今日もパンを裂き、杯を分けて教会に渡されます。それがこの朝の聖餐にお いて起こる出来事です。そこで分け与えられるのは私たちの罪を十字架の上 で贖ってくださったキリスト御自身です。キリストは、私たちに御自身を分 け与えてくださいました。そして、キリストが裂いて与えたパンを、弟子た ちが携えて人々の間を行き巡って配ったように、私たちもまた、分け与えら れたキリストを携えて世に出ていき、人々に手渡すようにと命じられている のです。