「十字架にかかられたキリストの復活」
2004年4月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ28・1‐10
週の初めの日の明け方、主イエスが葬られた墓を訪れた婦人たちに、主の 御使いがこう語りかけました。「恐れることはない。十字架につけられたイ エスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言わ れていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見な さい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者 の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そ こでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(マタイ28・ 5‐7)。そして、伝えられた言葉はさらに伝えられ、ついに私たちのとこ ろにまで届けられました。今日は、この御使いの言葉において、特に三つの ことを心に留めつつ、主の御復活を祝いたいと思います。
●恐れるな
その第一は、御使いの最初の言葉が「恐れるな」であった、ということで す。「恐れるな」と語られているということは、とりもなおさずこの婦人た ちが恐れていたことを意味します。事実、その直前には、恐れのあまり死人 のようになっていた人々について書かれています。「番兵たちは、恐ろしさ のあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)。私たちはこうしてイ ースターを喜び祝っていますが、あの朝起こったことは、もともと人間にと って決して喜ばしいことではなく、恐ろしいことだったのです。
その恐ろしさとは何でしょうか。聖書には「主の天使が天から降って近寄 り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(2節)と書かれていま す。なるほど、目の前でそのようなことが起こったら、恐いことであるに違 いありません。しかし、聖書が伝えようとしているのは、ただ単に不思議な 現象の恐ろしさではないのです。ここには天使が出てきます。聖書において、 天使という存在が表しているのは、神の現臨です。つまり、神がまさにそこ におられる、ということです。そして、天使が石を動かしたというのも、た だ単に墓の入口を開いたということではありません。墓の石など人間でも動 かそうと思えば動かせるのです。そこで語られているのは、それ以上のこと です。すなわち、墓に象徴されている死の支配そのものが破られたというこ とです。ですから、ここで語られている恐ろしさとは、究極的には生ける神 の現臨に触れた恐ろしさであり、キリストの死という現実を覆された神の恐 るべき力に触れた恐ろしさなのです。
さて、ここに人間にとって最大のジレンマがあります。人間が救いを求め るとするならば、人間を本当の意味で救うことのできる「生けるまことの神 」(1テサロニケ1・9)を求めねばなりません。そのような神との出会い によらずして、人は救いを見出すことはできないのです。しかし、ここに見 るように、生けるまことの神に出会うことは、実に恐ろしいことでもあるの です。
なぜ恐ろしいのでしょうか。それは人間が神に背いているからです。その 事実を見事に描き出している物語が旧約聖書にあります。エデンの園の物語 です。エデンの園において、アダムとエバは神に背き、禁じられていた木の 実を食べました。その結果どうなったでしょう。「アダムと女が、主なる神 の顔を避けて、園の木の間に隠れると…」(創世記3・8)と書かれていま す。「主なる神の顔を避けて」――これが人間の現実です。人間の手によっ てどうにでもできる神――これを「偶像」と聖書は呼びますが――そのよう な神を人間は恐れることはありません。しかし、真に力ある神、生けるまこ との神に出会うなら、罪ある人間は恐れて死人のようにならざるを得ないの です。
しかし、そのような人間に対して、神の側から「恐れるな」と語りかけて くださいました。それがキリスト復活の後、いわば人類に与えられた最初の 言葉だったのです。
●十字架と復活
そして、第二に心に留めたいことは、御使いが特に「十字架につけられた イエス」の復活について語っているという点です。「十字架につけられたイ エスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言わ れていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見な さい」(5‐6節)。そして、このように十字架と復活とが結びつけられて いるところに大きな意味があるのです。
主イエスは繰り返し罪の赦しについて語られました。そして、罪の赦しに ついて語られた主は、自らが罪を贖う犠牲となるために、十字架に向かって 歩まれたのです。主イエスが捕らえられる直前に弟子たちと共にされた食事 の席で、主は彼らにこう言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これ は、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血 である」(26・27‐28)。そして、その言葉のとおり、主は十字架の 上で血を流して死んで行かれたのです。キリストは確かに御自分の体を、罪 を贖う犠牲として捧げられたのでした。
しかし、私たちはここで立ち止まって考えねばなりません。犠牲は捧げら れただけでは意味がないのです。犠牲は神によって受け入れられて、初めて 意味を持つのです。はたして父なる神は、罪を贖う犠牲を受け入れてくださ ったのでしょうか。神は、キリストの犠牲のゆえに、本当に罪ある人間を赦 されるのでしょうか。神に背いてきた人間を受け入れてくださるのでしょう か。
