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「祝福の源となるように」

2004年7月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記11・31‐12・4

 今月はアブラハムの物語を共にお読みしたいと思います。今日の聖書箇所 においては、まだ名前は「アブラム」です。後にアブラハムになります。こ の礼拝においては、特に主がアブラハムに最初に語りかけられた言葉に目を 留めたいと思います。主なる神はアブラムに次のように語られました。「あ なたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたし はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福 の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者 をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世 記12・1‐3)

●祝福と呪い

 まず目に付きますのは、この短い箇所に「祝福」という言葉が五回も繰り 返されていることです。聖書におけるアブラハムの登場は「祝福」というこ とに関わっていることが分かります。「祝福」に関わる人物が登場するとい うことは、もう一方において、そのような人物を必要としている世界がある ということでもあります。まずそのことについて考えてみましょう。

 「祝福」の反対は「呪い」です。「呪い」という言葉が聖書に最初に出て くるのはどこでしょう。それは創世記3章です。3章というのは、ご存じの ように、アダムとエバが神によって禁じられていた「善悪の知識の木」の実 を取って食べた、という話が記されている章です。そこではまず人を誘惑し た「蛇」が呪われております。「主なる神は、蛇に向かって言われた。『こ のようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われる ものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」(3・14)。そし て、次にアダムに対して語られた言葉の中に「呪い」が出てきます。「神は アダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じ た木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯 食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返 るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』」 (3・17‐19)。

 ここには、神に背き、自らが神のようになろうとした人間というものを、 実に醒めた目で見つめる聖書の視点があります。聖書は人間の一生というも のを、まさに呪われた大地の上にある一生として見ているのです。呪われた 土の上で、限られた時を苦しみながら生きていく。そして、その結果はただ 「土に返る」ことだけだ、というのです。

 私はここを読みますと、もう二十年も前に見た、アメリカの青年たちが演 じていた奇妙な劇を思い起こします。それはほとんど筋らしいもののないも のでした。一人の人が「起きる・食べる・働く・寝る」という号令を延々と 繰り返します。そして、他の者たちは、それを演じるのです。くたくたにな りながら、延々と繰り返すのです。そして、最後に号令をかける者が「起き る・食べる・働く・寝る」と言った後に、彼はこう叫ぶのです。「死ぬ!」。 「寝る」という号令で横になった役者たちは、もう起き上がることはありま せん。

 呪われた土の上で苦しみながら土に返るだけの一生。「起きる・食べる・ 働く・寝る・死ぬ」だけの人生。極端な誇張でしょうか。確かに誇張ではあ ります。しかし、私は思うのです。人は誰でも心のどこかで《呪われた大地 の上における人生》を感じ取っているのではなかろうか、と。人はその虚無 感を一生懸命に否定しようとします。あるいは何かによって必死に紛らわせ ようとします。しかし、決して完全に消し去ることはできないのです。人間 が作った鉛筆は、人間の手から離れれば、それ自体には何の存在の意味もあ りません。ただ朽ちゆくだけのものでしかありません。神に背き、神の手か ら離れようとした人間世界もまた同じです。何の意味もなく土に返っていく。 それが呪われた土の上にある呪われた人間の現実です。

 しかし、神はその呪いの中に人間を捨ててはおかれないのです。神はこの 世界に関わってくださるのです。神に背いた人間に関わってくださるのです。 神は人間の歴史の中に介入されるのです。呪いの中に祝福をもたらすためで す。そのために、神はこの世界の中からアブラハムという一人の人物を選び、 この世界に対する具体的な計画をスタートさせたのです。このアブラハムの 子孫として、やがてイスラエルの民が世界の歴史の中に登場します。そのイ スラエルの民の一人、一ユダヤ人として、イエス・キリストがこの世界に現 れることになります。

 そして、イエス・キリストからキリスト教会へと歴史は流れていきます。 この教会もその流れの中にあります。実に、紀元21世紀にこの日本に存在 するこの教会もそこに生きる私たち一人一人も、あの日アブラハムに神が声 をかけられたところから始まった、大きな救いの歴史の流れの中にあるので す。それゆえにまた、私たちはこの教会について考える時、私たち自身につ いて考える時、そもそも神は何と言ってアブラハムを召し出されたのか、と いうことを抜きにして考えることはできないのです。

●わたしが示す地に行きなさい

 そこで主の言葉を見てみますと、まず主なる神はアブラムにこう命じてお られます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行き なさい」(12・1)。

