「神に造られたものとして」
2004年6月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記1・26‐31, エフェソ2・8‐10
●三つの関わりにおける人間理解
人間の生き方は、その人が自分をどのように見、どのように理解している かによって決まります。自分を価値のない者として見ている人は、価値のな い者としてしか生きられません。自分を猿やブタと同じだと思っている人は、 猿やブタのようにしか生きられません。自己理解の基礎となるのは人間観で す。そもそも「人間」をどう理解するのか、ということです。
では聖書は人間をどう見ているのでしょう。本日の短い聖書箇所には聖書 の人間観が明瞭に提示されています。ここに見るように、聖書は人間を三つ の関わりの中で理解しているのです。
第一に、人間は神との関わりの中で理解されています。「神は自分にかた どって人を創造された。神にかたどって創造された」(27節)。「人間は 神によって創造されたのだ」という主張は、すなわち「私たちが存在するこ との背後には、はっきりとした一つの意志があるのだ」ということを意味し ます。私たちの存在を望んでいる意志があるのです。私たちは神に望まれて 存在しているのです。しかも、人間は神にかたどって創造されたと教えられ ています。私たちは神の像です。神の恵みの支配と神の栄光を現す像として 存在しているのです。
第二に、人間は他の人間との関わりの中で理解されています。「神にかた どって創造された」という言葉に続いて、「男と女に創造された」と書かれ ています。そのように人間は本来複数で存在するものとして書かれているの です。このことはまた、2章18節において「人が独りでいるのは良くない」 (2・18)という表現として現れます。これは道徳的に良くないというこ とではありません。神の御心に適っていないということです。そして二章に はわざわざ男と女が創造された次第が描かれています。このように、「人間 は他者との関わりにおいて初めて本来の人間であり得る」ということが語ら れているのです。しかも、その複数性が「男と女」と表現されていることも 重要です。男と女は異なります。それは互いに異なる二者を代表していると 言えるでしょう。そのように、人間とは本来、《自分自身とは異なる他者と 共に生きる存在》なのです。
そして、第三に、人間は他の被造物との関わりの中で理解されております。 まず28節では次のように述べられています。「神は彼らを祝福して言われ た。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上 を這う生き物をすべて支配せよ』」(28節)。もちろん、この「支配せよ」 という言葉は、あくまでも《神によって与えられた言葉》として理解されな くてはなりません。すなわち、これは人間が被造物世界を思い通りにしてよ いということではなく、人間が欲するままに搾取してよいということでもあ りません。あくまでも神から託された務めです。人間は、神から務めを託さ れた者として、神の御心に従ってこの被造物世界を管理することを求められ ているのです。
しかし、被造物世界と人間との関わりは、それですべて語り尽くされてい るわけではありません。そこにはもう一つの側面があります。29節以下を 御覧ください。「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を 持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食 べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあ らゆる青草を食べさせよう。』そのようになった」(29‐30節)。すな わちこの被造物世界には、神から与えられた賜物としての側面があるのです。 その代表が「食べ物」です。人間は神から与えられた賜物に囲まれて生活す るものとされているのです。
●神の賜物としてのモノ
さてここで、神の賜物としての「食べ物」について考えてみましょう。私 たちが生きるためには「食べ物」が必要です。しかし、「食べ物」は単に生 命を維持するために与えられているのではありません。私たちの体験から分 かりますことは、少なくともそこに《生命維持》に加えて、《喜び》という 要素があるということです。旧約聖書において「食べる」という言葉と「喜 ぶ」という言葉がしばしば結びついて現れることからも、これが神の意図で あることが分かります。
《喜び》がそこにあるということは、神の賜物として与えられているもの を、まさに《賜物として》体験する機会がそこにある、ということでもあり ます。そして、食べ物を神の賜物として体験するということは、そこに《感 謝》が生まれるということでもあります。ですから、食事の時には感謝の祈 りを捧げますでしょう。食べ物を神の賜物として受け取り、そして神に感謝 を捧げる――そこにあるのは神との豊かな交わりです。そのように食べ物は、 いわば神と私たちとの交わりをなかだちするものとしての意味を持っている のです。
