「キリストの死」
2004年4月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ27・45‐56
今日から受難週に入ります。その最初の日、「棕櫚の聖日」と呼ばれるこ の日に与えられていますのは、キリストの死を伝える聖書箇所です。マタイ による福音書27章の45節から56節までをお読みしました。ここにはい くつかの異常な現象が伝えられております。第一に、昼の十二時であるのに 全地が暗くなり、それが三時まで続いたこと。第二に、キリストが息を引き 取られた時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたこと。第三に、地震が起こっ て岩が裂け、墓が開き、死者が生き返ったことです。
さて、これらの記述を単なる出来事の記録として受け止めるなら、これら はすべて怪奇現象ということになるでしょう。その場合、この箇所は薄気味 悪いホラー映画の一場面のようなものでしかありません。もちろん、マタイ はそのようなものとして、これらのことを書いたわけではありません。私た ちは、マタイがわざわざこれらのことを書き記すことによって伝えようとし たメッセージそのものを、しっかりと受け止めねばならないのです。
●全地は暗くなり
はじめに、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と 書かれていることについて考えてみましょう。この箇所を理解する上で重要 なのは、旧約聖書の背景であると思われます。本来最も明るいはずの真昼が 暗闇となることを告げている旧約聖書の言葉があるのです。アモス書8章9 節以下を御覧ください。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたし は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを 悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわ せ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、 その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8・9‐10)。
「その日」とは神の裁きの日です。「その日が来る」と旧約聖書のアモス は告げました。そして、「その日が来たのだ」と新約聖書のマタイは告げる のです。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。エ ルサレムに十字架が立てられたあの日、まさ神の裁きの日が到来したのです。 神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌 に変えられる日、苦悩に満ちた日が、ついに到来したのです。
しかし、地上に神の裁きが行われる主の日が到来したにもかかわらず、現 実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人 々は嘆きの歌など口にしていなかったのです――たった一人を除いては。神 に見捨てられて嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリ ストだけでありました。キリストだけが大声でこう叫んでおられたのです。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたし をお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。その ように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、苦悩の叫 びを上げておられたのです。
他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢に も思ってはおりませんでした。ある人は言いました。「この人はエリヤを呼 んでいる」と。他の人は言いました。「エリヤが彼を救いに来るかどうか、 見ていよう」。そのように、本来神の裁きを受けるはずであった地上のすべ ての人々は、まったく気づかないでおりました。そのような人々のただ中で、 本来裁かれるはずのない罪なき方が、まるで避雷針のように、すべての人に 代わって神の裁きを一身に受けておられたのです。キリストは神の怒りを、 受けるべき杯として、ただ一人で飲み干しておられたのです。
こうしてただ一人苦難を受けられた主イエスは、最後に大声で叫び、息を 引き取られたました。十字架につけられた者は、次第に衰弱して死んでゆく ものです。ですから、キリストの最期の姿は、自然な死に様ではありません。 その姿は、何か特別なことが起こっていることを示しているのです。主は大 声で最後に何を語られたのでしょうか。この福音書には記されていませんが、 ルカによる福音書にはこう書かれています。「イエスは大声で叫ばれた。 『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」 (ルカ23・46)。それは、キリストがその御生涯の目的を果たし終えら れて、御自分の霊を父なる神にゆだねられた瞬間でした。そして、救い主が この地上における目的を果たされたとするならば、それはまた、この地上に 決定的な何かが始まった瞬間でもあるのです。
何がそこに起こり、何が始まったというのでしょう。聖書は「そのとき」 (51節)という言葉をもって、さらに二つのことを語り始めます。「その とき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。そこで起こっ ていることに、私たちの注意を促しているのです。「見よ!」という言葉で 指し示されているのは、二つの異常な出来事です。もちろん、マタイは、単 に事柄の異常さに注目させようとしているのではありません。先にも言いま したように、大事なのは、それが何を意味しているのかということなのです。
