「神の国のたとえ」                         マルコ4・26‐32 ●御国を来たらせたまえ  「天にまします我らの父よ。御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせた まえ」――主イエスが教えてくださった祈りです。「御国を来たらせたまえ。 神の国が来ますように。」そう祈りなさいと、主は祈りの言葉を私たちの口 にさずけてくださいました。ですから、私たちは繰り返し繰り返し、この祈 りの言葉を口にします。今日も礼拝において、心を合わせて祈りました。  私たちは様々な思いを抱きつつ、この祈りを口にします。父よ、御国を来 たらせたまえ。この世界において憎しみと怒りに満ちた人々が互いに殺し合 っています。父よ、御国を来たらせたまえ。この世において正義はねじ曲げ られ、弱い者、小さい者は踏みにじられています。父よ、御国を来たらせた まえ。共に働いている人々と、共に学んでいる人々と、助け合いながら平和 に過ごすことができません。人と人との間に、父よ、御国を来たらせたまえ。 一つの家に住みながら、夫と妻が、親と子が、もはや心通わせ愛し合って生 きることができません。この家庭のただ中に、父よ、御国を来たらせたまえ。 神に望まれてこの世の生を受け、この世にたった一つの掛け替えのない尊い 人生を与えられたのに、抑えがたい衝動と悪魔の力に振り回され、今や混沌 の中に生きています。この罪と汚れに満ちた人生に、父よ、御国を来たらせ たまえ。私の体は病んでいます。私の心は恐れと不安でいっぱいです。この 心の中に、父よ、御国を来らせたまえ。――私たちは様々な思いを込めて、 この祈りの言葉を口にします。  私たちは往々にして、強さを誇り、虚勢を張り、何でも自分の力で解決で きるかのように振る舞っているものです。自分さえしっかりすれば良いのだ と自分自身に言い聞かせ、自らを叱咤激励して生きています。しかし、心の 奥底において、私たちは皆、良く知っているのです。本当は自分の力ではど うにもならないことを――この広い世界の問題から、小さな自分の心の問題 に至るまで、そこに神さまが来てくださらなければ、神さまの御支配が訪れ るのでなければ、本当はどうにもならないことを、私たちは良く知っている のです。こうして主を礼拝している時まで、片意地を張っている必要はあり ません。素直に求めたら良いのです。主イエスが教えてくださったからです。 「父よ、御国を来らせたまえ」と祈りなさい、と。  そして、主イエスはそのように祈る私たちに、さらにたとえをもって語り かけてくださいます。神の国のたとえです。私たちは「御国を来たらせたま え」と共に祈る者として、主の語りかけに耳を傾けたいと思います。 ●「成長する種」のたとえ  はじめに4章26節以下を御覧ください。主イエスはこう言われました。 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きして いるうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は 知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そして その穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が 来たからである」(26‐29節)。  私たちがこのたとえ話を聞く時に、現代的な感覚を持ち込まないように注 意しなくてはなりません。私たちは小学校の理科の授業で、植物の発芽につ いて学びました。ですから、蒔かれた種が芽を出すのは自然のプロセスであ ると考えています。しかし、主イエスの時代の人々にとってはそうではあり ません。種が地に蒔かれるということは、種が一度死ぬことを意味したので す。埋葬に似ているからでしょう。しかし、不思議なことに、死んだはずの 種が芽を出します。ですからそれは当時の人々にとっては、自然のプロセス ではないのです。それは神の為し給う奇跡なのです。そして、その芽が伸び てやがて実を結ぶようになることも、これは神の御業に他ならないのです。  神の国がそのような種の成長に喩えられているということは、それが人間 の力による自然的な発展と同一視されてはならないことを意味します。神の 支配がもたらされるということは、神の御業なのであり、まさに神秘的な出 来事なのです。このことが分からない人は、たとえばキリスト教というもの を、《良いことを学んで良い人間になることだ》ぐらいにしか考えません。 《教会》という呼び名がそもそも誤解のもとなのかもしれません。これを 《教える会》ぐらいにしか考えていない人が多いのです。あるいはキリスト 教というものを、《より良い社会秩序を実現するための運動》ぐらいにしか 考えていない人もいます。その場合、教会で行われる礼拝は、運動のための アピール集会や講演会と同一視されることになります。しかし、主イエスが 当時の感覚をもって種まきについて語っておられた時、まさに主は神の神秘 的な御業について語っておられたのです。神の国がもたらされるということ は、教育や運動の結果以上のことなのです。  そのように、それは神の御業なのですから、人間の知らないところで、人 間の理解を越えた仕方で進んでいきます。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝 起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、 その人は知らない」(27節)と語られているとおりです。