「キリストを着る」
2004年2月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤ3・26‐29
今日お読みしました短い聖書箇所の中には、実はまったく同じ表現が二回 出てまいります。一つは26節の「キリスト・イエスに結ばれて」という言 葉です。もう一つは28節の「キリスト・イエスにおいて」という言葉です。 残念ながら日本語ではそれぞれ異なる言葉に訳されていますが、両者とも 「キリスト・イエスの中にあって」という全く同じ表現です。そして、これ らに関連して、二つの事が語られています。その第一は、「キリスト・イエ スの中にあって、あなたがたは皆、神の子である」ということです。第二は、 「キリスト・イエスの中にあって、あなたがたは皆、一つである」というこ とです。今日はこの箇所における二つの「キリスト・イエスの中にあって」 を足がかりとして、キリスト教信仰における基本的な事柄について共に考え たいと思います。
●キリスト・イエスに結ばれた神の子
「あなたがたは皆、神の子なのです」。「神の子である」とは、いったい どういう意味でしょうか。聖書は人間が神によって造られたものであると語 ります。しかも、「神にかたどって創造された」(創世記1・27)と語り ます。しかし、聖書において、人間の創造との関連で、人間が「神の子であ る」と語られることはありません。「神の子」という言葉については、人間 の創造とは別のことを考えねばならないようです。
当たり前のことですが、「子」という概念は単独では存在しません。「親 」との関わりにおいて「子」は「子」であるわけです。ですから「子」とい う言葉において重要なのは「親」との関わりです。「神の子」という言葉が 語られる時、そこでは当然、親子の親密な関係、親子の間における愛と信頼 に満ちた交わりについて考えられねばなりません。実際にこの世の親子がそ うなってはいなくても、やはりここでは本来あるべき関係と交わりが前提と されていると考えてよいでしょう。
それゆえに、「神の子」という言葉が第一に結びつくのは、私たち自身で はありません。神御自身が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う 者」(マルコ1・11)と呼ばれた御方です。すなわちイエス・キリストで す。私たちはまず、イエス・キリストが示してくださった、父なる神との間 における、愛と信頼に満ちた交わりに目を向けねばならないのです。
そして、その上で、「あなたがたは皆、神の子なのです」と語る聖書の言 葉に耳を傾けねばなりません。そうしますと、ここには驚くべきことが語ら れていることに改めて気づきます。「あの方が持っていた父との交わりが、 あなたがたにも与えられているのだ」と聖書は語っているのです。これは驚 きです。「それはあり得ないことだ!」と思わざるを得ません。そうです、 本来、それはあり得ないことなのです。ですから、聖書はさも当然のごとく 無前提に「あなたがたは皆、神の子なのです」とは言いません。そこに二言 付け加えるのです。「あなたがたは皆、《信仰によって、イエス・キリスト に結ばれて》神の子なのです」と。
「人間は皆、神の子である。そのことに気づきさえすれば良いのだ」とい う主張を耳にすることがあります。しかし、聖書はそのようなことを語るほ どナイーヴではありません。もっと現実的です。人間が歴史を通じて神に背 いてきたこと、その罪が神との間に越えることのできない深い断絶を作り出 していること、その恐るべき現実にしっかりと目を向けています。聖書に描 き出されている醜い人間の姿は、取りも直さず私たちの姿です。まさに「ど うしてこのような人間が神の子であり得ようか」と言わざるを得ない人間の 実際の姿を描き出し、私たちに突きつけるのです。
しかし、そのような聖書が、ここにおいては、「あなたがたは皆、神の子 である」という、全くあり得ないようなことを語っているのです。ならば、 その根拠はどう考えても私たちの側にはありません。私たちがどうであるか、 によるのではありません。その根拠は、神がキリストを通して成し遂げてく ださったことにあるのです。神は何を成し遂げてくださったのでしょう。キ リストを十字架にかけて、私たちの罪を贖う犠牲としてくださったのです。 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え 物となさいました」(ローマ3・25)と書かれているとおりです。
そして、罪を贖う犠牲となってくださったキリストに、私たちは信仰によ って結び合わされるのです。信仰によって、私たちはキリストの中に立つの です。私たちはキリスト・イエスの中あって、罪の赦しにあずかり、神との 交わりを与えられ、神の子として生きる者とされるのです。ですから、「信 仰により、キリスト・イエスの中にあって」なのです。
それは信仰において、神の霊の働きによって与えられる、霊的な現実です。 もちろん、信仰は目に見えません。私たちが結ばれるべきキリストも目には 見えません。神の霊も目には見えません。しかし、有り難いことに、私たち には、目に見えないものだけでなく、目に見えるものをも恵みとして与えら れているのです。キリストは目に見えませんが、キリストの体である教会は 見ることができます。教会に与えられている聖礼典は見ることができます。 洗礼に用いる水は目に見ることができます。ですから、ここで信仰について 語られると共に、洗礼についても語られているのです。目に見える教会と聖 礼典によって、目に見えない信仰における霊的な現実が、目に見える具体的 な生活と結びつけられるのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた がたは皆、キリストを着ているからです」(27節)と。
