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「忍耐して待ち望む」

2004年6月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ8・18‐25

●将来現されるはずの栄光

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取 るに足りないとわたしは思います」(ローマ8・18)。パウロの言葉です。 苦しみを知っている人の言葉です。パウロの目は苦しみに満ちた現在から、 栄光に輝く未来へと向かって開かれています。私たちもまた、パウロのよう に顔を上げて、目を未来に向かってしっかりと開かなくてはなりません。そ うでなければ、本当の意味で苦難に立ち向かうことができません。周りばか りを見ている限り、幸せそうな人を見ては、「なぜ私ばかりが苦しむのか」 と嘆いたり、自分より不幸な人を見ては、「自分はこの人ほどは苦しんでい ない」と言って自分を慰めたりしているのが関の山です。他人との比較の中 に、真に苦しみを耐えさせる力はありません。苦しみに耐えさせる力は確か な希望から来るのです。

 では、本当の意味で確かな希望はどこにあるのでしょうか。あなたには希 望がありますか。あなたは何を希望として生きてきたのでしょうか。それは どんな時にも失われることのない希望でしょうか。病床に伏してもなお抱き 続けることができる希望でしょうか。高齢となって体の機能が次第に衰えて いってもなお抱き続けることのできる希望でしょうか。やがて人生の終わり にさしかかった時、その死の床においてなお抱き続けることのできる希望で しょうか。既に信仰生活の長い方々にもあえてお聞きしたいと思います。あ なたは信仰者として、何を希望として生きてきたのでしょうか。それは本当 に「希望」と言えるものなのでしょうか。

 パウロはここで何について語っているのでしょう。彼はここで「将来わた したちに現されるはずの栄光」について語っているのです。その「栄光」が 何を意味しているのかは、その直前に書かれていることを読みますと分かり ます。14節以下を御覧ください。「神の霊によって導かれる者は皆、神の 子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、 神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、 父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、 わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、 相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キ リストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(14‐17 節)。これがパウロの語る希望の内容です。

 キリスト者となるということは、少しばかり良い人間になることではなく、 ある特別な価値観を持って生きるようになることでもありません。そうでは なく、神の子とする霊を受け、神の子として生きることです。すなわち、神 の霊に導かれ、神に向かって「父よ」と呼びかけ、イエス・キリストの父な る神を自分自身の父として生きることなのです。それはいわばキリストの兄 弟となることであり、共同の相続人となることでもあるのです。ですから、 キリストが受けたものを私たちもまた受けるのです。「キリストと共に苦し むなら、共にその栄光も受ける」とパウロは言います。キリストの苦しみは 十字架です。キリストの栄光は復活です。「共にその栄光をも受ける」とは、 私たちもキリストの復活の様と等しいものとされる、ということです。私た ちもまた、復活したキリストと同じ栄光の姿に変えられるのです。人間の最 後は栄光とは最も遠いものに思われます。しかし、そのような朽ちゆく死人 の姿が私たちの最後の姿ではないのです。キリストにおいて現された栄光こ そ、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」なのであり、それが私たちの 最終的な姿なのです。

 さらに23節以下に目を移しましょう。私たちの抱くべき希望について、 彼は次のように述べています。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただ いているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、 心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望に よって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。 現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えな いものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(23‐25節)。

 先に「栄光を受ける」と言い表されていたことが、ここでは「神の子とさ れること、つまり、体の贖われること」と言い換えられています。「体が贖 われる」というのは、あまり耳にしない表現です。この「贖う」という言葉 は、奴隷や捕虜を自由にすることを意味する言葉です。ここで「体の贖われ ること」について語られているということは、とりもなおさず、私たちの体 が捕らわれの状態にあることを意味しています。何によってでしょう。罪と 死によってです。ですから、キリスト者もまた、この体をもって罪を犯し、 キリスト者もまたこの体をもって死にます。キリスト者も、罪と死に伴う苦 しみを免れることはありません。

 しかし、私たちには希望があります。私たちは苦しみうめきながらも、な お待ち望んでいるのです。「体の贖われること」を待ち望んでいるのです。 やがて私たちは、捕らわれから解放された、罪と死の縄目から解放された復 活の体を受けるのです。私たちは、全く自由な神の子として、神の救いの御 業をほめたたえる時が来るのです。

