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「わたしに従いなさい」

2004年3月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ19・16‐26

 本日の聖書箇所は、一人の男が主イエスに投げかけた一つの問いから始ま ります。彼は主イエスにこう尋ねたのです。「先生、永遠の命を得るには、 どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19・16)。

●どんな善いことをすれば

 彼は「青年」(20節)です。「たくさんの財産を持っていた」(22節) と書かれています。ルカによる福音書によれば、彼は「議員」です(ルカ1 8・18)。最高法院に議席を持つ人のようです。しかも、彼はユダヤ人と して、モーセの律法を「みな守ってきました」(19・20)と明言するこ とができました。ルカによる福音書では、「そういうことはみな、子供の時 から守ってきました」(ルカ18・21)と書かれています。ユダヤの伝統 的な堅実な家庭に育ち、敬虔な父母のもとにあって、幼い時から良い家庭教 育を受けてきた人であることが伺えます。

 このように、彼は人が求めてやまない多くのものを既に手にしていた人で した。若さがありました。お金もありました。地位と名誉もありました。良 い家庭環境にも恵まれました。このような人は幸いな人と呼ばれます。実際、 彼は幸福であったに違いありません。しかし、彼にはなお求めてやまない一 つのものがありました。彼はまだ決定的に重要な一つのものを得ていないこ とを認識しておりました。そのことのゆえに、彼は主イエスのもとを訪ねて きたのです。そして、こう問いかけたのでした。「先生、永遠の命を得るに は、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。

 ここで求められている「永遠の命」とは、不老不死のことではありません。 ユダヤ人が「永遠の命を得る」と言った場合、それは「神の国に入る」と言 い換えることができます。つまり、その人生が最終的に神によって良しとさ れ、その人が神によって義とされ、神によって受け入れられることを意味し ます。彼にとって最終的に重要なのは、彼の人生が《人間の目に》良しとさ れるか否かではありませんでした。そうではなくて、決定的に重要なのは、 《神の目に》良しとされるか否かでありました。しかし、彼には確信があり ませんでした。本当に神に良しとされるのか、義とされるのか、その確信が ありませんでした。神の国に入れられるのか、永遠の命を得られるのか、そ の確信がなかったのです。

 それゆえに、彼の魂は、その切実なる問いの答えを欲してやみませんでし た。そして、そのような彼の前に、ナザレのイエスと呼ばれる人物が現れた のです。「この御方こそが答えを持っているに違いない」――いつしか、そ のような思いが彼を捕らえて放さなくなりました。そして、ついに彼は意を 決して、主イエスのもとを訪ねたのです。多くの指導者たちがイエスに敵対 しはじめていました。しかし、彼は勇気を振り絞って、一つのことを問うた めにやってきたのでした。彼は尋ねます。「先生、永遠の命を得るには、ど んな善いことをすればよいのでしょうか」。

 しかし、驚いたことに、主イエスの口から返ってきた言葉は、なんら特別 な言葉ではありませんでした。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」 (17節)。これは一般的なユダヤ教の教師ならば、だれもが口にするよう な言葉です。しかし、この人は諦めません。「どの掟ですか」と食い下がり ます。答えはそんな当たり前のことであるわけはない。何か特別な掟につい て言っているに違いない。そう彼は思ったのでしょう。しかし、次の言葉も、 拍子抜けするほどに、ごく当たり前のことでした。「掟」と言えば真っ先に 思い浮かぶのはモーセの十戒です。主は十戒のいくつかと、レビ記の言葉を 挙げただけでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬 え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。しかし、この人は、なんとか して真の答えを主イエスの口から引き出そうといたします。彼は言いました。 「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。

 この青年は決して自分自身を誇ってそう語ったのではないでしょう。少な くとも、彼は何かが欠けていることを自覚しているのです。その点において、 この青年は、律法の遵守を誇り、そのことによって自分を義としている他の ファリサイ派の人々とは異なりました。主はそのような彼の態度を好ましく 思ったようです。マルコによる福音書では、「イエスは彼を見つめ、慈しん で言われた」(マルコ10・21)と書かれています。主は、ついに彼の求 めに答え、彼に決定的に欠けている一つのことを明らかにされました。しか し、それは驚くべき言葉でありました。「もし完全になりたいのなら、行っ て持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積む ことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)と主は言われたの です。主の言葉はこの青年の肺腑をえぐりました。そして、この青年は、そ れ以上主に問うことなく、悲しみながら立ち去っていったのです。

