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「バベルの塔」

2004年5月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記11・1‐9, 使徒言行録2・1‐4

 本日お読みしましたのは、「バベルの塔の物語」として知られています聖 書箇所です。物語に登場するのは東の方からシンアルの平野に移住した人々 です。彼らは言いました。「れんがを作り、それをよく焼こう」。彼らは石 の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるようになり ました。そして、新しく手に入れた技術をもって、彼らは一つのことを企て るのです。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、 全地に散らされることのないようにしよう」(4節)と。

●天まで届く塔のある町の建設計画

 この「天まで届く塔のある町の建設計画」について考えてみましょう。そ の塔は高くなくてはなりません。その塔は天にまで達しなくてはなりません。 天というのは神の領域です。彼らは神の領域にまで達することを目指したと いうことです。いわば神と等しくなることを求めたのです。その塔の建設の 目的は、「有名になる」ためであったと書かれています。「有名になる」と 言いましても、ここで彼らが求めているのは、単に多くの人々に知られるこ とではありません。「有名」とは「名が有る」と書きますが、ここで用いら れているのは「名を作る」という表現です。人間が偉大なる「名」を得よう とするのは、その偉大なる「名」に伴う力、支配力を持つことを求めてのこ とです。絶対的な支配力を持つためには、神の領域にまで達しなくてはなり ません。神のごとくにならねばなりません。「天まで届く塔」――それは人 間が求めてやまない絶対的な支配の象徴です。天まで届く塔のある町に属す る者は、そのように神のごとく支配する側の人間になるのです。

 彼らはなぜ力を求め、支配する側の人間になることを求めたのでしょう。 彼らはこう言います、「そして、全地に散らされることのないようにしよう」 と。では、《支配力を求めること》が、どのように《散らされないこと》と 結びつくのでしょうか。私たちはここで少なくとも二つのことを考えること ができるでしょう。

 第一に、《散らされないためには自らを守らねばならない》ということが 考えられます。力がものを言う古代の社会において(いや、それは現代社会 においても同じかもしれませんが)、弱い者は強い者の力によって常に脅か されています。弱い者は常に滅びの危険に晒されています。滅びを免れるた めには、しばしば現在の場所を捨てて他の場所へと散っていくことが必要と なります。散らされないようになるためには強くならねばならないのです。 支配する者であるかぎり、散らされることはありません。そのためには、他 に脅かされることのない「名」を持たねばならないのです。

 そして第二に、私たちも良く知っているように、支配力を求めることは、 人々を一つにする求心力となり得るのです。強くなること、力を持つこと、 支配する者となること――これは極めて魅力的な目標です。それらを求める ことは、しばしば《偉大なる高き理想》となります。そして、その理想に向 かって、人間はいくらでも一致団結するのです。そのために人は喜んで自ら を献げ、他の者と力を合わせて働くことができるでしょう。理想の実現に向 かう時、そこにはもはや「わたしは、わたしは」と自己主張するような者な どおりません。《個》というものは、理想の実現へと向かう《全体》のため にこそ存在するようになります。そのように、まさに一丸となって働いてい る人々の姿が目に浮かぶようではありませんか。

●散らし給う神

 ところが、この物語において、そのような高い塔のある町の建設計画は失 敗に終わってしまうのです。もはや決して散らされることのない理想的な町 の建設は、成し遂げられることなく中途において挫折し、偉大なる理想は無 惨にも崩壊してしまいました。そして、そこには混乱だけが残ったのです。 それがこの「バベルの塔の物語」の顛末です。

 さて、私たちはこの物語を読みます時に、これが単なる昔話でないことを 思わずにおられません。これは確かに人間が歴史において繰り返してきたこ とであり、今もなお繰り返していることであるに違いないからです。国家レ ベルの事柄から私的な小さな集団に至るまで、人はいつでも何らかの形にお いて「高い塔のある町」を求めているものです。そのことによって力ある名 を得、自分たちが影響力を持ち、支配力を持つことを求めているものです。 そのためにはいくらでも一つとなろうとするのです。しばしば教会もその例 外ではありません。自分たちのために、「天まで届く塔のある町」のような 教会を目指そうとするのです。

