「永遠の契約」
2004年5月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記9・8‐17
本日の聖書箇所は、有名な「ノアの箱舟」の物語の一部分です。今日は特 にこの聖書箇所に繰り返し出てまいります「契約を立てる」という表現に注 目したいと思います。
●人間の堕落
まず、この言葉と関連して、少し前に書かれていることを見ておきましょ う。1節以下にこう書かれています。「神はノアと彼の息子たちを祝福して 言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての 鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐 れおののき、あなたたちの手にゆだねられる』」(9・1‐2)。この言葉 は見覚えがありますでしょう。創世記1章に出てきた言葉に良く似ています。 天地創造物語の中で、人間の創造についてこう語られておりました。「神は 御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に 創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて 地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』 (1・27‐28)。このように、今日の聖書箇所は、天地創造物語と深い 関係にあることが分かります。
ところで、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と ありましたが、この「支配する」という言葉は、今日あまり良いイメージと 結びつかないようです。世の中に悪い支配者があまりにも多いためでしょう。 しかし、この「支配する」という言葉自体に、否定的な意味が含まれている わけではありません。ここで語られているのは創造主の御心に従って被造物 世界を正しく管理するということです。人間はそのような光栄ある務めを託 されたのです。
ところが、6章に至りますと、この世界の管理を任された人間が、次のよ うに描写されているのを見ることになります。「主は、地上に人の悪が増し、 常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造 ったことを後悔し、心を痛められた」(6・5‐6)。「この地は神の前に 堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、 すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」(6・11‐12)。
このような言葉を読みますと、次のような疑問が心の内に湧き上がってく るかもしれません。「人間はどうして堕落するようなことになったのか。神 は堕落しないように人間を造ることはできなかったのか。どうして神は後悔 するような事態を未然に防ぎ得なかったのか」と。しかし、そのような疑問 について、どうも聖書はあまり関心を持ってはくれないようです。聖書の関 心は、《どうしてそうなったのか》ということよりも、《現実はどうである か》ということに向かっているからです。確かにこの地上には人の悪が満ち ており、人間は常に悪いことばかりを心に思い計っているという現実がある のです。地が神の前に堕落しているという現実があるのです。どうしてそう なったかはさておき、聖書が描き出しているこの現実は否定しようがないで しょう。
そのような人間と被造物世界全体を、神は滅ぼすと宣言されたのです。次 のように書かれています。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前 に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろと も彼らを滅ぼす」(6・13)。そして、この言葉を実現するために、神は 洪水を起こされたのでした。私たちが良く知っている、この物語の展開です。
●なぜ「洪水」なのか?
しかし、ここで私たちは「なぜ『洪水』なのか」を良く考えねばなりませ ん。なぜ火で焼き滅ぼしてはいけないのでしょう。なぜ単に消滅させるだけ ではいけないのでしょうか。なぜ他の方法であってはいけないのでしょうか。
そこで注意深く読みますと、洪水について次のように書かれていることに 気づきます。7章11節以下を御覧ください。「ノアの生涯の第六百年、第 二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開 かれた」(7・11)。天の窓が開かれて、上から水が落ちてくるだけでは ありません。下からも水が溢れてくるのです。わざわざそのような書き方が されているのです。なぜでしょう。
先ほど、今日の聖書箇所は天地創造物語と関係があると申しました。もう 一度、天地創造の箇所を見てみましょう。1章2節を御覧ください。「地は 混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1・ 2)。これが秩序なき混沌である原初の状態です。この混沌の中に、神が秩 序を造り出していきます。神は「光あれ」と言われました。そのことによっ て最初に造り出された秩序は「昼と夜」です(5節)。そして、次に造り出 された秩序は次のように表現されています。「神は言われた。『水の中に大 空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分 けさせられた。そのようになった」(1・6‐7)。そして、さらに下の側 の水について次のような秩序が生み出されます。「神は言われた。『天の下 の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾い た所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」(1・9‐10)。
さて、ここまで読んでお気づきになられたと思います。ノアの箱舟の物語 における洪水では、せっかく上と下に分けられた水が再び一つになってしま うのです。また、水と分けられて造られた乾いた地が、再び水に覆われてし まうのです。要するにこの洪水は、《混沌の状態への逆戻り》として描かれ ているのです。