●神殿の幕が裂け
まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに 裂け」たということです。
モーセの時代の幕屋においても、ソロモンの建てた神殿においても、主イ エスの時代の神殿においても、聖所の奥には至聖所(しせいじょ)と呼ばれ る場所がありました。この垂れ幕とは、聖所と至聖所を隔てる幕のことです。 通常、人はその幕の奥に入ることはできませんでした。ただ年に一度大祭司 だけが、入ることを許されておりました。しかも、罪を贖う犠牲の血を携え ることなくして、幕の奥の至聖所に入ることはできなかったのです。
このことは、神と人間との関係を象徴的に表しております。神は聖なる御 方です。そして、人間には罪があります。罪ある人間は、そのままで神に近 づくことはできません。人間の罪が贖われ、取り除かれない限り、人間は神 に近づくことができないのです。
私たちはこのことを良く理解しなくてはなりません。罪は水に流れません。 人間が忘れたら消えるのではありません。罪は決してそのままでは消えませ ん。神の御前に残るのです。罪は命をもって贖われなくては取り除かれない のです。ですから、贖いの犠牲が繰り返し屠られたのです。それは本来神に 裁かれて死ぬはずであった人間に代わって、動物が裁きを受けて死ぬという ことを意味しました。命をもって罪が贖われるとはそういうことです。その ようにして、罪が贖われない限り、人間は神に近づくことができないのです。 そのような神と人間との間に厳然として存在する隔てを表していたのが、あ の神殿の垂れ幕でありました。
しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれてい ますが、正確には「裂かれた」と書かれております。誰が裂いたのか。神が 引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。人間 が裂いたら「下から上まで」となるでしょう。そのように、あの瞬間、キリ ストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。なぜでしょう。 もはや隔ては必要がなくなったからです。もはや神に近づくために、罪の贖 いが繰り返される必要はなくなったからです。というのも、この地上におい て最後の犠牲が屠られたからです。この世の罪を完全に贖う真の犠牲が屠ら れたからです。その犠牲とは、十字架の上で、たった一人で神の裁きを受け て死なれたキリストです。この犠牲のゆえに、神と人間とを隔てる垂れ幕は 引き裂かれ、人間が神に近づく道が開かれたのです。その道が神の御手によ って開かれました。これが、あの瞬間にこの地上において起こった第一のこ とです。
●墓が開いた
そして、さらにこう書かれております。「地震が起こり、岩が裂け、墓が 開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、 イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた 」(51‐52節)。
私たちの目に大地は不動のものと映ります。人間はその確かさの上に家を 建て町を築きます。しかし、大地は決して不動なるものではありません。地 震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂 けるのです。キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事 です。そのことが、この描写によって示されているのです。神の御手が動く 時、最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されるのです。
人間にとって、最も確かなものとはなんでしょう。それは人間が「死ぬ」 ということではないでしょうか。死の支配ほど確かなものはありません。誰 もその支配を免れません。死の中に閉じこめられない者など誰もおりません。 墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かな ことです。そうです、確かなことであったはずでした。しかし、その最も確 かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたの です。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返っ た」という描写によって言い表されているのは、そういうことです。もはや 死は人間を閉じこめておくことができなくなりました。死はもはや人間にと って最終的な意味を持ち得なくなりました。死のとげは除かれました。その ことが、あの瞬間、キリストがこの地上における目的を果たされて死んだあ の瞬間に起こったのだと、この福音書は伝えているのです。
そして、墓が開かれたことが、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記され ていることは重要です。この二つは切り離すことができないのです。キリス トがただ一人神の裁きを受けられ、罪の贖いの犠牲となってくださいました。 人間と神との間にある垂れ幕は引き裂かれ、隔ては取り除かれました。《そ の出来事と共に》、死は支配力を失ったのです。人が神と共にある時、もは や死はその人を支配することはできないのです。人間にとって、死の最終的 な解決はどこにあるのか。それは罪を贖う十字架のもとにあるのです。
このように、私たちは十字架におけるキリストの死によって実現したこと を見てきました。今日から受難週に入ります。あの時、いったい何が起こっ たのか。イースターまでの一週間、マタイが異常な現象として伝えている一 つ一つの事柄を繰り返し思い起こし、キリストの十字架において成し遂げら れた救いの恵みを深く思い巡らす時として過ごしましょう。