「この岩の上に」
2004年2月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ16・13‐21
来週、私たちの教会では教会総会が行われます。次年度の伝道牧会方針・ 活動計画、予算案などの承認を求めます。教会は年間の計画を立てます。教 会が形成され、成長していくことを望みつつ、計画を実行に移します。牧師 も信徒も、身を献げ、財を献げて、伝道と教会形成に取り組みます。そして、 一年を経て、すべての働きが総括され、総会において報告が為されます。こ れらのことが着実に行われていることは大事なことです。教会の形成と成長 のために、私たちが何を計画し、いかにして成し遂げるかということは、極 めて重要なことです。
しかし、そのような時にある私たちであるからこそ、今、静まって今日の 御言葉に耳を傾けなくてはなりません。主イエスはペトロにこう言われまし た。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗 できない」(18節)。これが今日、私たちに与えられている御言葉です。
「わたしの教会」と主イエスは言われました。私たちはこのことをまず弁 えねばなりません。教会はキリストの教会です。いかなる意味においても、 教会は私たちのものとして存在するのではありません。そして、教会がキリ ストの教会でありますゆえに、教会を建てるのもキリストの御業です。「わ たしがわたしの教会を建てる」と主は言われるのです。そうしますならば、 私たちが計画し、実行するあらゆる働きは、キリストの御業への参与に他な りません。キリストが、教会を建てる尊い働きのために、私たちを用いてく ださるのです。
●あなたこそメシア、生ける神の子です
さて、そこで今日、特に考えたいのは、教会の土台についてです。もし、 私たちが私たちの教会を建てるのならば、その土台も私たちが決めたら良い でしょう。「私たちはこのような思想に基づいて教会をつくりましょう」と 言うこともできるでしょう。しかし、それでは私たちの教会にはなっても、 キリストの教会にはなりません。キリストが建て給うキリストの教会である ならば、その土台をお決めになるのもキリスト御自身です。キリストの教会 は、キリストが良しとする土台の上にのみ建てられるのです。
では、その土台とはなんでしょうか。主は言われました。「あなたはペト ロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。主イエスは弟子のシモ ンをペトロと呼ばれます。主の用いておられたアラム語ならば「ケファ」と なります。「ケファ」とは「岩」という意味です。そして、「この岩(ケフ ァ)の上にわたしの教会を建てる」と主は言われたのです。ですから、直接 的には、「この岩」とはペトロのことです。
しかし、この言葉はその前のやりとりに続いています。「わたしも言って おく」と主は言われました。つまり、その前にペトロの発言があるのです。 16節の言葉です。「あなたはメシア、生ける神の子です」。これはナザレ のイエスという御方に対するシモン・ペトロの信仰告白です。つまり、「こ の岩」は、ただ単に人間ペトロを指しているのではなく、《信仰を告白して いる》ペトロを指しているのです。ただ単にペトロという人間について語る だけなら、何もこの場面でなくても良いのです。そして、実際、ペトロその 人について言えば、ここで教会の土台である「岩」と呼ばれたにもかかわら ず、その直後には「サタン、引き下がれ」(23節)と叱責されています。 岩ともなるし、サタンともなる。それが人間ペトロです。ですから、大事な のはペトロその人よりも、むしろ彼が言い表した信仰告白です。要するに、 教会の土台は、ペトロが口にした、「あなたはメシア、生ける神の子です」 という信仰告白なのです。
その信仰告白は、その前に書かれている人々の声と対比されております。 主イエスが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」 (13節)と尋ねられました。すると、弟子たちはこう答えたのです。 「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、 『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(14節)。 「洗礼者ヨハネだ」と言って恐れていたのは、領主ヘロデでした。彼は自分 が首を切って殺した洗礼者ヨハネが生き返って現れたのだと思っていたので す(14・2)。あるいは、メシアの先駆者として期待されていたエリヤの 到来、あるいはエレミヤのような偉大な預言者の再来と考えていた人もいた ようです。
今日においても、様々なイエス像について語られています。ナザレのイエ スの生き方に感動し、その模範に生きようとする人は決して少なくありませ ん。あるいは、イエスの教えに大きな意義を認め、その教えに従って生きよ うとする人も少なくないでしょう。今日も、あの時の人々と同じように、イ エスの偉大さを思う人は決して少なくはないと思うのです。しかし、それが いかに真実な心情であっても、それがすなわちキリスト教信仰なのではあり ません。
教会の土台となる信仰とは、イエスという御方に向かって、「あなたはメ シア、生ける神の子です」と告白するところにあります。主イエスが弟子た ちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われまし た。ペトロのように、私たち自身が、自分の口で、この御方に向かって、 「あなたはメシアです。生ける神の子です」と語らねばなりません。自らが イエスに向かって「あなたはメシアです。生ける神の子です」と言い表すと いうことは、この御方こそ神の与えてくださった救い主であることを認める ことを意味します。この御方にこそまことの救いがあることを認めることで す。そして、その御方の内に私たちを救い得る絶対的な権威と力があること を信じ、その御方に救いを求めることです。
