「光あれ」                          創世記1・1‐23  今日は創世記の冒頭に置かれています天地創造の物語を共にお読みしまし た。その中で私たちは特に3節の言葉を心に留めたいと思います。「神は言 われた。『光あれ。』こうして、光があった」(1・3)。 ●地は混沌であり  そのように神が「光あれ」と語られる前の状態は次のように描写されてい ます。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いて いた」(2節)。「混沌」という言葉は、以前私どもが用いていた聖書協会 訳では「形なく、むなしく」と訳されていました。二つの言葉からなる熟語 です。地は形なく、むなしく、秩序もなく、存在の意味もありません。まさ に底なしの深みを闇が覆っているような虚無の世界です。聖書は「地」―― すなわちこの世界――の初めの状態を、そのような言葉をもって表現してい るのです。  さて、これは世界の初めについての物語です。しかし、この箇所が本当に 語ろうとしているのは、単に《昔々のお話》ではありません。ここに語られ ているのは「地」に関することです。ですから、この物語は、この地上に生 きている限り、いつの時代の人間にも関わりがあります。神が「光あれ」と 語られるまでは、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」。この表現 の中には、この地上に生きる人間に聖書が突きつけている、少なくとも三つ の強烈な主張が見られます。すなわち、第一に、神こそがこの世界に形を与 え、秩序を与え、意味を与えてくださった御方であること。そして第二に、 神の言葉と神の御業がなければ、この世界はもともと混沌であり闇でしかな かったのだ、ということ。さらに第三に、その当然の帰結となるわけですが、 この世界に秩序と意味を与える神から離れてしまえば、この世界は初めの混 沌に戻らざるを得ないのだ、ということです。  そして、実際、紀元前七世紀から六世紀にかけて、そのようなメッセージ を人々に激しく語った一人の人物がおりました。その人の名をエレミヤと言 います。エレミヤ書4章22節を御覧ください。神の言葉を退け、神に背を 向け、自らの罪を罪として認めず、悔い改めることを知らない民に対して、 神はエレミヤを通して次のように語りました。「まことに、わたしの民は無 知だ。わたしを知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことに さとく、善を行うことを知らない」(エレミヤ4・22)と。そして、神を 知ろうとしない民にやがて訪れる恐るべき結末を、エレミヤは既に目の前に 見ているかのように、こう語ったのです。「わたしは見た。見よ、大地は混 沌とし、空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべて の丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃 げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々 はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」 (同23‐26節)。  ここに書かれています「大地は混沌とし」という表現に見られるのは、先 ほど創世記に見た「混沌―形なく、むなしく」という言葉です。そのような 大地を「わたしは見た」と彼は言うのです。神に背いた世界が、神の怒りの もとにあってやがて確実に崩壊してゆくこと、「形なく、むなしく」なり、 光を失って真っ暗闇となってしまうことを、エレミヤは確かにその心の目を もって見ていたのでしょう。それゆえにまた、その言葉を民に語り聞かせた のです。  そして、エレミヤの見た幻と、彼の語った主の言葉は、やがて現実のもの となりました。ユダの王国は滅亡し、人々が依り頼んでいた神殿は焼き払わ れ、エルサレムの城壁は崩されて瓦礫の山となり、主だった人々はバビロン に連れ去られ捕囚となりました。「大地は混沌とし、空には光がなかった。」 ――確かに、人々は現実にそのような世界を見ることとなりました。ですか らそのような人々にとって、あの天地創造物語の言葉は、決して遠い言葉で はなかったのです。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」。そう語 る初めの状態の描写は、決して自分とは関係のない《昔々のお話》ではなか ったのです。それは、まさに彼らの生きている世界の描写に他ならなかった からです。  さて、《彼ら》の話をしてきました。では《私たち》はどうなのでしょう。 現代の多くの人にとって、この創世記の物語は、あまりにも原始的な、あま りにも素朴な物語に聞こえるに違いありません。しかし、いったい私たちは 「地は混沌であった」という言葉を、簡単に聞き流すことができるのでしょ うか。否、むしろ「混沌」という言葉こそが、しばしば私たち個人の人生に せよ、家庭生活にせよ、社会のありようにせよ、その現実を言い表すのに最 も相応しい言葉となっているのではないでしょうか。いや、実際、私たちは 「混沌」という言葉をもって表現される世界を、まさに地球規模で目にし始 めているのではないでしょうか。「闇が深淵の面にあり」という言葉につい てはどうでしょうか。