「実り豊かに」                        ガラテヤ5・16‐23  今週の説教題は「実り豊かに」とさせていただきました。その「実り」と は、本日の聖書箇所に記されています「霊の結ぶ実」のことです。その豊か さは、九つの言葉によって表現されています。「愛、喜び、平和、寛容、親 切、善意、誠実、柔和、節制」。九つありますがなぜか「実」という言葉の 方は単数です。それは新共同訳のように、「愛」が代表として語られ、続く 八つはそれに含まれると考えられているのかもしれません。あるいは、それ ぞれが別々の実ではないということが強調されているのかもしれません。い ずれにせよ、ある人には一つ、ある人には別な一つ…ということではなく、 これらすべてを一つの実として結ばせてくださる、ということなのでしょう。 今日は、そのように私たちに実を結ばせ、実り豊かに生かしてくださる聖霊 のお働きについて、そして、その聖霊の導きに従って歩むことについて、御 一緒に考えたいと思います。 ●肉の業  一見して明らかなように、22節の「霊の結ぶ実」が対比されているのは、 その前に書かれている「肉の業」に対してです。19節以下を御覧ください。 「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、 敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、 その他このたぐいのものです」(19‐21節)。  ここでパウロが言っている「肉」とは「肉体」のことではありません。肉 体そのものを悪とする思想はパウロの内にはありません。この「肉」とは、 生まれながらの罪深い人間性のことです。そして、肉の働きは心の中に留ま らず、外に現れてまいります。肉の業は明らかなのです。ここで肉の働きの 現れを、パウロは十六ほど列挙しています。思いついたままに挙げているよ うですが、あえて分ければ四つに分類され得ます。  まず挙げられているのは「姦淫、わいせつ、好色」です。これらは性的な 乱れと放縦です。性の交わりが神から賜った聖なる賜物であることを忘れ、 神の秩序を外れて人間の欲望のままに濫用することです。性的な乱れは人間 関係を混乱させ、人生を混乱に陥れ、自分自身をも周りの人々にも不幸をも たらします。そして、何よりもこれは、性を良きものとして祝福された神に 対する恐るべき冒涜なのです。次に挙げられているのは「偶像礼拝、魔術」 です。すなわち、神とその力を意のままに用いようとする人間の欲求の現れ です。生まれながらの堕落した人間性は、神に仕えることを望まず、神を自 分に仕えさせようとするのです。第三に挙げられているのは、「敵意、争い、 そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」です。これらはすべて人 間関係に関わります。一番長いリストになっています。これが肉の働きとし ては最も身近であり一般的であるということなのでしょう。このように、肉 の働きは、私たちが他者と共に生きることを困難にするのです。さらに、 「泥酔、酒宴」が挙げられています。飲酒に関わる肉の働きです。しかし、 肉の業のすべてを語り尽くすことは到底不可能なのであって、彼はこのリス トを「その他このたぐいのものです」と纏めざるを得ませんでした。  さて、やっかいなことに、この諸々の業をなす「肉」は、キリストを信じ た後にも、決して死滅してはいません。しっかりと生きています。ですから、 ここに挙げられている「肉の業」は、キリスト者と決して無関係ではありま せん。しかし、もしその人がキリストを信じ、聖霊がその人の内に住んでお られるならば、その「肉」が欲して行おうとすることに対して否を唱え、反 対の方向に引いて行こうとするもう一つの意志、もう一つの力が働いている 筈です。すなわち、聖霊の意志であり、聖霊の力です。  17節を御覧ください。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところ は、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、 自分のしたいと思うことができないのです」。そこには、聖霊の働きがある ゆえに、葛藤もまた生じています。それは人間が元々持っている道徳的な葛 藤とは異なります。聖霊によって新たにもたらされた葛藤です。キリストを 信じた者であるゆえの葛藤です。そのように、本当の意味で罪が問題となり、 意識に上るようになるのは、キリスト者となった後であると言うことができ ます。自分の罪深さに真に涙を流すようになるのは、キリスト者となった後 なのです。洗礼を受けた後に、心の中に葛藤が生じたり、自分の罪深さに悩 んだりしたとしても、驚いてはなりません。それは当然のことなのです。聖 霊が来られたのですから。肉と霊とは対立し合っているからです。  しかし、人は自分の内に葛藤があることを好みません。ですから、手軽に その葛藤を回避しようといたします。そして、こう主張するようになるので す、「我々は律法から自由にされたのだ。もはや律法は廃止されたのだ。わ たしには、すべてのことが許されているのだ」と。13節で、パウロはこう 書いています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出された のです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互 いに仕えなさい」。「肉に罪を犯させる機会とせずに…」と書いているとい うことは、実際には、肉に罪を犯させる機会としていた人たちがいた、とい うことを意味します。つまり、キリストによって与えられた自由を言い訳と して、肉に従うことを正当化する人たちがいたということです。  しかし、そのようにして、肉に従い続けるということは、いったい何を意 味するのでしょうか。それは些細なことでしょうか。いいえ、決してそうで はありません。パウロはそのことについて既に何度もガラテヤの信徒に語っ ていたようです。そして、今、再び彼らに警告を発します。「以前言ってお いたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神 の国を受け継ぐことはできません」(21節)と。「このようなことを行う 者」とは、「一度でも行ってしまった者は」という意味ではありません。あ くまでも行い続ける者のことです。肉に従い続けることです。その先に神の 国はないのです。 ●霊に従って歩みなさい  それゆえに、私たちは肉に従って歩んではならないのです。聖書は「霊の 導きに従って歩みなさい」(16節)と私たちに命じているのです。確かに、 肉は生きています。肉が私たちを引きずっていくこともあるでしょう。しか し、引きずられたままであってはなりません。肉に従っている自分を正当化 してはなりません。私たちはあくまでも、肉ではなくて、聖霊が私たちとそ の生活を支配することを、求めていかなくてはならないのです。聖霊なる神 によって完全に支配されること――これを聖書は「聖霊に満たされる」と表 現します。