「祈りの家」
2004年3月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ21・12‐17
今日の聖書箇所の直前には、主イエスがエルサレムに入城された様子が記 されています。大勢の群衆が、エルサレムへと上る主イエスの旅に伴ってお りました。そして、ついにエルサレムが見えたとき、人々の期待は一気に高 まり、その熱狂は頂点に達します。(ついに時が来た!エルサレムが異邦人 の支配から解放される時が来た!イスラエルの国がローマ人の手から救われ、 ダビデの王座が回復せられ、建て直される時がやってきたのだ!)ある者は 自分の服を道に敷き、また、ほかの者は木の枝を切って道に敷き、前を行く 者も後に従う者も口々にこう叫びました。「ダビデの子にホサナ。主の名に よって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(9節)。
こうしてキリストはエルサレムに入られたのです。しかし、その直後に、 キリストは神殿において驚くべき行動に出られたのでした。実は、マルコに よる福音書では翌日の出来事とされているのですが、マタイはわざわざエル サレム入城の直後のこととして描いております。つまり、エルサレムにおい て救いを求める人々が最初に目にしたのは、神殿の境内において両替人の台 を覆し、売り買いしている人々を追い出すキリストのお姿だったというので す。
●強盗の巣
12節以下を御覧ください。次のように書かれております。「それから、 イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、 両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。『こう書い てある。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あ なたたちはそれを強盗の巣にしている』」(12‐13節)。
たいへんショッキングな場面です。誰が見ても明らかに異常な行動です。 主イエスはどうしてそのような乱暴なことをされたのでしょうか。その答え は、主御自身の言葉に求められねばなりません。主イエスは、この時、「わ たしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」という、イザヤ書の言葉を引 用されました。ということは、主の目から見て、神殿はもはや「祈りの家」 ではなかった、ということです。いや、祈りの家でなかっただけではありま せん。さらに主はこう言われたのです。「あなたたちはそれを強盗の巣にし ている」と。
「強盗の巣」とは、あまりに過激な言葉ではないでしょうか。しかし、主 がその言葉を用いられたのには理由があります。かつて同じようにエルサレ ムの神殿で、その言葉を語った男がいたのです。預言者エレミヤです。その 時の彼の言葉は旧約聖書に残されています。エレミヤ書7章3節以下を御覧 ください。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。 そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、 主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。…しかし見よ、お 前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった 異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわた しの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきこと をしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たち の目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主 は言われる」(エレミヤ7・3‐11)。
この預言が語られたのは紀元前七世紀の終わり頃です。ヨヤキムという王 がユダの国を治めていた時代でした。ヨヤキムは、エジプトの王によって立 てられた王です。そのことからも分かりますように、それはユダの人々が大 国エジプトの力に脅かされていた時代でありました。そして、そのような社 会の不安は、人々を神殿へと駆り立てたのです。この時代、神殿における礼 拝は非常に盛んに行われていたのでした。まじないのように繰り返される 「主の神殿、主の神殿、主の神殿」という言葉は、いかに彼らが主の神殿を 心の拠り所としていたかを示しています。人々は、心の平安を求め、エジプ トからの守りを求めて、神殿に殺到したのです。
神殿が多くの人々で賑わっている。結構なことではありませんか。しかし、 神はエレミヤを通して、彼らに対して、実に厳しい言葉を投げかけられたの でした。そのようなむなしい言葉に依り頼んでも、それは救う力を持たない、 と言われたのです。なぜでしょう。このユダの危機において、神が求めてお られたのは、真実な悔い改め以外の何ものでもなかったからです。主は言わ れるのです。「お前たちの道と行いを正せ」と。しかし、神殿において礼拝 は盛んに行われていながら、そこには真実な悔い改めも、神の言葉への従順 もありませんでした。神に背いたままで、ただ迷信的に神の守りだけを求め る人々の群れだけがそこにあったのです。彼らにとって神殿は、ただ安心を 得るために身を寄せる逃れ場でしかありませんでした。それは強盗が悪事を 働いた後に安心して身を隠す隠れ家と少しも変わりません。ですから、神は それを「強盗の巣窟」と呼ばれたのです。