さて、この「キリストを着ている」という言葉は、非常に印象深い言葉で す。これは「キリストの中にある」というのと意味は同じなのですが、より イメージ豊かな表現となっています。皆さんは、私を見ていますが、裸の私 を見ているわけではありません。着ている洋服を目にしています。服を着て いる私を見ているわけです。同じように、信仰によってキリストの内にある ならば、神は罪人である私たちを直接御覧になるのではありません。キリス トを通して御覧になられるのです。キリストを着ている者として、キリスト における罪の贖いにあずかった者として、私たちを御覧になられるのです。 私たちは、キリストを着た神の子として御前に立ち、神との交わりに生きる のです。
●キリスト・イエスにおいて一つ
次に、「あなたがたは皆、一つである」と語られていることについて考え てみましょう。28節には一つであるということについて、こう書かれてい ます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分 の者もなく、男も女もありません」。これが「一つである」ということの意 味です。ユダヤ人とギリシア人すなわち異邦人とを隔てる壁が、奴隷と自由 人を隔てる壁が、男と女を隔てる壁が、完全に撤廃されてしまったというの です。ところで、原文には「そこでは」という言葉がありません。しかし、 翻訳の中にこの言葉が置かれたのは、実に適切であると思います。ここで語 られていることは、その前の「キリストを着ている」ということと無関係で はないからです。あくまでも、「そこでは」という話なのです。
先にも言いましたように、聖書は非常に現実的です。ですから、一つとな るということについても、「互いを理解し違いを認め合って手をつなげば一 つになれる」などと言いません。世界の平和を叫びながら、最も身近な隣人 を罵っているのが人間なのです。ですから、ここでも単純に「あなたがたは 皆、一つである」と語られているのではなくて、「キリスト・イエスにおい て」という言葉が加えられているのです。これは先の、「キリストを着て」 という言葉を用いて考えると分かりやすいかもしれません。
そこにはキリストを着ているユダヤ人がいます。キリストを着ているギリ シア人がいます。キリストを着ている奴隷がおり、キリストを着ている自由 人がおり、キリストを着ている男と女がいるのです。そして、「キリストを 着ている」ということが決定的に重要なことであるならば、当然のことなが ら、その服の中にいるのがユダヤ人であるかギリシア人であるかは重要性を 失うことになります。ここで語られているのは、そういうことです。
確かに異なる者が互いを理解し合うことは大事なことです。そのために努 力を惜しんではなりません。しかし、教会は単に「お互いを理解し合いまし ょう」と言って一つになったのではないのです。そうではなくて、皆が、一 つのことを決定的に重要なこととして認識したのです。それは何を着ている のか、ということです。キリストを着ている私であり、あなたなのだ、とい うことです。
そして、さらに言うならば、パウロが「ユダヤ人もギリシア人もなく」と 言う時、それはユダヤ人がユダヤ人であることをやめ、ギリシア人がギリシ ア人ではなくなる、ということを意味するのではありません。一つになるた めに既存のアイデンティティが破棄されて一色にならねばならないのではあ りません。むしろ、安心してユダヤ人でありギリシア人であったらよいので す。キリストを着ているということが重要であるならば、その服の中におい て安心してユダヤ人でありギリシア人であり日本人であることができるはず だからです。
実は、この手紙をパウロが書いている背景の一つに、ペトロや他のユダヤ 人たちが異邦人と一緒に食事をしなくなった、という出来事がありました。 教会の中に、「ユダヤ人と異邦人の違い」ということが顔を出しはじめ、壊 されたはずの隔ての中垣が再び築き始められたのです。それはまさに「キリ ストを着ている」という事実の重さの認識が後退することによって起こった のです。それは今日の私たちの教会においても起こり得ます。キリスト・イ エスにあること、キリストを着ていることを本当に重要なことと考えなくな って、「キリストを信じているかどうか、洗礼を受けているかどうかは大し て重要なことではないんだよ」などと言い始めるや否や、お互いの間の様々 な違いが幅を利かせてくるようになり、隔ての壁があちらこちらに立ち始め るのです。
以上見てきましたように、私たちの信仰にとって「キリスト・イエスの中 にある」という言葉は極めて重要な意味を持っています。今週は、この言葉 を主から与えられた御言葉として受け止め、私たちがキリスト・イエスの中 にあることについて、キリストを着ていることについて、あるいはキリスト の中へと招かれていることについて、繰り返し深く思い巡らしつつ歩んでま いりましょう。