これは私たちにとって極めて重大な問いであります。そして、私たちはそ の問いの答えを、今日の聖書箇所に見出すのです。実は、ここに「復活なさ ったのだ」と書かれていますが、正確には「復活させられたのだ」となりま す。キリストが自分で復活したのではないのです。父なる神によってキリス トが復活させられたという表現になっているのです。それはなぜか。これが 父なる神の答えに他ならないからです。《十字架につけられたキリストの復 活》こそが神の答えなのです。父なる神は、キリストの犠牲を受け入れてく ださったのか――その通り!キリストが罪の贖いの犠牲として受け入れられ たからこそ、キリストは死の中に捨て置かれず、復活させられたのです。
後にパウロという人は、コリントの教会に宛てて次のように書きました。 「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなた がたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを 信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」(1コリント15・1 7‐18)。まさにそのとおりです。キリストの復活がなければ、教会が罪 の赦しを信じ、罪の赦しを語る根拠など、どこにもないのです。そして、罪 の赦しがないならば、神と断絶したままであるならば、人間は死んで滅びる しかありません。もはや、どこにも希望はないのです。
しかし、あの朝、墓に行った婦人たちは聞いたのでした。「十字架につけ られたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。か ねて言われたいたとおり、復活させられたのだ」。この地上において、完全 なる罪の贖いの犠牲が捧げられ、神によって受け入れられたのです。それゆ えに、人はもはや神に見捨てられた者として死んでいく必要はありません。 望みなく滅びていく必要はないのです。そして、これこそが、天使の「恐れ るな」という言葉の根拠でもあるのです。あの恐るべきジレンマは完全に取 り除かれました。私たちが呼び求める神は、十字架につけられたキリストを 復活させた神に他ならないからです。だから、私たちは恐れずに生けるまこ との神を求めることができるのです。
●ガリラヤに行け
そして、第三に心に留めたいことは、御使いが、弟子たちのもとに行って 次のように伝えるように指示したことです。「あの方は死者の中から復活さ れた。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかか れる。」この指示は復活したキリストの口によっても繰り返されます。「恐 れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いな さい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。
この弟子たちについては、主イエスが捕らえられる場面において、「この とき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26・56)と 書かれていました。そのような弟子たちです。その姿は、十字架につけられ たイエスを見守っていた婦人たちの姿と対照的に描かれております。ペトロ については、三回も主イエスを否んだことまでが詳細に語られているのです。 しかし、今やそのような弟子たちにも、キリスト復活のメッセージが伝えら れるのです。「ガリラヤに行きなさい。復活したキリストはそこで待ってお られる。そこであなたたちは主にお目にかかれるのだ」という言葉が伝えら れるのです。ガリラヤは、弟子たちが最初に主イエスにお会いした場所です。 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の言葉を耳 にした場所です。そして、燃える心をもって主イエスに従い始めた、いわば 彼らの原点です。そこに主イエスが待っておられるのです。そこから彼らは もう一度、主イエスに従い、主と共に生きることができるのです。
それはどういうことでしょうか。単にこの三年余りの時間の経過がなかっ たかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に 「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っているのは、 死者の中から復活されたキリストなのです。彼らは復活したキリストに新た に従い始めるのです。つまり、そこでは全く新しいことが始まるのです。い わばあのイエスを見捨てた弟子たちは一度死んだものとされるのです。そし て、新しい命を与えられた者として復活のキリストに従い始めるのです。そ のような彼らをキリストはもはや「弟子たち」とは呼びません。「わたしの 兄弟たち」と呼ばれるのです。
どうしてそのようなことが可能なのでしょう。それは十字架にかけられた 御方が復活させられたからです。罪の贖いが成し遂げられたからです。罪の 赦しが与えられているからです。キリストの十字架と復活によって、そのよ うな新しい時が既に始まっているからです。だからあの弟子たちも、罪の赦 しにあずかり、新たに復活のキリストに従い始めることができるのです。こ れが「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」と語られたことの意味なので す。
さて、私たちは今、教会において復活祭を祝っているわけですが、このよ うに今日教会がこの地上に存在するのは、あの日の「ガリラヤに行け。そこ でわたしに会う」があったからに他なりません。教会はキリストの十字架と 復活の実りです。私たちはその恵みの中に生かされているのです。それゆえ に、私たちは今もなお罪の赦しにあずかり、新しく生まれた者としてキリス トと共に生きることができるのです。そのことを思いつつ、主の御復活を心 から喜び祝いましょう。