「人間の創造」
2004年4月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記1・24‐2・4
先週に引き続き、天地創造の物語をお読みしました。ここには創造の六日 目と七日目について記されています。今日は、特に六日目に描かれている人 間の創造について、そして七日目に出てきます《神が御自分の仕事を離れ、 安息なさった》という大変不思議な記述ついて、御一緒に考えたいと思いま す。
●神は人間を創造された
天地創造物語における最後の被造物は人間です。人間の創造については2 6節以下に記されています。一見して分かりますように、ここまでの創造の 御業とは明らかに異なった表現が用いられています。これまでは単純に、 《神が命じ、命じられたことが実現する》という形になっておりました。し かし、人間の場合には、「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、 人を造ろう』」(26節)と書かれております。唯一の神であるのに「我々 は…造ろう」いう表現は奇妙に思えます。しかし、その細かい説明はさてお き、ここで重要なのはあたかも会議や相談がなされた上で決断が下されたよ うに描かれている点です。人間の創造は熟慮の上での決断なのだ、というこ とが強調されているのです。
人間が存在するのは、決して偶然によるのでも、何かの間違いによるので もありません。それは神の熟慮の上での意志的な決断に基づいているのです。 確かに神がそう望まれたから人間はこの地上に存在するのです。もちろん、 私たちが人間である限り、この記述は私たちに無関係なことではありません。 これは私やあなたが存在することに関わります。「確かにあなたは神に望ま れて存在するのだ」と、聖書は他ならぬ私やあなたに語りかけているのです。
しかも、ここで特に「我々に似せて」ということが言われています。27 節では、「神は御自分にかたどって人を創造された」という表現になってい ます。直訳すれば、「神の像(かたち)に創造された」となります。神の像 ということで私たちが連想するのは、十戒で禁じられている偶像礼拝でしょ う。実際、この像(ツェレム)という言葉は、彫像や塑像を意味する言葉で、 しばしば神々の像、偶像を指すものとして用いられています。神はそのよう な人間の手による像をもって人間が神を表現することを禁じられました。彫 像や塑像によって神は表現され得ないのです。しかし、その一方で、ここで は人間が「神の像」であると語られております。人間の手によって作成され る像ではなく、人間そのものが、神とその恵みの支配、神の栄光を表す神の 像として造られたのだと聖書は私たちに語っているのです。
さて、これらの言葉を読んでどう思われましたでしょうか。何の抵抗もな く受け入れることができますでしょうか。思慮深い多くの人は、この記述と 現実とのギャップに当惑するに違いありません。「人間がこの地上で何をし てきたか、そして何をしているか考えて見るがいい。どう見ても望ましい存 在ではないではないか。この被造物世界にとっても神にとっても、人間など 存在しない方がむしろ望ましいではないか。どうしてそれが《神の像》だな どと言えるのか。人間に比べるならば、狐や蛇の像の彫像の方がまだずっと ましではないか。」もちろん、「人間なんて!」と他人事のように言えるう ちはまだ良いのです。これを自分のこととして、「私なんていない方がこの 世界にとっても神にとっても良いではないか!」と思っている人ならば、な おさらこの聖書箇所は受け容れがたいものであるに違いありません。
しかし、ここで一つのことを心に留めておきたいと思います。当たり前の 話ですが、この聖書箇所は、人間によって、人間の文字で書かれたのです。 具体的には、ヘブライ人によってヘブライ語で書かれたのです。人間の醜さ、 人間の罪深さ、人間世界の悲惨さ、人間が行ってきた数々の悪行など、私た ちに教えられなくても重々知っている人々によって書かれたのです。彼らは 実際に罪と裁きの歴史を経てきた人々なのです。彼らは、この記述と現実の ギャップなど、私たちに言われなくとも百も承知の上で、この箇所を書き記 したのです。
つまり、これは現実の観察と通常の思考から出てきた言葉ではないのです。 このような言葉は彼らの目にしている現実からは出てくるはずがないのです。 これは彼らの内から出てきたものではなくて、外から、上から、神から与え られた言葉なのです。人間がそう見えるから「神は御自分にかたどって人を 創造された」と書き記したのではないのです。そう見えない《にもかかわら ず》、彼らは神からの語りかけを受け止めたのです。「あなたは神の被造物 なのだ!あなたは神に望まれて存在しているのだ!あなたは神の像として創 造されたのだ!」という語りかけを信仰をもって受け止め、そして書き記し たのです。これはいわば彼らの信仰告白なのです。そしてこの言葉は、私た ちもまた同じ信仰に生きるようにと呼びかけているのです。
●神は安息された
次に第七日目に目を移すことにしましょう。第七の日には、もはや神の創 造の働きは描かれておりません。そこにはこう書かれております。「第七の 日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、 安息なさった」(2・2)。
ここでしばし時間を取りまして、この第七日目の場面を映像として思い描 いてみることにしましょう。神さまが休んでおられます。疲れ果ててぐった りして休んでいるのではありません。この休みは、介護疲れの家族が休みを 取るのとも、育児ノイローゼの母親が何らかの仕方で育児から離れて休みを 取るのとも違います。神が休みを取るために、一時的に世界を無くしてしま う必要はありませんでした。ここが重要です。《世界が存在したままで》、 神は安心して休んでおられるのです。いわば《神は創造の御業を完成したこ とについて自信を持って休んでおられる》と表現して良いかもしれません。 これがこの聖書箇所が私たちに提供している映像です。