もはや這い上がることのできない深い淵、その上をま ったく光のない暗闇が覆っている世界。それはまさに、私たちが目にしてい る世界を描写する最も適切な言葉ではないでしょうか。今から二千五百年以 上前にせよ、この現代にせよ、神を見失った世界の有様は、「混沌」と「闇」 という言葉をもってしか表現され得ないのです。 ●新しい創造  しかし、そのように天地創造の物語が《私たちの物語》となる時にこそ、 その混沌と闇の中に響き渡る神の言葉が、まさに力強く私たちに迫りくる言 葉となるのです。  「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。そこか ら神の御業が始まりました。混沌と闇の状態を決定的に変えてしまう神の御 業が始まりました。そしてこの後、物語は実に秩序正しく進んでいきます。 「神は言われた」「そのようになった」「神はこれを見て、良しとされた」 という言葉の繰り返しの中で、神の良しとされる秩序ある世界が造り出され ていくのです。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」という言葉の 中に自分を見出していた捕囚の民にとって、この単純な繰り返しによる物語 は、どれほど大きな慰めと希望を与えるものとなったことでしょう。  先ほど、「この世界に秩序と意味を与える神から離れてしまえば、この世 界は初めの混沌に戻らざるを得ないのだ、という主張がここにある」と申し ました。しかし、ここには私たちに対するさらに大きなメッセージがあるの です。それは「初めにこの世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えた神は、 崩壊した世界にも再び形を与え、秩序を与え、意味を与えることがおできに なる」というメッセージです。世界の創造の物語は、神が《世界を再創造す ることもおできになる》ことを示しているのです。  あの「初め」において、混沌とした大地、闇が深淵を覆っているような世 界を、神はそのままにして置かれませんでした。ならば、今のこの世界も、 この国も、私たちの家庭も、私たちの人生も、神は混沌と暗闇の中に、その まま捨てて置かれるはずがありません。神の言葉が語られるならば、神が 「光あれ」と言われるならば、そこには光がもたらされるのです。秩序が生 じ、新しく意味が生まれるのです。新しい創造がそこに起こるのです。そこ にこそ彼らの希望はあったし、そこにこそ私たちの希望もあるのです。  そして、事実、神はこの世界に向かって、再び決定的な仕方で、「光あれ」 と語られたのです。そのことを私たちに伝えているのが、今日お読みしまし たもう一つの聖書の言葉、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。  この箇所が創世記の冒頭を念頭に置いて書かれていることは一目瞭然です。 ここでキリストは「言」と呼ばれております。そして、「言は肉となって、 わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)のです。言は人間となって、 ナザレのイエスという御方として、この地上を歩まれたのです。すなわち、 そのようにして神は、最終的に決定的な仕方で語られたのです。父なる神と 一つである御子なる神をこの世界に送られることによって、神はこの世界に 語られたのです。かつてこの世界の創造にたずさわった《言》が、神に背い て混沌となった世界に来られたのです。言の内には命がありました。神の命 がありました。そして、「命は人間を照らす光であった」と書かれています。 そうです、あの時と同じ「光」です。いわば、神はあの初めの時と同じよう に、再び「光あれ」と言って、御子をこの世界に遣わされたのです。  そして、神が「光あれ」と語られたゆえに、既にこの地上に光がもたらさ れているのです。主イエスはこう言われました。「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8・12)。 光は既に与えられているのです。ですから、主イエスと共にあるならば、そ の人は命の光を持つのです。もはや混沌の暗闇の中にはいないのです。  先ほど、「世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできに なる》ことを示している」と申しました。その再創造は既に始まっているの です。この神の新たな「光あれ」から始まっているのです。それは既に私た ちにおいて始まっているのです。それはパウロが次のように書き記している とおりです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造され た者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5 ・17)。そして、私たちにおいて新しい創造が始まっているならば、それ は確かに完成へと向かっているはずです。私たちは完成への途上にあるので す。それはこの世界についても同じです。私たちの目には、この世界が崩壊 と滅亡に向かっているようにしか見えないかもしれません。しかし、この世 界は、神がキリストを送られ、神の言葉を語られた世界なのです。ならば、 この世界もまた完成への途上にあるのです。私たちはそれゆえに、既にもた らされている光を証ししながら、勇気をもって希望をもってこの地上に生き ることができるのです。