●“霊”の初穂をいただいて

 しかし、いったい何を根拠としてパウロは希望について語るのでしょう。 何を根拠として「神の子とされること、つまり、体の贖われること」につい て語るのでしょう。根拠なき希望の言葉は気休めでしかありません。気休め はあくまでも気休めです。気休めは一時的な心の拠り所とはなり得ても、真 の救いにはなりません。

 もちろん、パウロは、何の根拠もなく気休めを語っているのではないので す。その根拠とはキリストです。キリストの十字架と復活です。この手紙を 書いているパウロにしても、この手紙を読んでいるローマの信徒たちにして も、希望を語り合える共通の根拠はキリストです。それは大前提です。しか し、今日注目したいのは、もう一つのことです。23節にある「“霊”の初 穂をいただいているわたしたちも」という言葉です。

 「初穂」というのは、その年の最初の収穫です。何度かに分けて行われる 収穫作業の最初の時には、まだ畑一面が色づいているわけではありません。 しかし、やがて全体が黄金色に色づく時を思いつつ、最初に刈り取られた初 穂が神殿へと運ばれ、神に捧げられます。すなわち、この僅かばかりの初穂 は、やがて全き収穫の時が訪れる前触れでありしるしなのです。そして、パ ウロは、既に受けている神の霊はこの「初穂」なのだ、と言っているのです。

 確かに、「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で うめきながら待ち望んでいます」と書かれていますように、このことが実現 するのは将来のことです。つまり、まだ実現していないのです。しかし、も う一方において、先ほど引用しました14節以下には次のように書かれてお りました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがた は…神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、 父よ』と呼ぶのです」と書かれていました。一見、これらの記述は矛盾して いるように見えます。しかし、これが信仰者の経験なのです。

 全き意味において「神の子とされること」は未来のことです。しかし、私 たちは現在既に、「アッバ、父よ」と呼ぶ生活を開始させていただいている のです。不完全ながらも神の子としての生活が始まっているのです。それは 初穂のようなものです。それは僅かばかりの経験です。しかし、初穂には完 全な収穫が続きます。それは完全なものが訪れる前触れなのです。それが聖 霊によって与えられる信仰生活なのです。

 また同様に「体の贖われること」も未来のことです。罪からの完全なる解 放はまだ実現してはいません。そして、死からの完全なる解放もまだ実現し てはおりません。しかし、それでもなお、私たちは聖霊による罪からの解放 を、この世の生活の中で経験いたします。また、この体は依然として死ぬべ き体でありますが、私たちは確かに復活の命を、既にこの世の生活の中で経 験し始めるのです。パウロが別の手紙において、「たとえわたしたちの『外 なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにさ れていきます」(2コリント4・16)と言っている通りです。このような ことは、部分的であり、不完全であり、僅かばかりの経験に過ぎないかもし れません。しかし、初穂には完全な収穫が続くのです。私たちは、「体の贖 われること」を初穂として経験し始めているのです。

 このように、「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも」と言えるこ とが、パウロとローマの信徒たちとが希望を語り合うことのできる共通の土 台なのです。そして、私たちもまた、この同じ土台の上に立ってパウロと同 じ希望について語ることができるのです。「わたしたちは、このような希望 によって救われているのです」と語ることができるのです。農夫がまだ目に 見えてはいない一面黄金色に色づいた畑を待ち望むように、「わたしたちは、 目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と語ること ができるのです。

 もちろん、このことについては、逆のことも言えるでしょう。今この世に おいて神の子として生きる生活を失ってしまうならば、すなわち神を礼拝し、 神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ生活を失ってしまうならば、「神の子 とされること、つまり、体の贖われることを、…待ち望んでいます」とも言 えなくなるに違いありません。人は具体的な信仰生活と共に希望をも失うの です。ですから、私たちは、「“霊”の初穂をいただいている」ことを、大 切にしなくてはならないのです。

 最後に一言。今日は触れませんでしたが、パウロはここで人間の救いを考 えているだけではありません。全被造物世界の救いを視野に入れて語ってい るのです。人間の罪は、人間世界だけに苦しみをもたらしているのではあり ません。人間の罪は全被造物世界に及び、滅びをもたらす害毒なのです。こ のように人間の手による環境破壊を見る遙か以前、今から二千年も前に、既 にパウロは自然界のうめき声を聞いていたのです。それゆえに、人間が罪か ら救われることは、全被造物世界にとっても救いです。ですから、「被造物 は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(19節)とパウロは 書いているのです。私たちはすべての被造物と共にうめきながら、しかし確 かな希望をもって、すべての被造物と共に救いの時を待ち望んでいるのです。

 
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