●欠けているのはキリスト

 さて、このような主イエスの言葉に、私たちも驚きを禁じ得ません。あま りに極端な言葉に思えます。しかし、そのような言葉であるからこそ、私た ちは注意深く耳を傾けねばなりません。主イエスは、この人に、持ち物を売 り払って貧しい人々に施すことを求めました。しかし、「十戒を守ることに 加え、さらに持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば永遠 の命が得られる」とは言いませんでした。「そうすれば、天に富を積むこと になる」と言われただけです。主が最終的に求めておられるのは、「施すこ と」ではありません。良く御覧ください。主はこう言っておられるのです。 「わたしに従いなさい」。主は弟子たちを招いたように、この人をも従うよ うにと招いておられるのです。つまり、彼に欠けているのは、一つの何らか の「善いこと」ではないのです。そうではなくて、一人の御方なのです。彼 に欠けているのはキリストなのです。彼はそのことに気づかねばならなかっ たのです。

 ということは、そもそも問いの立て方そのものが間違っていたということ を意味します。彼の最初の言葉をもう一度御覧ください。彼は主に尋ねまし た。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょう か」。その時、主イエスはこう答えられたのです。「なぜ、善いことについ て、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」。お分かりになります でしょうか。この青年と主イエスとでは、見ている方向が全く異なるのです。 この青年は、自分の行いの方向にしか目を向けていないのです。そして、そ の善い行いが神に義とされるために十分であるか否かということしか考えて いないのです。そうやって人間の行いの事ばかり考えている内に、「善いこ と」ならぬ「善い方」のことが関心の中心から外れてしまっているのです。

 この青年が永遠の命を得るために必要であったのは、為すべき幾つかの 「善いこと」ではありませんでした。重要なのは「善いこと」ではなく「善 い方」なのです。そして、その善い御方が善い御心をもって遣わしてくださ った救い主・キリストが現に目の前におられたのです。この御方こそが決定 的に重要なのです。なぜなら、それほどに人間は永遠の命から、神の国から 遠いからです。それほどに人間は深く罪によって捕らえられているからです。 人間が、善い行いを一つ二つ加えたぐらいでは、ちょっとやそっと人生を修 正したぐらいでは、到底、神によって義とされることはないのです。それゆ えに、この人に必要なのは、「もっと善いことをしなさい」と言われること ではなかったのです。救い主によって「わたしに従ってきなさい」と言われ ることだったのです。

 では、なぜ主イエスはこの人に、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々 に施しなさい」と言われたのでしょうか。この言葉をすべての人に当てはめ ることはできないでしょう。実際、主は他の人々に同じことを求めてはおら れません。主イエスがこの青年に財産の処分と施しを求められたのは、《こ の青年にとっては》その言葉が必要だったからです。つまり、この青年がキ リストに従うことを、他ならぬ彼の財産が妨げることを、主はご存じだった からです。

 しかし、考えてみますならば、人がキリストを信じて従うことを妨げるの は、何も金銭という形の財産だけではありません。人間の存在に関わるあり とあらゆるものが、同じような妨げとして働くものです。ある人にとっては、 お金のことよりも、むしろ自分に関わる様々な人間関係の方が重要かもしれ ません。家族や友人との関係は、それ自体は善きものであると言えるでしょ う。それはその人の財産です。しかし、それらがキリストを信じて従うこと を妨げることがあり得ます。そうしますと、この青年に語られたことは、全 く文字通りすべての人に当てはめられるわけではないにせよ、多かれ少なか れ私たち皆に関係すると言えるでしょう。キリストに従って行こうとする時 に、妨げる何かを手放さなくてはならないということはあり得るからです。

 さて、弟子たちはこの一部始終を見ておりました。真面目で律法に忠実な 青年、永遠の命を得るに相応しいと見えた青年が、悲しみながら立ち去って しまいました。そして主は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の 穴を通る方がまだ易しい」(24節)と言われたのです。弟子たちは驚いて つぶやきました。「それでは、だれが救われるのだろうか」。すると、主は 彼らを見つめてこう言われます。「それは人間にできることではないが、神 は何でもできる」。

 このやりとりを見ると、どうも弟子たちの心もまた、人間の行いや状態と いうものに深く捕らわれていたようです。弟子たちもまた、人間を救うこと のできる「善い方」の方に向けられねばなりませんでした。そして、弟子た ちは、やがて「善い方」の御業を目の当たりにし、本当に「神には何でもで きる」ということを明らかに啓示されることとなりました。神は何でもでき る――そうです、神は私たちの罪を贖って私たちを救うために、キリストを 十字架にかけて殺し、三日目に復活させることさえできる御方なのです。私 たちの心もまた、「善いこと」以上に、「善い方」に向けられねばなりませ ん。その善き方が遣わされた救い主が、今も私たちを招いてくださっていま す。「わたしに従いなさい」と。

 
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