「美しい行い」
2004年3月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ26・6‐13
今日の聖書箇所は、ある人が主イエスに対して行った一つの行為を伝えて います。その人がしたことについて、主はこう言われました。「はっきり言 っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のし たことも記念として語り伝えられるだろう」(13節)。果たして主が言わ れたとおりになりました。その人がしたことは、実に極東の島国にまで語り 伝えられました。これはたいへん不思議なことであると言わざるを得ません。 それはエルサレムの都において起こったことではありませんでした。社会を 揺るがすほどの大事件でもありませんでした。世界中に伝えられるほどのニ ュースバリューがあったとも思えません。にもかかわらず、事実、この物語 は私たちの手元まで届けられたのです。さて、その人がしたことは、時間的 にも空間的にも遠く離れた私たちにとって、いったいどんな意味を持ってい るというのでしょうか。
●受け入れられた奉仕
はじめに6節以下を御覧ください。「さて、イエスがベタニアで重い皮膚 病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った 石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注 ぎかけた」(6‐7節)。
場面を想像してみてください。食事中です。そこに香油の壺を持ってきた 女性が入ってきて、いきなり主イエスの頭にその香油を注ぎかけました。マ ルコによる福音書では「…ナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、そ れを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(マルコ14・3)となってい ます。チョロチョロと少しばかり注いだのではありません。壺を壊して、中 に入っていた油を全部注いでしまったのです。これがどのような事態を引き 起こすか、容易に想像がつくでしょう。食事をしていた主イエスの髪の毛も 髭も衣服も香油でベタベタになりました。油は食事の中にまで滴り落ちてい ます。そもそも香油は頭から全部を注ぎかけて使うようなものではありませ ん。その部屋一杯にむせ返るような香油の匂いが充満して、もはや食事どこ ろではありません。主イエスにとっても、周りの人々にとっても、はなはだ 迷惑な話です。
この人はいったい何故このような奇行に走ったのでしょうか。実は、この 人が誰であり、なぜこのようなことをしたのか、ということについて、マタ イは何の説明も加えてはいないのです。確かに「この人はわたしの体に香油 を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」という主イエスの言葉は記され ています。しかし、それがこの女性の意図ではないでしょう。通常は死んだ 人に香油を注いで葬るわけでありまして、生きている人に香油を注いで葬っ たりはしないのですから。結局、なぜこの人がこのような行動を思い立った のかは分からずじまいです。
とはいえ、それでも明らかなことはあります。この香油は高価なのです。 それを全部注ぎだして主イエスに与えてしまったのです。それほどまでに、 この人は主イエスを愛していたのだ、ということだけは言えるだろうと思う のです。ともかくこの行為は、この人にとって精一杯の愛の表現だったに違 いありません。
しかし、その人の意図が何であれ、奇行はあくまでも奇行です。その異常 な行動に対する当然の反応が起こることは避けられません。8節以下を御覧 ください。「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『なぜ、こんな無駄 使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに』」(8 ‐9節)。
弟子たちがこう言うのも無理ありません。どう考えても勿体ない。マルコ による福音書には、その香油のおおよその値段が示されています。人々は 「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができた のに」(マルコ14・5)と言いました。300デナリオンと言えば普通の 労働者にとって一年分の労賃です。今のお金にすれば数百万円というところ でしょう。それが一瞬にして流れ去ってしまったのです。しかも、その結果 は客観的に見るならば、当の主イエスにとっても、周りの人々にとっても、 迷惑以外の何ものでもありません。先ほど、これは彼女の精一杯の愛の表現 だった、と申しました。しかし、愛を示すならば、もっと思慮に富んだ方法 がいくらでもあったはずです。私たちがその場にいたならば、この弟子たち と同じことを言ってこの女性を責めていたことでしょう。
ところが、驚いたことに、主イエスの言葉は、周りの人々の言葉とは全く 異なっていたのです。10節を御覧ください。「なぜ、この人を困らせるの か。わたしに良いことをしてくれたのだ」(10節)。なにか、この光景が 目に浮かぶような気がしませんか。ベタベタになった頭を拭いもせずに、髪 の毛と髭から香油をポタポタ垂らしながら、主イエスは困った顔一つされな いで言われたのだと思います。「いいじゃないか。なぜ、この人を困らせる のか。この人はわたしに良いことをしてくれたのだよ」と。この「良いこと 」という言葉は、別の言葉に訳すならば「美しいこと」となります。主はこ の女性の行動を「美しいこと」と表現したのです。そのような美しい行為と して受け入れてくださったのです。