創世記1章の天地創造物語に込められているのは、「この世界に秩序を与 え、意味を与えられたのは神である」というメッセージであることを以前申 し上げました。それはすなわち「神を離れた世界は再び初めの混沌に戻らざ るを得ないのだ」ということを意味します。そして、まさにその通りのこと が6章以下において起こっているのです。神に背き離反した世界が混沌へと 逆戻りするのです。そのような逆行が神の裁きとして起こるのです。もちろ ん、ここで直接的に問題とされているのは人間の罪であり悪です。しかし、 私たちも良く知る通り、神に背いた人間の悪の影響は、人間社会の中だけに 留まることはありません。それは被造物世界全体に混沌をもたらすのであっ て、世界全体が滅びに巻き込まれるという事態を引き起こすのです。
そして本来ならば、神の裁きによって、混沌に戻った世界の中で、すべて 肉なる者は滅びているはずなのだ、と聖書は私たちに告げているのです。神 はこう言われました。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来 ている」(6・13)と。ですから「すべて肉なるもの」が滅びるはずだっ たのです。しかし、ここで神の言葉と行動の間に奇妙な矛盾が生じることに なります。神は「《すべて》肉なる者を終わらせる」と言われたにもかかわ らず、実際には《すべて》を滅ぼそうとはなさらないのです。そもそも「す べて肉なるものを終わらせる時が来ている」と、当の「肉なるもの」の一人 であるノアに話していること自体、おかしいではありませんか。そして、そ のノアが残されるのです。いや、ノアだけならまだ分かります。実際には、 ノアだけでなく、その家族も残されるのです。さらには「すべて命あるもの、 すべて肉なるものから、二つずつ」(6・19)も残されるのです。
さて、多くの人はこれを単なる過去の話としてしか読みません。ある人は この出来事の歴史性を主張して、アララト山にノアの箱舟の残骸を捜し求め ます。ある人は真剣に受けとめる価値のない昔話の一つとして軽く聞き流し ます。いずれにせよ、それは過去に属するものでしかないのです。しかし、 これを伝えたイスラエルの人にとって、特に国家の滅亡と捕囚を経験した人 々にとって、これは単なる過去の話ではなかったのです。滅ぼし尽くされる ことなく残されたノアとその家族と動物たち――その中に他ならぬ自分たち の姿を見ていたのです。
私たちが本当の意味でこの物語を読むことができるかどうかも、私たちが 自分の姿をここに見出すことができるか否かにかかっていると言えるでしょ う。私たちが神の裁きにによって混沌の中に滅びることなく、今なお大地の 上に残されている。それは当たり前のことではないのです。私たちが立って いるこの大地は、まさに恵みによって与えられている大地に他ならないこと を、この物語は示しているのです。
●神によって立てられた永遠の契約
そのことを心に刻みつつ、本日の聖書箇所に戻ることにしましょう。こう 書かれておりました。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、 契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共 にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみなら ず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたな らば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、 洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9・9‐11)。
私たちは通常「契約を立てる」という言い方はいたしません。「契約を結 ぶ」と言います。聖書には「契約を結ぶ」と訳される言葉が別にあります。 日本語では契約を「結ぶ」ですが、ヘブライ語では契約を「切る」と表現し ます。実際の行為としては、契約を結ぶ時、当事者たちは二つに切り裂かれ た動物の間を通るということをいたします。そうすることによって、契約を 破ることは死を意味することを承認するのです。こうして契約が結ばれます。 そのように、契約を「切る」と表現する時には、両者が関わるのであり、両 者の真実が問われるのです。
ところが、ここでは神が「契約を立てる」と言っているのです。立てるの は神です。立てることに関わっているのは神だけです。その意味では一方的 に結ばれる関係です。先にも見ましたように、裁きの対象となっていたのは 「すべて肉なるもの」でありました。ノアもその家族も、その「すべて肉な るもの」の内にありました。そして、「すべて肉なるものを終わらせる時が わたしの前に来ている」と言われていたように、本来、すべて肉なるものと 神との関係は終わっているのです。ですから、被造物はすべて滅びるしかな かったのです。ノアとその家族、残された動物たちも同じです。にもかかわ らず、神の側から、まったく一方的に、ただ神の恵みによって、神とすべて 肉なるものとの間に契約が立てられたのだというのです。
そして、その契約のしるしは「虹」であると語られていることも重要です。 虹は代々にわたって現れます。そのように神は代々にわたってこの契約に心 を留めてくださるのです。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、 神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に 心を留める」(9・16)と主は言われるのです。
私たちはいったいこの世界をどのように見ているのでしょう。そこに生き る私たち自身をどのように見ているのでしょう。この世界もそこに生きるす べてのものも、ただ滅びに向かっているだけの意味のない存在なのでしょう か。いいえ、そうではないのです。この世界は、神によって立てられた永遠 の契約の対象なのです。この世界はそのような世界なのです。すべて肉なる ものはそのような存在なのです。そのゆえに神は、この世界のために壮大な 救いの計画を立てられ、そのひとり子をこの世界に遣わして肉なる者の一人 とすることさえ厭われなかったのです。
「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(8・21)と主は言わ れました。確かに主の言われるとおりです。この被造物世界は今もなお、そ のような人間の罪のゆえに、苦しみと嘆きの声が絶えることのない世界です。 今なお黒雲が立ちこめ闇が覆っている世界です。しかし、そのような世界に も、繰り返し虹が立つのです。それゆえに、繰り返し虹が立つこの被造物世 界とそこに生きる私たちは、今もなお神の愛と恵みの対象とされていること を忘れてはならないのです。