この「夜昼」と いう表現にも、私たちに馴染みのない感覚が言い表されています。私たちな ら「昼夜」と表現するでしょう。しかし、ユダヤ人にとって一日は日没から 始まります。人間が一日の最初にすることは寝ることなのです。そして、人 間が安心して寝ていられるのは、その間も神の活動は継続しているからです。 詩編121編にも、「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、 眠ることもない」(詩121・4)と歌われているとおりです。そして、神 の御業が進み、準備が為されたところに人は目覚めます。そこで人は自分の 知らないところに神の御業があり、神の備えがなされていたことを知ること になります。実際、それが私たち人間の経験ではありませんか。  ですから「土はひとりでに実を結ばせるのである」とも言われているので す。それは人間の力によるのではないのです。もちろん「農夫は何もしてい ない」と言ったら農夫は怒るでしょう。彼は種を蒔きます。手入れもするで しょう。彼は農作業をしなくてはなりません。同じように、私たちは地上に おいて為し得ることを行わなくてはならないのです。教育にも努めますし、 より良い社会秩序を実現するために働くことも大事なことです。しかし、農 夫が「私の農作業が植物を成長させ実を結ばせたのだ」と言ってはならない ように、私たちは「自分たちの働きが神の国を実現するのだ」と言ってはな らないのです。それは神の為し給う奇跡なのです。 ●「からし種」のたとえ  さらに主イエスはもう一つのたとえを話されました。30節以下を御覧く ださい。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それ は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種より も小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の 鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(30‐32節)。  このたとえにおいて、主は蒔かれる「種」そのものに、私たちの注意を向 けさせています。特に注目すべきはその《小ささ》です。ですから、主はあ えて当時知られていた種の内で最も小さな「からし種」を引き合いに出され たのです。  神の国の小さな「種」とは何でしょう。今日お読みしました箇所の少し前 を読みますと、「種」とは「神の言葉」であることが分かります。しかし、 語られる言葉と語る者の存在とは切り離すことができません。語られた「神 の言葉」と語り給うた「イエス・キリスト」は切り離すことができません。 ヨハネによる福音書は、主が「種」について語られた別の言葉を伝えていま す。こう言われたのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒の ままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・24)。主は 御自分が十字架にかけられて死ぬときが来たことを悟ってこう言われたので す。このように、キリスト御自身が神の言葉であり、キリスト御自身が地に 落ちて死ぬ神の国の種なのです。  そのように、神がこの地上にイエス・キリストという種を蒔き給いました。 神はキリストを十字架にかけ、私たちの罪を贖う犠牲とされました。それは 神がこの世界に投じられた神の国の種でした。そして、今や福音の宣教の言 葉を通して、世界中にイエス・キリストが伝えられ、イエス・キリストとい う種が蒔かれているのです。こうして、私たちがキリスト者として存在する こと――それは確かに既にキリストという種が蒔かれていることを示してい ます。この地上に教会が存在すること――それは既に神の国の種が蒔かれて いることを示しているのです。  確かに私たちの目に映っているのは、実に小さな取るに足りないことであ るかもしれません。「わたしは家でたった一人のキリスト者です。私は小さ い者であり、私が存在することなど、何の意味もありません。」「この国の キリスト者人口はせいぜい1パーセント足らずです。この国に教会があるこ となど、ほとんど何の意味もありません。」確かにそのように言いたくなる かもしれません。しかし、キリストはそのように見てはおられないのです。 私たちの目に小さく見えても、既に種が蒔かれているということは、とてつ もなく大きな意味を持っているのだと、主はここで語っておられるのです。  からし種がどんなに小さくても、それが成長するならば、やがて大きな枝 を張ることになります。言い換えるならば、小さな種の中に既に大きな木が 未来に向けて備えられているということです。私たちがキリスト者として存 在すること、この世界に教会が存在することが、たとえどんなに小さく見え ても、取るに足りないものに見えても、そこに蒔かれている種の中には神の 国が既にあるのであり、やがてそれが現れ出る時を待っているのです。  「御国を来たらせたまえ」――そう祈る私たちは、もう一方で既に神の国 の種が蒔かれているという事実にしっかりと目を向けねばなりません。既に 種が蒔かれているならば、農夫が収穫の時を待ち望みながら農作業をするよ うに、私たちもまた神の御業を信じて、焦ることなく、落胆することなく、 希望を抱いて喜びながら、私たちにできることを淡々と行っていったら良い のです。それが「御国を来たらせたまえ」と祈る私たちの生活です。