さて、私たちはここで、この人の愛が純粋であったとか完全であったなど ということは、何一つ語られていないことに注意を払わねばなりません。そ の香油が高価だったものですから、それを惜しまずに注いだこの人の主イエ スに対する愛は純粋で美しいものであったに違いないなどと、ついつい私た ちは思い込んでしまいます。そうやって聖書に出てくる人物を美化してしま うのです。そして、その心の美しさのゆえに、主は彼女の行為を「美しいこ と」として受け入れてくださったのだ、と勝手に解釈してしまうのです。し かし、ここで重要なのは、この女性の払った犠牲の大きさでも、この人の動 機の純粋さでもないのです。そうではなくて、《主イエスがその行為を受け 入れてくださった》という一事こそが重要なのです。
この人の行為は、客観的に見れば、やはり愚かで奇妙な行為でしかないの です。この人の愛は純粋だったか。確かにそうとも言えるかもしれません。 しかし、見方を変えるならば、自分の思いばかり先走って相手のことを考え られない、まことに幼稚な自分本位の愛であると言うこともできるでしょう。
いいえ、私たちは、他人のことをとやかく言えた義理ではありません。私 たちも同じであろうと思うのです。「キリストのために」と私たちは口にし ます。いや口にするだけでなく、本当に心から「キリストのために」と思っ て何かをしているかもしれません。しかし、キリストから見れば、まったく 見当はずれなことをしているかもしれないのです。キリストの御心には無頓 着なまま、ただ自分の思いばかりが先走っていることが、私たちにもいくら でもあろうかと思うのです。私たちの捧げる礼拝や奉仕はどうでしょう。そ れこそ一生懸命に準備をし、純粋な心をもって《立派な》礼拝を捧げている つもりでいるかもしれません。しかし、本当は、キリストの頭に香油をかけ てベタベタにするようなことしかしていないかも知れないのです。
しかし、そのような私たちは、ここで主の驚くべき言葉に出会います。 「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」。こ こに私たちは、人間の愚かな奉仕をもまた喜んで受け入れてくださるキリス トの姿を見い出すのです。キリストがただその恵みにより「良いこと」「美 しいこと」と呼んでくださる。そこにこそ、私たちがキリストに仕え得る根 拠があるのです。
●主の葬りの準備として
そして、なお一つの事を心に留めたいと思います。主イエスは、この女性 のしたことについて、「わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われただ けでなく、さらにこう続けられました。「貧しい人々はいつもあなたがたと 一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの 体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。 世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記 念として語り伝えられるだろう」(11‐13節)。
主イエスは、この出来事の直前に、自分が十字架につけられる時の近いこ とを予告しておられました。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過 越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(2節)。 ここでも主は「わたしはいつも一緒にいるわけではない」と語られます。主 イエスはまっすぐに御自分のかかるべき十字架を見つめておられるのです。 ここに語られている主の言葉はすべて、十字架における御自分の死を思いつ つ語られた言葉なのです。十字架の上でやがて死にゆく者として、主はこの 女性の奉仕を受け入れられたのです。
先にも触れましたように、この女性の意識の中には、まさか自分が葬りの 用意をしているなどという思いは微塵もなかったに違いありません。しかし、 主が言われたことは正しかったのです。この人以外に、主の御体に香油を塗 ることのできた人は、ついに一人もいなかったのです。主イエスが処刑され たのは安息日の前日であり、日が沈む前に大急ぎで取り降ろされ、ただ亜麻 布で包まれただけで香油を塗られることもなく葬られたからです。安息日が 明けて、女たちが香料をもって墓に行った時には、既に主イエスは復活して そこにはいませんでした。
ですから、この女性の奉仕は、確かに主イエスを葬る準備に他なりません でした。そのような奉仕として、彼女の行為は、主イエスとの関わりの中に 置かれたのです。この人にすぐれた洞察があったからではありません。この 人のあずかり知らぬところで、ただ神の恵みによって、この女性のしたこと がキリストの死の準備として用いられたのです。主の十字架と、そこにおい て実現する救いを指し示すものとして用いられたのです。そして、ただその ことのゆえに、主はこう言われたのです。「はっきり言っておく。世界中ど こでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として 語り伝えられるだろう」と。
そして、この人のしたことは、確かに遠いこの国にまで伝えられました。 こうして語り伝えられた彼女の行為は、今も主の十字架を私たちに指し示す 美しい行いとして輝いています。そして同時に、彼女の行為は、私たちの奉 仕もまた主に受け入れられ、主の十字架における救いを指し示すものとして 用いられ得るという希望を、今日の私たちに与えてくれているのです。