私たちは、「霊(聖霊)に満たされなさい」(エフェソ5・18) と命じられているのです。  確かに、私たちが、神によって義とされ、受け入れられるのは、キリスト の贖いの御業によるのであって、私たちの行いとは無関係です。パウロ自身 も、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義 とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、 律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでし た」(ガラテヤ2・16)と言っています。しかし、私たちがキリストの贖 いの犠牲のゆえに罪を赦され義とされることは、神の最終的な目的ではあり ません。それはむしろ神が与えてくださった出発点なのです。そこから、聖 霊の導きを求め、聖霊の支配を求める生活、聖霊の導きに従って歩んでいく 生活が始まるのです。それこそが、私たちの信仰生活です。  そして、そのような生活の中において、私たちが日本基督教団信仰告白に おいて言い表していることが実現していくのです。「神は恵みをもて我らを 選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまう」。 しかし、そこで終わってはいません。その後に私たちはこう続けます。「こ の変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御 業を成就したまう」。  このように、聖霊が実を結ばせてくださいます。その実は義の実であって、 今日の聖書の言葉によるならば、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠 実、柔和、節制」です。特に、肉については「肉の業」と言われていたのに 対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られていることに注意してください。 実は私たちが作るべきものではなくて、《実る》ものです。実は命から生ず るのです。命の現れなのです。  私たちは、何らかの規範や規則に従うことによって、愛の人になることは できません。どんなに努力したとしても、喜びと平和に満ちた人になること はできません。寛容以下のすべての事柄についても、同じことが言えます。 これらは獲得すべき徳目ではなくて、神の命の現れとして生じるものなので す。リンゴの実を得るために、一生懸命にリンゴの実を「作ろう」とするな らば、それは愚かなことです。リンゴの実はリンゴの木に実るのです。です から、大切なことは、リンゴの木を育てることです。同じように、私たちに とって大切なことは、「愛、喜び、平和…」を私たちの人生に作り出そうと することではなくて、霊に従って歩む信仰生活をしっかりと育てて確かなも のとすることなのです。   そして、「霊に従って歩む」ということについてもう一言。「霊に従って 歩む」ことは、明らかに「主観的な判断に従って歩む」こととは異なります。 しかし、現実には、残念ながら、単なる主観的な判断でしかないものが「聖 霊の導きである」と主張される危険がないわけではありません。その場合、 正しい判断のために、二つのことを心に留めておくことは有益でしょう。一 つは、既に見たように、「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、 肉に反する」(17節)ということです。「聖霊の導き」として行われた事 が、結果として19節以下に見るような「肉の業」を生み出すとするならば、 「聖霊の導き」という主張が明らかに間違っているのです。もう一つは、 「霊の結ぶ実は愛であり、…」という実に関する記述です。「聖霊の導き」 として行われることが、この聖霊の実とは相容れないことであるならば、や はり「聖霊の導き」という主張が間違っていることになるでしょう。  このように、「霊の導きに従って歩みなさい」という命令には、上記のよ うな困難や危険が伴いますが、しかしだからと言って、この言葉を簡単に脇 に除けてはなりません。これは信仰生活の本質に関わるからです。私たちは、 上記の判断基準を心に留めながら、聖霊に従う生活をひたすら求めていきた いと思います。そして、聖霊の結ぶ豊かな実を見せていただきましょう。 附記  この説教の中に「日本基督教団信仰告白」への言及があります。御参考の ために、その全文を記しておきます。 「我らは信じかつ告白す。  旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示 し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、 救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤り なき規範なり。  主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の 神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人 の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神 にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。  神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪 を赦して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義 の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。  教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会 は公の礼拝を守り、福音を正しく宜べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼 典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。  我らはかく信し、代々の聖徒と共に、信徒信条を告白す。  我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、 イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、 陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父な る神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き たまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、 身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。」