 しかし、そのような企てはやがて崩壊に至ります。その崩壊は、この物語 に見るように、内部から始まります。その崩壊は言葉の混乱によって起こり ます。互いに言葉が通じなくなるのです。この物語では、異なる言語を話す ようになった、という話になっています。しかし、言葉が通じなくなるのは、 必ずしも異なる言語を話す場合だけではありません。同じ言語を話しながら、 もはや意思の疎通が不可能になることはいくらでもあるのです。そのように 考えますと、ここに書かれていることは、決して遠い話ではありません。確 かに、「天まで届く塔のある町」になるはずだったものが、気づいてみれば、 互いに相手の言葉が理解し合えない「バベルの町」になっていることがある のです。

 さて、私たちはそのような内部からの分裂と混乱が、ただ単に人間の愚か さによってではなく、神の介入によって起こっていることを、しっかりと読 みとらねばなりません。聖書にはこう書かれているのです。5節以下を御覧 ください。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このよう なことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはでき ない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞 き分けられぬようにしてしまおう』」(5‐7節)。

 人間は一つとなることを求めます。それが良きことであると考えます。し かし、人間が一つとなっている状態を、聖書は単純に善きことであるとは言 いません。いやむしろ、支配する者となることを求めて一つとなり、もはや 何によっても妨げられることのないほどに突き進んでいくことは、極めて恐 ろしいことであると見ているのです。それは、神が直接的に介入し阻止しな くてはならないほどに恐ろしいことなのです。実際にそのような恐るべきこ とが歴史において繰り返し起こりました。それゆえ、その恐るべき企てを頓 挫させるため、神は混乱と分裂をもたらされるのです。

 ここで特に、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ」と書 かれていることに注意してください。創世記一章における人間の創造の場合 と同じように、神は唯一であるにもかかわらず、「我々は…」と表現されて いるのです。つまり、わざわざ会議における決定であるかのように書かれて いるのです。このことにおいて表現されているのは、神の深い熟慮に基づく 御計画です。不一致、分裂、計画の頓挫、崩壊――これらは人間の目には悪 しきことに映りますでしょう。しかし、そこにはしばしば神の深い御旨と御 計画があるのです。《主が》散らし給うのです。「主がそこから彼らを全地 に散らされたからである」(9節)と書かれているとおりです。

●集め給う神

 しかし、話はそこで終わりません。混乱と離散が神によってもたらされる 結論なのではありません。散らし給う神はまた、集め給う神でもあるからで す。

 私たちは今日、もう一つの聖書箇所をお読みしました。今から約二千年前 の五旬祭における出来事を伝えている聖書箇所です。こう書かれています。 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風 が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そ して、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。す ると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉 で話しだした」(使徒言行録2・1‐4)。

 ここに描かれている出来事は、いわば教会の宣教の開始を告げる、神によ る一大デモンストレーションです。突然彼らは、「ほかの国々の言葉」で話 しだしました。これは何を示しているのでしょう。それは、教会がユダヤの 中に留まらず、やがてサマリヤへ、さらには世界の果てにまで、福音の言葉 を携えて出て行くことを示しているのです。教会は様々な言葉と文化を持つ 異なる国々へと出て行くことになるのです。そして、この聖霊の働きによっ て、実はあのバベルの塔の出来事とは全く逆のことが起こっているのです。

 あの物語では、神の介入により、人々が異なる言語を話し始めました。あ の五旬祭の日にも、そこに集まっていた人々は、異なる言葉を話し始めます。 しかし、それは彼らが互いに理解し得なくされ、散らされるためではありま せん。神の霊によって誕生した教会は、異なる言語を話す国々へと遣わされ、 世界中に散らされている人々を集めるために用いられるのです。人間はバベ ルの塔のもとに集まろうとします。しかし、神の霊は聖餐卓の周りに人々を 集めます。すなわち、十字架にかかられたキリストのもとに人々を集めるの です。人間は高きところに集まろうといたします。しかし、神の霊は低きに 降られた御方のもとに人々を集め給います。人々は支配する側に集まろうと します。しかし、神の霊は人々を仕える者とするために集め給うのです。そ れこそが、あの五旬祭の時に始まった、聖霊の御業としての宣教の働きです。 そのような聖霊の御業によって私たちもまたキリストのもとに集められてい るのです。

 
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