それから約六百四十年を経て、キリストはかつてのエレミヤのように神殿 に立ち、同じ言葉を用いて語られたのでした。「こう書いてある。『わたし の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを 強盗の巣にしている」と。主イエスが神殿を見た時、そこに「祈りの家」は ありませんでした。そこに真実な礼拝はありませんでした。そこに神との生 きた交わりはありませんでした。かつてのエレミヤの時と同じように、神殿 はただ守りと安心を得るための強盗の巣窟となっていたのです。それゆえに、 エルサレムに入ったキリストは、まず神殿へと向かわれ、そこにおいて実に 過激な行動に出たのです。
私たちは、人間の救いを実現するためにエルサレムに来られたキリストの 最初の行動が、神殿のあり方に対する激しい抗議であったことを心に留めね ばなりません。かつてエレミヤの時代、エルサレムの人々はエジプトの脅威 を問題にしました。彼らはエジプトからの救いを求めていました。しかし、 エレミヤは、神と人との関係がどうなっているのかを問題にしたのです。主 イエスの時代、人々はローマ人の支配を問題にしました。そして、ローマか らの救いを求めていました。しかし、主は神と人との関係がどうなっている かを問題にされたのです。私たちはどうでしょう。救いが語られる時、私た ちはいつでも外から私たちを苦しめる外的な力を問題にいたします。私たち は重荷が取り除かれ、苦しみから解放されることを第一に願います。しかし、 救い主はまず、私たちと神との関係を問題にされるのです。キリストはまず 神殿に赴かれたのです。キリストは、祈り、礼拝、神との交わりこそが、人 間の救いにおいて決定的に重要な事柄であると見ておられるのです。
●祈りの家の回復
さて、そのようにキリストの怒りに満ちた実力行使が記されている一方で、 たいへん不思議なことですが、そのようなキリストのもとに近づいていく人 々の姿が描かれております。「境内では目の見えない人や足の不自由な人た ちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」(14節)。
目の見えない人や足の不自由な人たち。彼らは境内までしか入ることが許 されていませんでした。それは「目や足の不自由な者は神殿に入ってはなら ない」(サムエル下5・8)という言葉が、ダビデに由来するものとして言 い伝えられていたからです。彼らは神殿の礼拝から排除されてきた人々です。 しかし、その彼らの目や足がキリストによって癒されたのでした。それは単 に肉体的な苦しみが取り除かれたということ以上の意味を持っていました。 ここで重要なことは、彼らが礼拝者として回復されたということです。その 意味において、ここで起こっている出来事は、主が徴税人や罪人たちを招か れたのと同じ線上にある出来事です。神殿における礼拝が、キリストの言葉 によって裁かれ、清められる一方で、それまで礼拝から排除されていた者が 礼拝者として回復され、神との交わりへと招かれたのでした。そして、それ は主イエスの癒しの奇跡として描かれているのです。つまり、それはただ神 の一方的な憐れみによる御業として語られているのです。
またこの癒しの奇跡と共に、子供たちのことが記されています。子供たち は、この一連の出来事が起こった同じ境内で、「ダビデの子にホサナ」と叫 んで、キリストを賛美していたと言うのです。祭司長たちや律法学者たちは このことを問題としました。主イエスの行動は、神殿の当局者からすれば、 明らかに宗教的権威に逆らう問題行動であり、神への冒涜でしかありません でした。そして、そのような行動を取った者を、子供たちまでが「ダビデの 子にホサナ」と言って讃えているのは、まことに許しがたいことだったので す。彼らは、主イエスに言いました。「子供たちが何と言っているか、聞こ えるか」。要するに、こんな冒涜的なことは早く止めさせろと、というわけ です。
しかし、主イエスは詩編の言葉を引用して、彼らにこう答えたのです。 「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌 わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」(16節)。つまり、こ こに起こっていることは、まさに詩編に歌われていることの実現に他ならな いのです。これは、子供の方が大人より真実が見えるとか、鋭い感性と理解 力を持っている、ということを言っているのではありません。ここで重要な のは、《神が》賛美を歌わせた、ということです。神が子供たちの口に賛美 をさずけたのです。つまり、目の見えない人や足の不自由な人に起こったの と同じように、キリストがおられることによって、この子供たちの上にも、 ただ神の御業として、新しいことが起こっているのです。自分たちこそ礼拝 者であると思い込んでいる人々が神殿を強盗の巣にしてしまっている一方で、 礼拝者の数に入れられていなかった子供たちが礼拝者とされているのです。 このように、私たちがこの聖書箇所に見るのは、ただ祈りの家が強盗の巣に なっている現実を裁かれるキリストの姿だけではないのです。そこには祈り の家を回復するキリストの姿が描かれているのです。
この出来事の数日後、キリストは十字架にかけられました。人々が望むよ うな形において救いは実現しませんでした。ローマ人は依然としてイスラエ ルを支配しておりました。しかし、確かにキリストは救いのためにエルサレ ムに入城されたのであり、その救いは実現したのです。キリストの十字架と 復活を通して、この地上において罪の赦しが与えられ、神との命の交わりが 実現する、真の祈りの家が建て上げられたからです。目に見える神殿はそれ から四十年ほどして破壊されてしまいました。しかし、キリストの体である 教会という祈りの家は今も変わることなく存在しております。私たちもまた、 真の礼拝者として、神との交わりに生きるようにと、この祈りの家に招かれ たのです。キリストにおけるこの神との永遠の交わりにこそ、私たちの救い があるのです。