説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「キリストの昇天」

2004年5月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録1・9‐11

 今日の礼拝において私たちに与えられておりますのは、復活したキリスト が天に上げられた様子を記している聖書箇所です。その少し前の3節を読み ますと、「四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあり ますから、キリストの昇天は復活の四十日後であったことが分かります。復 活祭の四十日後と言いますと、丁度今週の木曜日がその日に当たります。と いうことで、今日は御一緒にキリストの昇天について考え、二週間後に迎え る聖霊降臨祭に備えたいと思います。

●天におられるキリスト

 キリストの昇天の様子は次のように描かれています。「こう話し終わると、 イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目か ら見えなくなった」(9節)。キリストの体がまるで風船のようにフワフワ と空に上っていった。そのようにこの場面を思い描く時、常識的な思考は少 なからず抵抗を覚えるかも知れません。しかし、そもそも復活のキリストが 弟子たちに現れたこと自体、人間の理解を越えた神秘に属する事柄なのです。 それはキリストの昇天についても同じです。私たちは、本来言葉をもって表 現することのできない出来事が限られた人間の言語をもって表現されている のだということを忘れてはなりません。ですから重要なことは、限られた言 葉によってであれキリストの昇天を伝えることによって聖書が私たちに語ろ うとしている使信そのものをしっかりと受けとめることなのです。

 そこで注目すべき一つの事があります。弟子たちは「キリストの昇天」を 悲しんではいなかったという事実です。天に上げられるということは、ある 意味では弟子たちから「離れる」ことであるに違いありません。「あなたが たから《離れて》天に上げられた」(11節)と表現されているとおりです。 それは本来悲しい出来事ではないでしょうか。しかし、弟子たちは十字架の 死において主イエスを失ったあの時のように、再び悲しみにくれるようなこ とはなかったのです。ルカによる福音書の最後においては、昇天の出来事が 次のように描写されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺り まで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、 天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24・50‐53)。

弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰った」のです。なぜでしょう。

 要するに、ここから一つのことが明らかになるのです。すなわち、弟子た ちにとって、キリストが天に上げられるということは、ただキリストが《遠 くへ行ってしまう》ということではなかった、ということです。そうではな くて、むしろ逆に、キリストが上げられることによって、《天そのものが極 めて近くなる》という出来事だったのです。主イエスの昇天により、主イエ スと弟子たちの結びつきは、天と地の境を越えて、天と地を結びつけるもの となったのです。

 後にパウロは、天に上げられたキリストとその弟子の群れとの関係、すな わちキリストと教会との関係を、頭と体との関係として表現しました。教会 は「キリストの体」(1コリント12・27)です。そのように教会は天に おられるキリストに結び合わされているのです。教会は天におられるキリス トによって天と結び合わされている共同体であると言っても良いでしょう。

 このことが私たちにもたらす喜びについては語るべき多くの事があります が、今日はただ一つのことだけに触れたいと思います。キリストの昇天につ いて語られる時、しばしば引用される言葉ですが、ハイデルベルク信仰問答 の中に、次のような問いがあります。「問49、キリストの昇天は、わたし たちにどのような益をもたらしますか」。そこでキリストの昇天がもたらす 三つの益について答えられているのですが、ここで紹介したいのはその二番 目です。「第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、という こと。それは、頭であるキリストが、この方の一部であるわたしたちを、御 自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということ です。」

 ときおり、信仰とはまったく関係なく、天国について語る人をお見かけし ます。「わたしは死ぬことなど少しも心配していませんよ。天国があります から」などと、いともあっさりと簡単に言ってのける人があります。しかし、 考えてみてください。天と私たち人間と、いったい何の関わりがあると言え るでしょうか。天とあなたと何の関わりがあるか、と言われたら、私たちは 何と答えることができるのでしょう。地に属する肉なる私たち人間、しかも 神に背いてきた罪人である私たち人間が、いったいいかなる根拠をもって、 天との関わりについて語ることができると言うのでしょう。人間の現実を正 直に見つめるなら、「まことに私たちは天とは何の関わりもございません」 と言わざるを得ないではありませんか。

 そのような私たちがなおも希望をもって天を仰ぐことができるとするなら ば、それはただ一重に、そこにキリストがおられるからなのです。十字架に かかって私たちの罪を贖い、復活してくださったキリストが教会の頭として 既に天におられるからこそ、私たちは安心して天を仰ぐことができるのです。 ハイデルベルク信仰問答の言葉で言うならば、キリストの昇天こそが、「わ たしたちを、御自身のもとにまで引き上げてくださる確かな保証」なのです。 それゆえに、キリストに結ばれているならば、安心して地上の生涯を終える ことができるのです。頭であるキリストは既に天におられ、私たちはその一 部であるからです。