 アブラムはもともと父テラと共にカルデアのウルというところにいたよう です(11・31)。ウルはユーフラテス川の下流にありまして、最近のイラク

関連のニュースにその辺りの地図が良く出てきます。そこは早くから文化が 栄え、たいへん豊かであったことが知られています。そのような場所からテ ラの家族はハランへと移りました。彼らはそこに留まって生活を営むように なります。そして、父テラはそこで死んだのでした。

 なぜテラがウルからハランに移り住んだのか理由は定かではありません。 いずれにせよ、それは父テラの意志によるのであって、息子のアブラムの意 志によることではなかったでしょう。「テラは、息子アブラハム…を連れて、 カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった」(11・31)と書かれ ているとおりです。しかし、後に主はアブラムにこう言われるのです。「わ たしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」(15・7)と。 つまり、アブラムをウルから導き出したのはテラではないのです。アブラム が主を知る前に、主はアブラムを知っておられ、その主がアブラムをウルか ら導き出されたのだ、というのです。

 そして、アブラムはついに、知らない間に自分の人生を導いておられた御 方と出会うことになります。主がアブラムに語りかけ給うたのです。「あな たは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。「生ま れ故郷」という言葉は、「あなたの地、あなたの親族」というのが直訳です から、必ずしもウルのことではありません。アブラムが生活を営んでいた 「あなたの地」です。そして、「あなたの地」とはまた、アブラムがその上 で労働をし、やがて父テラが死んだように同じようにアブラムも死んで土に 返っていく地に他なりません。しかし、その「あなたの地」から旅立つよう にと主は言われるのです。

 それは父テラがウルからハランに移動した時のように、ただ別の地が「あ なたの地」になるということでしょうか。いいえ、そうではありません。こ こにはいわゆる転勤族の方々もおられますが、生活の場所が変わるというこ とは、必ずしも人生の根本的な転換を意味するわけではありません。ここで 語られているのは、そのようなことではないのです。アブラムはここで、 「あなたの地を離れ…わたしが示す地に行きなさい」と言われているのです。 すなわち、これまで知らずして主に導かれてきたアブラムが、ここからは主 の語りかけを聞き、主の導きを得ながら、主への全幅の信頼をもって従って ゆくのです。これを「信仰」と言い換えることもできるでしょう。要するに 主はアブラムを信仰へと招いておられるのです。

 主なる神は、この世界において救いの計画を進めるために、まずこの世界 の中に信仰の人を求められたのでした。そして、その子孫として生み出され る信仰の民を求められたのです。主はこの世界のただ中に、主の御声に耳を 傾け、主の導きに従って歩む民を求められたのです。

●祝福の源となるように

 そして、主は命令と共に、アブラムに約束をも与えられました。「わたし はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福 の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者 をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐ 3節)。

 主はアブラムを「祝福する」と言われました。祝福は呪いの対極にありま す。呪いが死と滅びに帰着するとするならば、祝福とは未来に向かって流れ てゆく命の力です。アブラムは満ち溢れる命の流れの中を生きるようになる のです。もちろん、それはアブラムの人生から苦しみが全く取り除かれて無 くなってしまうということを意味しません。それはアブラハムの物語を読め ば分かります。しかし、彼はもはや呪われた地の上で苦しみながら人生を送 り、死んで土に返っていくだけの者ではないのです。神が彼を祝福すると言 われるからです。

 いやそれだけではありません。アブラムは祝福されるだけでなく、祝福の 源となるのです。原文では「祝福となれ」と書かれているのでありまして、 「祝福の源」というのは意訳でありますが、そこから祝福が溢れ流れていく というようなイメージ豊かな良い訳だと思います。神がアブラムを祝福する のは、ただアブラムのためだけではありませんでした。それはこの世界に祝 福をもたらすためでありました。ですから、主はアブラムに「地上の氏族は すべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 そして、この「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という神 大きな御計画の中に、この教会も置かれ、私たち一人一人もその中に生かさ れているのです。異邦人である私たちが主を知らなかった時に、主は既に私 たちを知っておられ、私たちを愛し、導いていてくださいました。そして今 や私たちは、こうして主を知る者とされ、主を礼拝し、主の御声を聞き、主 に導かれて歩む者とされました。私たちは確かに主の祝福の中にあるのです。 それはただ私たち自身のためではありません。私たちは、信仰の民として生 きることによって、他の人々の祝福となるように、この世界の祝福となるよ うにと召されているのです。

 
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