「男と女に創造された」
2004年5月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記2・18‐25
今日は1章27節の三行目に書かれています「男と女に創造された」とい う言葉について考えたいと思います。その言葉との関連で2章18節以下の 言葉をお読みしました。これは2章4節後半から続く物語の一部です。1章 の「男と女に創造された」という言葉が、この章では一つの物語によって表 現されております。
●男と女に創造された
言うまでもなく、男女・雌雄の区別があるのは、何も人間だけではありま せん。それにも関わらず人間だけについて「男と女に創造された」と書かれ ており、2章においてはわざわざ男女が存在するに至った経緯が物語られて いることは注目に値します。それはとりもなおさず、人間が男女として存在 すること、もっと一般的に言えば複数の人間として存在することを、本質的 に重要なことと見なしているということでしょう。それは1章において、 「神にかたどって創造された」という言葉に直接続けて「男と女に創造され た」と書かれていることからも分かります。この二行は分離できないのです。
きつねは一匹でもきつねです。猿は一匹でも猿です。しかし、人間はどう もそうではないようです。少なくとも神の意図としてはそうではないのです。 ですから、本日の聖書箇所にも「人が独りでいるのは良くない」(18節) と書かれているのです。1章の天地創造の物語において「良い」という言葉 が繰り返されてきたことを思い出してください。最終的には「神はお造りに なったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1・ 31)と書かれておりました。しかし、「極めて良かった」という言葉は 「男と女に創造された」という言葉の後に来るのです。「人が独りでいるの 良くない」のです。神の御心に適っていないのです。このように、私たちは まず、《人間は他者との関わりにおいて初めて本来の人間であり得る》とい うことを心に留めねばなりません。そして、この他者との関係性を考えるに 当たって、さらに私たちはこの物語における四つの点に注目したいと思いま す。
●人間と人間との関係とは
第一に、その関係性は「助け」という言葉によって表現されております。 18節をもう一度お読みします。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う 助ける者を造ろう」(18節)。さて、この「助ける者」という言葉は単純 に「助け」と訳されることの方が多いのですが、イスラエルの伝統において 「助け」はまず第一には神御自身です。例えば詩編には「主は我らの助け、 我らの盾」(詩編33・20)というような表現が繰り返し出てまいります。 そのように、もともと「助ける者」という言葉自体に上下関係の概念は含ま れてはおりません。特にここで「助ける者」として造られたのが女性である からと言って、これを女性蔑視に結びつけるのは間違いです。
いずれにせよ、ここで重要なことは、一人の人間は他の人間によって助け られなくてはならない存在だということです。個人としての人間には欠けが あるのです。それは物語の展開を見ても分かります。「あばら骨の一部を抜 き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女 を造り上げられた」(21‐22節)と書かれております。つまり、助ける 者がなければあばら骨が欠けたままなのです。
もちろん、《助ける者》と《助けられる者》との関係というのは、現実に おいては流動的です。《助ける者》が次には《助けられる者》となることは 起こります。しかし、いずれにせよ、助ける者と助けられる者が合わさって 人間なのだという理解は、実際の生活においても極めて重要なことです。こ の国において子供たちは「人様の迷惑にならないように」と言われて育ちま す。もちろん、それは大事なことです。しかし、そのゆえに、何でも人の助 けを借りずに自分一人でできることが良いことであると思い込んで育つなら、 それはたいへん不幸なことです。実際に、そのゆえに助けられることがとて もヘタな人がいるものです。何でも自分一人でできた《自立した人》の老後 が実に悲惨であるというケースは少なくありません。助けられ上手な人であ ることは大事なことです。私たちは、神さまが二人目を造られた時、「彼に 合う《助ける者》を造ろう」と言われたことを忘れてはなりません。
第二に、神は二人目を一人目とは異なる者としてお造りになりました。聖 書には「男と女に創造された」と書かれているのであって、「二人の人間が 創造された」と書かれてはいないのです。2章の物語において、神は二人目 を、最初の人と同じように土から造っておりません。神は一人目を助けるた めにクローンを造りませんでした。根本的に異なる者として造られたのです。 確かに男女の違いは根本的に異なるものの代表と言えるでしょう。そう言え ば「話を聞かない男、地図が読めない女」という本が少し前にベストセラー になりました。私の妻も私の考え方や言動を指摘して「自分とは違う」とい うことをしきりに言います。確かに違うと私も思います。しかし、それは当 然なのであって、神が意図された事であり、良いことなのです。もちろん、 これは夫婦に限ったことではありません。私たちは自分と同じ人間が二人い ないことを神に感謝しましょう。自分の思い通りにはならない、自分とは全 く異なる他者が、助ける者として存在することを、神は意図されたのです。 そして、それは良いことなのです。
