「逆風の中でも」
2004年2月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ14・22‐33
今日はマタイによる福音書14章22節からお読みしました。この直前に は、五つのパンと二匹の魚の奇跡が記されておりました。そこにはパンを裂 いて弟子たちにお渡しになる主イエス、そのパンを運ぶ弟子たち、パンを受 け取る人々の姿が描かれています。弟子たちは、自分たちが配っているもの が、決して自分たちのもともと持っていたものではないことを知っていまし た。彼らは主イエスから受けたものを人々のもとに運び、彼らと分かち合っ たのです。そこには大きな喜びがありました。天国の祝宴の喜びがありまし た。これは教会の一つの姿です。喜びと輝きに満ち溢れた姿です。キリスト は十字架にかかられ、パンのみならず、御自分のすべてを私たちに与えてく ださいました。私たちは、十字架において与えられたキリストの恵みを人々 と分かち合って共に喜びます。教会は御国の祝宴の前味を味わうのです。こ れが教会の一つの姿です。
しかし、これがすべてではありません。この世に存在する教会は、もう一 つの姿を持っています。そのことを今日の聖書箇所は示しています。彼らは 共に食する喜びの中に留まることを許されませんでした。群衆は解散させら れました。弟子たちは主イエスの指示に従って向こう岸へと向かう一つの舟 の中におります。そして、その舟は嵐に遭うのです。彼らは逆風に悩まされ て苦しむことになるのです。これが教会のもう一つの姿です。
●わたしだ。恐れるな。
弟子たちを強いて舟に乗せたのは主イエスでした。彼らは、主の言葉に従 って漕ぎ出したのです。しかし、主の言葉に従った彼らを待ち受けていたの は湖上の嵐でした。風と波に翻弄されて、思うように前に進むことができま せん。しかも、悪いことに、頼りの主イエスは、目に見える姿において、そ の舟の中におられないのです。
主イエスの不在。それゆえの不安と恐れ。あの舟の上にいた弟子たちの経 験は、その後の時代の教会の経験でもありました。キリストは十字架にかか られた後、復活して弟子たちに現れましたが、復活のキリストの顕現は、そ の後ずっと続いたわけではありません。使徒言行録を書いたルカは、その期 間が四十日であったと伝えています。そして、顕現の期間の終わりを、キリ ストの昇天として書き記しているのです。いずれにせよ、その後二千年にわ たる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で共におられたわけ ではありません。教会が迫害の嵐の中にあった時にも、キリストは見える姿 では教会におられませんでした。教会がこの世の様々な外部からの力に翻弄 されている時、悪魔の力によって内側からかき乱されている時、キリスト者 が涙を流し、叫び声を上げている時、キリストは、目に見える姿において共 にいることはありませんでした。多くの人が幾たび思ったことでしょう。あ あ、キリストが見える姿で共にいてくださったら良いのに、と。
しかし、物語は次のように続きます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上 を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いて おられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげ た。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れ ることはない』」(25‐27節)。
「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得な い」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りなのです。ここで第一 に重要なことは、風と波に翻弄されていた舟に、キリストの方から、まさに 「そんなことあり得ない」という仕方で近づいて来られた、ということなの です。つまり、キリストが教会に近づいて来られ、教会と共にいてくださり、 語りかけてくださるのは、まさに人間の思いを越えた現実であり、聖霊によ る神的な出来事なのだ、ということです。そして、それこそが、代々の教会 の経験してきたことでありますし、私たちに与えられている経験でもあるの です。
そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に「湖の上を」歩 いて来られた、ということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」 という言葉です。そして、「海」というのは、古代人にとって、人間が支配 することのできない恐るべき混沌の力を象徴しています。まさに、舟はその ような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストは その恐るべき闇の力を踏みつけて近づいて来られたのです。