もちろん、それは何も《食べ物》だけではありません。《食べ物》は代表 です。私たちは神の賜物としての、ありとあらゆる被造物に囲まれて生活し ているのです。私たちは食べ物のみならず、ありとあらゆるモノとの関わり において、神の恵みに与っています。それがこの地上における私たちの具体 的な生活でしょう。そのような具体的なモノとの関わりの中にまた神との交 わりもあるのです。そのように神との豊かな交わりに生きるようにと、私た ちは他の様々な被造物との関わりの中に置かれているのです。
●壊れてしまった関係
これが人間とそれを取り囲む被造物世界との、本来あるべき関係です。し かし、もう一方において、現実にはその関係が壊れてしまっていることを私 たちは知っています。食事がもはや神との交わりを生み出さず、あらゆるモ ノもまた神との交わりをなかだちするものとはなっていないという現実があ るのです。人間はひたすらモノを追い求めます。しかし、そこにおいてモノ はただ人間の欲望の対象でしかありません。そして、塩水を飲めばもっと喉 が渇くように、モノによって欲望を充足させればさせるほど、さらにその欲 望は増大していきます。留まるところを知りません。
そして、トータルに見るならば、明らかにこの被造物世界はそのような人 間の飽くなき欲望を充足させるための搾取の対象となっております。人間は もはや神から託された務めを負う管理者ではなく、神のごとく振る舞う暴君 となっているのです。もちろん暴君として振る舞ってきたことのツケが回っ てくれば、反省も起こります。反省することは大事なことであるに違いあり ません。しかし、そのような形で環境問題が論じられる時、必ずしも根本問 題に目が向けられているわけではありません。問題は人間と被造物との間の 正しい関係が壊れてしまっていることにこそあるのです。
そして、問題は単独で存在するのではありません。最後のボタンが掛け違 っているならば、そもそも最初のボタンが掛け違っているのです。先に、聖 書は人間を三つの関わりで見ていると言いました。人間と被造物世界との正 しい関係が壊れているとするならば、それはそもそも人間と神との関係およ び人間同士の関係が壊れているからです。物欲に振り回されてしまっている 個人の問題も、地球を破壊しつつある人類全体の問題も、その問題の根を辿 るならば、それは神と人間との関係が壊れていることにあるのです。
●キリスト・イエスにおいて造られたもの
ですから、まず最初のボタンからかけ直さなくてはならなりません。まず 神との関係が回復されねばならないのです。そして、まさにそのためにキリ ストは来てくださったのです。キリストは十字架の上で苦しみを受け、私た ちの罪を贖ってくださいました。私たちはこのキリストのゆえに罪を赦され、 神に受け入れられるのです。私たちはキリストを信じる信仰により、神との 正しい関係の内に再び据え直されるのです。私たちはこうして新しく神に造 られたものとして生き始めることができるのです。パウロが次のように語っ ているとおりです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救わ れました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いに よるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜ なら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備し てくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。 わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ2・8‐10)。
パウロが言っているように、私たちがキリスト・イエスにおいて「造られ る」のは、「神が前もって準備してくださった善い業のため」です。「善い 業」とは何でしょう。それは神に造られた人間として生きることに他なりま せん。神に造られた人間として、神との正しい関係に生き、他者との正しい 関係に生き、そして他の被造物との正しい関係に生きることです。
私たちが自分自身を神に望まれて存在している者と見るときに、私たちは また他の人間もまた神に望まれて存在していることを見出します。そして、 そのような隣人と共に「食べ物」を食べ、共に神の賜物を受ける時、私たち はまた、神の賜物として与えられているありとあらゆる被造物に取り囲まれ ていることを見出すのです。その時、私たちの周りにあるすべてのモノは、 もはや単なる私たちの欲望の対象ではありません。この世界は人間の搾取の 対象ではありません。まさにすべてのモノが私たちの内に感謝と讃美を呼び 起こし、私たちを神との豊かな交わりに、そして互いの豊かな交わりに招き 入れるものとなるのです。
その「善き業」はどこから始まるのでしょう。ここから始まるのです。聖 餐卓から始まります。キリスト・イエスにおいて新しく造られた者として、 共に食べ物を食べる「感謝」の食事から始まるのです。