第三に、他の人間との関係性は純粋に《神によって与えられたもの》とし て描かれております。もう一度、21節以下を御覧ください。「主なる神は そこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜 き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女 を造り上げられた」(21‐22節)と書かれております。彼は眠っていた のです。ですから、もう一人の人間が存在することに関しては、あばら骨を 提供したこと以外全く関与しておりません。そのあばら骨も自分の意志で提 供したわけではありません。つまりもう一人の人間が存在することは、全く 彼の意志の外における出来事なのです。そして、出会いもまた彼の意志によ るのではありません。「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると」 (22節)と書かれております。要するに、他の人間が存在すること、そし て他の人間と出会うということは、全く神に属する事であり、いわば《聖な る事》なのです。
聖なる事柄に対しては、畏れを抱かなくてはなりません。他の人間を存在 させたのが私たち自身であるならば、その人の存在を否定するのも自由です。 「あんな人いなければ良いのに」と言うのも自由です。しかし、現実に他の 人間を存在させたのは私たち自身ではありません。出会いというものが私た ちに由来するならば、都合が悪くなった他者との関係をゴミ箱に捨ててしま うのも自由です。しかし、現実に私たちは自分が産まれる場所や時代を選ぶ ことのできない者です。出会いは決して私たちに由来するものではありませ ん。そのように、自分に由来するのではなく、神に由来するならば、私たち は畏れを抱かねばならないのです。
そして第四に、神が与えてくださる他者との関係性にこそ人間本来の感動 と喜びがあることをこの物語は伝えております。この人の感動と喜びのほと ばしりに耳を傾けてみましょう。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わた しの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ) から取られたものだから」(23節)。彼が置かれているのはエデンの園で す。そこには「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる 木」(9節)がたくさん生えております。そこには美しく豊かな水の流れが あります。そこは金も豊かに産出するところです。しかし、これらすべてを 見て人が喜びの声を上げているという描写はありません。人間がたった一人 で札束に囲まれていても決してそこに喜びなどないのと同じです。真の喜び は《間にある》のです。神と人との間にあり、神が与えてくださった人と人 との間にあるのです。
●人間であることを回復するために
以上、神が人間に意図しておられる他者との関係性について見てまいりま した。人間はそのような関係に生きてこそ、初めて本来の人間であり得るの です。しかし、私たちはこの物語が2章で完結してはいないことを知ってお ります。主は人に命じて言われました。「園のすべての木から取って食べな さい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると 必ず死んでしまう」(16‐17節)。しかし、人は神が禁じられた木から 取って食べてしまうのです。聖書が語っているのは単に昔々のお話ではあり ません。ここに描かれているのは神に背いているこの世界の現実です。
「園のすべての木から取って食べなさい」。そのように人間には恵みとし て与えられている多くのものがあり、許されている多くの事柄があります。 しかし、それにもかかわらず、人間は神の望まれないことをあえて行います。 それゆえに、神と人との関係は壊れてしまっているのです。その現実を聖書 は、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」(3 ・8)と表現しています。
その結果どうなったでしょうか。人と人との関係も壊れてしまいました。 神は人に問われます。「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(3・ 11)。人の答えはこうでした。「あなたがわたしと共にいるようにしてく ださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3・12)。この 言葉と、2章23節の「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」 という言葉を比べてみてください。なんという違いでしょう。先ほど、人間 の真の喜びは「人と人との間にある」と申しました。しかし、現実にはそう なってはおりません。なんという多くの悲しみと苦しみが人と人との間にあ ることでしょう。まことに人間の罪は神と人との関係を破壊するだけでなく、 人と人との関係を破壊します。神に対して罪を犯しているということがピン と来ない人であっても、確かに罪が他者との関係を破壊していることは実感 として理解できるはずです。
先ほど《人間は他者との関わりにおいて初めて本来の人間であり得る》と 申しました。しかし、この物語が示しているように、人間はもはや本来の人 間ではなくなっているのです。まさにこれこそが人間の救われなくてはなら ない状態です。人間に必要なのは、単に目の前の苦しみからの救いではあり ません。そうではなくて、本来の人間として生きられなくなっている現実か ら救われなくてはならないのです。私たちは人間であることを取り戻さなく てはなりません。そのためには、壊れた関係が修復されねばなりません。そ して、その修復は、まず神との関係から始められねばなりません。そのため にこそ、キリストは来られたのです。キリストは、自らの苦しみをもって人 間の罪を贖い、神の赦しをもたらし、人が神との交わりに再び生きられるよ うにしてくださいました。それは、神のもとにあって人が人と共に生き、神 の像として創造された本来の人間の姿を回復するためでありました。