●地上に生きる私たち

 さて、キリストが天におられるからこそ、安心して天を仰ぐことができる のだ、と申しました。しかし、話はそれで終わりではありません。その先が あるのです。弟子たちは天を見つめて立っていました。するとそこに白い服 を着た二人の人が現れ、弟子たちにこう言ったのです。「ガリラヤの人たち、 なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイ エスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでに なる」(11節)。

 確かにキリストが天におられます。しかし、私たちは、ただ天のことだけ を思い、天だけを見つめて生きていれば良いのではありません。私たちを天 に引き上げることが、神の最終的な目的ではないからです。神の関心はあく までも地に向けられているのです。神の目的は地に神の御支配が成ることな のです。キリストは私たちに「天に引き上げられますように」と祈るように とは教えられませんでした。そうではなく、「御国が来ますように。御心が 天になるごとく、地にも成りますように」と祈るように教えられたのです。 神の目的は、御心が天になるごとく地にも成ることです。そのようにして天 と地が一つとなることなのです。

 ですから、キリストは天に行かれたままではありません。「またおいでに なる」のです。ですから、私たちの目は、キリストが再びおいでになるこの 地上に向けられていなくてはなりません。天を見つめて立っていてはならな いのです。私たちは地上にある間に、地上においてしかできないことを、しっか りとしておかなくてはならないのです。

 9節には、「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げ られた」と書かれていました。「こう話し終わると」――何を話しておられ たのでしょう。その直前にはこう書かれています。「あなたがたの上に聖霊 が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユ ダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」 (8節)。ルカの伝えるところによれば、これが地上における主イエスの最 後の言葉です。「あなたがたはわたしの証人となるのだ」。そう言い残して 主イエスは天に帰られたのです。

 それゆえ、教会はキリストを証しするものとして、この地上に建てられて いるのです。教会に属する私たちは、キリストを証しするものとして、この 地上を生きるのです。この世に来られ人間となられたキリスト、私たちの罪 の贖いのために十字架にかかられたキリスト、復活して今も生きておられる キリスト、天に上げられ神の右に座しておられるキリスト、そしてやがて再 び来られ生ける者と死ねる者とを裁かれるキリスト――このキリストを私た ちはこの世のただ中において指し示して生きるのです。

 当たり前の話ですが、私たちは死んで後に、天においてキリストの証人で ある必要はありません。私たちがキリストの証人である必要があるのは、こ の地上に生きている間です。地上にある間に、地上の人々にキリストを伝え ねばなりません。「私は死んだ後に夜な夜な息子の枕元に現れてキリストを 伝えることにします」などと言ってはなりません。地上にある間に、地上に おいてしかできないことを、しっかりとしておかなくてはならないのです。

 しかし、それは私たち自身の力によって成し遂げられることではありませ ん。主イエスは弟子たちにこう命じられたのです。「エルサレムを離れず、 前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。そし て8節において、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受け る。そして、…わたしの証人となる」と言われたのです。そのように、キリ ストを証しすることは、人間の持っている生来の力によって成し遂げられる のではありません。教会は、そこに属する人間の能力の大きさによってキリ ストを証しするのではありません。これは上よりの力によるのです。聖霊の 力によるのです。ただ天を見上げて立っているだけならば、聖霊の力と働き を求める必要はありません。しかし、この世にあってキリストを証しするも のであろうとするならば、上よりの力、聖霊の力を求めねばならないのです。

 それゆえに、キリストの昇天を見た弟子たちは、父が約束された聖霊の降 臨をひたすら祈り求めたのでした。昇天の祝日を経て、私たちもまた聖霊降 臨祭へと向かいます。これは必然的な流れです。私たちは、この地上の人生 を終えた後のこと、天のことについてあれこれ心配する必要はありません。 天にはキリストがおられます。このことについては安心して良いのです。私 たちが心を用いるべきは再びキリストを迎えることになるこの地上のことで す。既に約束の聖霊は二千年前のペンテコステの日に、この地上に注がれま した。その聖霊が私たちにも力を与え、キリストを証しする者としてくださ いますように。キリストが再び来られるその日まで。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