そこでさらにこんなことを想像してみましょう。休んでいる神の傍らに世 界が存在するわけですが、その世界の中には人間もまた存在しています。そ うでしょう。これは第七日ですから。人間は既にそこにいるわけです。そし て、人間たちが、安息しておられる神の傍らで、まるでコマネズミのように 走り回っています。こう叫びながら右往左往しているのです。「ああ、この ままではこの世界はダメになってしまう。ああ、私たちが何とかしなければ、 この世界は壊れてしまう。破滅の時は刻一刻と迫っているのだ。どうして立 ち止まってなどいられよう。」
そして、ついに安息しておられる神に向かって文句を言い始めます。「神 さま、そんなところで休んでいないでください。私たちがどうなってもおか まいにならないのですか。この世界を存続させるために、少しは私たちのや っていることを手伝ってくれたっていいじゃないですか!」そう言えば、嵐 に翻弄される舟の中で主イエスが寝ていた時にも、弟子たちは同じようなこ とを言っておりました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのです か」と。丁度、そのようなことを、被造物世界の中で人間が神に訴えていま す。
このように思い描いて見ると、人間の姿は実に滑稽ではないでしょうか。 しかし、現代人をこの第七日目の映像の中に書き加えたら、きっとそうなる のだと思います。六日目の後半まで存在していなかったような人間が、あた かも世界を創造したのは自分たちであるかのように振る舞っています。六日 目まで存在しなかった人間が、被造物世界を支えて保ってきたのは自分であ るかのように振る舞っています。被造物世界の中に営まれている人間の生活 を支えているのは人間自身であるかのように振る舞っているのです。そして、 人間が必死になって支え続けなければすべては崩れ去ってしまうと大騒ぎを し、そしてあげくの果てに神に文句を言い始めるのです。なぜすぐにテキパ キと人間の指示どおりに動いてくれないのか。私たちは急いでいるのだ。私 たちの予定どおりに動いてくれなければ困るではないか、と。神が安息して おられる姿は、そのような私たちの滑稽さを浮き彫りにする姿であると言え るでしょう。
そして、続く3節には、同じことの繰り返しのように見えますが、大事な 言葉が加えられています。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息 なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(3節)。聖書に親し んでいる人ならば、この「神は祝福し、聖別された」という言葉が十戒の中 の安息日の規定にも現れることを思い起こしたことでしょう。「安息日を心 に留め、これを聖別せよ。…六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべて のものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたの である」(出エジプト20・8‐11)。この安息日律法が人間に与えられ たということは、神が安息されるだけでなく、神の安息に人も招かれている ことを意味します。安息日は七日に一度巡ってまいります。私たちは、七日 に一度は、先に思い描いたように、神が自信を持って休んでおられる姿を思 い起こさねばならないのです。
そこで重要なのが「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのもの を造り」という言葉です。創世記においても第七日目の記述の前に、「天地 万物は完成された」と書かれています。神はただ休んでおられるのではあり ません。七日目の神の安息はこの六日の間の神のお働きに基づいているので す。そして、神のお働きを、人間は直接的には知りません。なぜなら、人間 は《六日目の被造物》だからです。人間はただ神の働きの結果を見、その実 りを享受しているだけなのです。私たちは《六日目の被造物》なのであって、 私たちの思いを越えたところに神の壮大な御計画とお働きがあることを知ら なくてはなりません。そのことを謙って認めることにおいて、初めて神の安 息に共にあずかる者となるのです。
しかし、ここでもまた、神の言葉と現実との大きなギャップに当惑する人 があるかもしれません。「『天地万物は完成された』ですって。あなたの目 は節穴ですか。どう見たってこれが完成された世界には見えないではありま せんか。」そのような言葉が聞こえてきそうです。しかし、先にも申しまし たように、これらの言葉を書き記した人々は、そのようなギャップがあるこ となど重々承知の上で書いているのです。彼らは、この世界が完成された世 界に《見えるから》ではなく、《そう見えないにもかかわらず》、与えられ た神の語りかけを、信仰をもって受け止めたのです。
神の目は、既に完成された世界を見ておられます。そして、神の恵みと栄 光を現して存在する、神の像としての人間を見ているのです。今、私たちに はそれが見えません。しかし、やがて私たちもまた、それを見ることになる でしょう。完成された世界を見ることになるでしょう。そこに神の像として 存在する人間を見ることになるでしょう。その時までは、ただ私たちの思い を越えたところにある、神の壮大な御計画と御業とを信じることが許されて いるだけです。それゆえに、聖書はこの素朴な物語を通して、共に信じよう ではないか、そして共に神の安息にあずかろうではないか、と私たちを招い ているのであります。