●陰府の力もこれに対抗できない
さて、「あなたこそメシアです。生ける神の子です」という言葉を聞いた 主イエスは、ペトロにこう言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸 いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なの だ」。イエスをメシア・キリストと信じて、その信仰を言い表すということ は、人間的な尊敬や崇敬とは次元を異にします。それは神の啓示によるのだ と主は言われるのです。
しかし、その一方で、主はこうも言われたのです。20節を御覧ください。 「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないよう に、と弟子たちに命じられた」。確かに、ペトロの信仰告白は神の啓示によ って与えられました。しかし、神の啓示はまだ完結してはいないのです。ペ トロには、まだ見るべきことがあるのです。知るべきことがあるのです。そ れは他の弟子たちについても同じです。彼らが見るべきこと、知るべきこと とは何でしょうか。その直後にこう書かれております。「このときから、イ エスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちか ら多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟 子たちに打ち明け始められた」(21節)。そうです、彼らは主イエスの受 難と復活を見なくてはならないのです。このことを通して、初めて彼らは本 当の意味で、主イエスをメシアであると告白することができ、またメシアと して宣べ伝えることができるのです。すなわち、イエスを《十字架にかけら れて死に、三日目に復活したメシア》として告白し、そのように宣べ伝える ことができるのです。
先に、主イエスに向かって「あなたはメシアです。生ける神の子です」と 言い表すことは、この御方に救いを求めることだ、と申しました。当たり前 のことですが、救いを求めるのは、私たちが救われなくてはならない状態に あるから救いを求めるのです。救われなくてはならない状態とは何でしょう か。社会的な抑圧でしょうか。肉体的あるいは精神的な病でしょうか。経済 的な困窮でしょうか。様々な予期せぬ災いでしょうか。もちろん、一つ一つ は大きな問題です。しかし、メシアが苦しみを受けて死に、そして復活しな くてはならないのは、人間の根元的な悲惨がもっと深いところにあるからで す。すなわち、人間が神に背いている罪人であるという現実です。神に背い た罪人として生き、そして神に背いた罪人として死んでいなかなくてはなら ないという現実です。その悲惨からこそ救われなくてはならないのです。何 よりもまず、神と人間とを隔てている罪が取り除かれなくてはなりません。 罪が贖われなくてはなりません。人間は罪を赦された者として、神のもとに 回復されねばならないのです。
それゆえ、私たちは罪から救われなくてはならないものとして、主イエス に向かって次のように言い表すのです。「あなたはメシアです。私たちのた めに十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったメシアです。あ なたこそ生ける神の子です」と。これが岩です。教会の土台です。この岩以 外に、いかなるものも教会の土台にはなりません。この岩の上にこそ、キリ スト御自身が教会をお建てになるのです。それがキリストの教会です。
そして、そのようなキリストの教会であるからこそ、キリスト御自身がこ う宣言されるのです。「陰府の力もこれに対抗できない」と。「陰府の力」。 文字通りには「陰府の門」。陰府とは死の世界です。ですから、これは「死 の力」「死の門」と言いかえてもよいでしょう。死の力がいかに強大である か、私たちは皆、良く知っています。確かに死は最後にして最大の敵です。 そして、いかなる人も死の力にはかないません。いかなる権力者も、いかに 屈強な人でも、いかに裕福な人でも、いかに優秀な人でも、必ず死に飲み込 まれていきます。陰府の門はすべてを飲み込んでしまいます。しかし、キリ ストは言われたのです。「陰府の力も教会に対抗できない」と。
私たちが、キリストの建て給うキリストの教会の中に立っているなら、私 たちは陰府の力も揺るがすことのできない岩の上に立っているのです。私た ちが十字架にかけられたメシア、復活して今も生きておられるメシアへの信 仰を土台としている教会の中に立っているなら、もはや陰府の力、死の力を 恐れる必要はないのです。そこにおいて、私たちはもはや神から失われた罪 人として死ぬ必要はないからです。死はもはや私たちを神から引き離し滅ぼ すことはできないからです。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。キリストは今もなお、 御自分の教会を建てる御業を続けておられます。キリストは二千年前も今日 も、同じ土台の上に教会を建ててくださっています。私たちがキリストの教 会であるならば、そしてキリストの教会であり続けるならば、この変わらざ る土台を大切にしなくてはなりません。今日も主は私たちに問われます。 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。