そして、そのようなキリストであるからこそ、彼らにこう語られたのです。 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と。これは単に、 「幽霊ではないよ、わたしだよ。怖がらなくていいよ」という意味ではあり ません。「わたしだ」という言葉は、「わたしはある」とも訳せる言葉です。 「わたしはある」という言葉で思い起こしますのは、かつてモーセに神が現 れた時に語られた言葉でしょう。「神はモーセに、『わたしはある。わたし はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。 「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」 (出エジプト3・14)。この「わたしはある。わたしはある者だ」という 神の御名を、ある旧約学者は「わたしがいるのだ。確かにいるのだ」と訳し ていました。ここでも、荒れ狂う海をその足の下に踏みつけて来られたキリ ストが、その言葉をもって弟子たちに向かって語られるのです。「安心しな さい。わたしがいるのだ。確かにいるのだ。恐れることはない」と。そして、 同じ言葉を、代々の教会もまた聞き続けてきたのです。
●主よ、お救いください
そして、物語はさらに、舟の中にいた一人の人物にスポットを当てます。 ペトロです。そこに見るのは、教会という舟の中にいる一人の人間である私 やあなたの姿です。
この場面では、主イエスだけでなく、ペトロもまた水の上を歩いています。 彼もまた、主イエスと共に波立つ海を足の下に踏みつけて歩くのです。彼は もはや混沌の力に支配されてはおりません。主イエスと共に支配する者とし て立っています。それは彼の勇敢さによるのではありません。ここで特にペ トロが主イエスの言葉を求めていることは重要です。主イエスの「来なさい 」という御言葉によって、彼は歩き出すのです。力を持っているのはペトロ 自身ではありません。主の御言葉なのです。
しかし、この物語が強調しているのは、ペトロが水の上を歩くことができ た、ということではなさそうです。物語は次のように続くのです。「しかし、 強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』 と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑 ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟 の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝 んだ」(30‐33節)。
このように、どちらかと言えば、強調点はペトロが沈んだところにあるよ うです。ペトロは強い風に気づきました。恐怖が彼を襲います。その時、彼 は水に沈み始めたのでした。水の上を歩いたペトロの姿を読んだ時には、聖 書が身近に感じられなかった人でありましても、ペトロが沈んだところにお いては、一気に聖書が身近になることでしょう。さて、その私たちに身近な ペトロは、いったいどうしたでしょう。彼は叫んだのです。「主よ、助けて ください」と。そして、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ…」と記され ています。ペトロが主イエスの腕にしがみついたのではありません。主イエ スがペトロを捕まえたのです。海に沈ませまいとして、しっかりと捕まえて くださったのです。人は沈みます。しかし、主イエスは沈みません。そして、 決定的に重要なことは、ここでペトロが沈みはじめたということではなくて、 沈まない主イエスがしっかりと捕まえていてくださる、ということなのです。
そして、他ならぬこの捕まえていてくださる主が、こう言われたのです。 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。沈み行くペトロを見つめながら、 「お前は信仰が薄いから、疑うから、そうやって沈むのだ」と言ったのでは ないのです。
主は「疑い」という言葉を使われました。これは心が二つの方向に分裂す ることを意味します。確かに、ペトロの心は、あの時、あの瞬間、二つに分 裂していました。一方は主イエスとその御言葉に向き、もう一つは強い風と 波立つ海に向いていました。確かに主イエスの言われるとおりです。しかし、 ペトロが沈みはじめた時にはどうだったでしょう。「主よ、助けてください 」と叫んだ時はどうだったでしょう。疑ってなどいられません。波風などに かまっていられません。一心に主イエスに向かって手を伸ばして叫んだに違 いありません。そこでは二つに分裂していた心が、再び一つになっていたは ずです。そうです、それでよいのです。
「主よ、助けてください。」――これは文字通りに訳せば、「主よ、お救 いください」という言葉です。これは古代から教会が、キリスト者が、個人 の生活において、そして共にささげる礼拝において、幾度となく繰り返して きた祈りの言葉です。この場面の描写には、明らかにその後の時代の信仰生 活が重ね合わされております。(ですから、「『本当に、あなたは神の子で す』と言ってイエスを拝んだ」という言葉が出てくるのです。これはイエス を神の子と言い表す信仰の告白です。)
ですから、私たちにとっても、本当に大事なことは、「信仰の薄い者よ、 なぜ疑ったのか」という言葉をもって、自らを責めることではないのです。 「私は信仰が足りないのだ。疑ってしまうからだめなのだ。沈まないために は、決して疑うことのない、揺るぎない信仰を持たなくてはならないのだ」 と、自らを叱咤激励することではないのです。そうではなくて、代々の信仰 者がしてきたように、そのままでは沈んでしまう自分であることを認めて、 「主よ、お救いください」と祈ることなのです。ひたすら祈ることなのです。 決定的な意味を持っているのは、私たちが疑いのない揺るぎない信仰を持っ ているか否かではありません。そうではなくて、海を足の下に踏みつけて 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださる御方がお られる、ということなのです。そして、決して沈まない方が、「すぐに手を 伸ばして捕まえ」てくださることなのです。