「執り成し」
2004年7月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記18・16‐33
●わたしは降って行き、見て確かめよう
今日の聖書箇所には「ソドムとゴモラ」という二つの町の名前が出てきま す。神に滅ぼされた町として、旧約聖書の他の箇所のみならず、新約聖書に おいても言及されています。そのような名前が出てくる箇所でありますので、 ここを読むに当たりましては、やはり「神の裁き」について考えることは避 けて通れません。そこでまず、主がこの二つの町について語っている言葉に 耳を傾けることにしましょう。二0節を御覧ください。「主は言われた。 『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは 降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどう か見て確かめよう』」(18・20)。
ここは注意深く読まねばなりません。ソドムとゴモラの悪に対する神の判 断が先にあるのではありません。人間の判断が先にあるのです。神の裁きが 下される前に、人間が神に訴える叫びがあるのです。原文では「ソドムとゴ モラの叫び」となっていますので、外からの叫びではなく、内部からの叫び と言ってよいでしょう。人間の叫びがあるゆえに、主はその現実が叫びの通 りであるかどうかを確認しに降りてくる。そのような書き方がされておりま す。
このように人間の訴える声の方が先にあるという記述は、私たちの経験と も符合している点において興味深いものです。実際そうではありませんか。 私たちは神によって指摘されるまでもなく、この人間世界に罪があり悪があ ることは分かっているのです。私たち自身がこの世の悪、隣人の悪によって 不当に苦しめられているならば、なおさらその悪の存在は深刻な問題となり ます。そのような時、私たちは世の罪が正しく裁かれることを願っているも のです。心の中で「悪を行うこの人々をなんとかしてくれ!」と叫んでいる ものです。確かに多くの人は「神の裁き」という言葉を好まないかもしれま せん。「最後の審判」という言葉が大好きであるという人にお会いしたこと はありません。しかし、もう一方において、人は正しい裁きを求めているも のなのです。神が裁く前に、この世の悪を訴え、正しい裁きを求める人間の 叫びがあるのです。
しかし、神は人間の訴えに従ってこの世を裁くのではありません。事実に 基づいて裁かれるのです。ですから、事実を調べに降りてこられるのです。 ここではそのような書き方がされております。そのように、決定的に重要な のは、《神が》自ら降ってきて見て調べて明らかにされた事実なのです。そ うでありますならば、私たちが他者の悪を訴えて叫んでいる時、降って来ら れた神の目には別の事実が目に留まっているかもしれません。そこではまた 《私たち自身の悪》という事実が目に留まっているかもしれません。いずれ にせよ、審判はその明らかにされたすべての事実を神がどう判断されるかに 基づいて下されるのです。
●正しい者がいるならば滅ぼさない
しかし、話はそこで終わりません。ここにはさらに奇妙なことが記されて おります。しかも、そのためにかなりのスペースが割かれております。アブ ラハムと主なる神との間に、あたかも《値引き交渉》のようなやりとりが展 開するのです。アブラハムは、主なる神から「もしソドムの町に正しい者が 五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」(26節)とい う言葉を引き出します。そして、ついにその五十人を十人にまで引き下げる ことに成功するのです。主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(3 2節)と言われるのです。
このやりとりの内容については後に触れるとしまして、そもそもどうして このような対話となったのかを考えてみましょう。それは言うまでもなく、 ソドムとゴモラに対する審判の計画をアブラハムが知ったからです。より正 確に言いますならば、主なる神が自らアブラハムに打ち明けたのです。17 節にこう書かれています。「主は言われた。『わたしが行おうとしているこ とをアブラハムに隠す必要があろうか』」。主なる神が明かしてしまったた めにこの《値引き交渉》になったのですから、そもそもこの種を蒔いたのは 主なる神御自身に他なりません。
考えてみますと、このように神が誰かに御自分の裁きの計画を話される場 面は、聖書の中に一つや二つではありません。むしろ神は常にそうしておら れると言っても過言ではありません。ですから、後にアモスという人は大胆 にもこんなことを口にしています。「まことに、主なる神はその定められた ことを、僕なる預言者に示さずには何事もなされない」(アモス3・7)。 そもそも預言者というのは神の示されたことを多くの人々に語り聞かせるの が仕事ですから、神の意図は御自分の計画を事前に広く知らせるところにあ ると言えるでしょう。もし悪を行う者を滅ぼすことが本来の意図であり神の 願いであるならば、神は黙ってそれを行えばよいはずではありませんか。し かし、神はそうされないのです。要するに、ここから明らかなことは、罪を 裁いて滅ぼしてしまうことが神の本来の意図であり願いではない、というこ となのです。
そのような神の御心は、このアブラハムとのやりとりの中にも良く現れて おります。アブラハムが最初に問うたのは、「まことにあなたは、正しい者 を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(23節)ということでした。その 町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼされるのかと問うたので す。しかし、アブラハムはさらにこう問いかけました。「その五十人の正し い者のために、町をお赦しにはならないのですか。」明らかにここには論理 の飛躍があります。正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすことが理不尽ならば、 正しい者だけを救えばそれで良いはずです。なにも町全体をお赦しになる必 要はありません。しかし、神はこの飛躍した言葉の方を受けとめてこう答え られたのです。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者た ちのために、《町全部を赦そう》」(26節)。
そこから、先に触れましたように、アブラハムの交渉が始まります。彼は 言いました。「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれま せん。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされます か」。すると主は言われます。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。そし て、主の言葉は最終的に「その十人のためにわたしは滅ぼさない」というと ころにまで至ります。そこでこの場面はやや唐突な仕方で閉じられることに なります。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハム も自分の住まいに帰った」(33節)。
なぜ十人までで話をやめてしまったのでしょう。それは恐らくアブラハム に主の言わんとしていることが分かったからだと思います。これを読んでい る私たちの目にも明らかです。この対話を読んで「ああ九人ではだめなのだ な」と考える人はよほど鈍い人です。主は人数を問題にしているのではない のです。正しい者が本当に存在するか否かを問題にしているのです。ソドム とゴモラの罪を覆い、滅びから救うことができるほどに正しい人間がいるか どうかを問題にしているのです。ですから、究極的には《一人でも》本当に 正しい人がいるならば、神は「町全部を赦そう」と言われるのです。
●ただ一人の正しい御方
そして、そのような究極的な神の赦しの御心は、後に預言者を通して明ら かにされることになります。イザヤ書53章をお開きください。52章13 節から始まるこの箇所は「苦難の僕の歌」として知られている箇所です。こ の全体をぜひじっくりと読んでいただきたいと思いますが、ここでは最後の 部分だけをお読みいたします。この歌は次のような主の言葉によって締めく くられています。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼ら の罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦 利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひ とりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成 しをしたのは、この人であった」(イザヤ53・11後半‐12)。
細かい話になりますが、今読みました最初の部分は「義なるわが僕は…」 と訳すことができる言葉でありまして、そのように訳している聖書も少なく ありません。私もその方が良いと思います。ここには一人の正しい人が出て くるのです。この人は、たった一人で多くの人の過ちを担い、背いた者のた めに執り成しをするのです。彼のゆえに多くの人がその罪を赦され、正しい 者とされるのです。主なる神は、この一人の正しい人のゆえに、多くの人を 赦し給う。それが神の御心なのです。
しかし、問題はあのアブラハムと神との対話の場面と同じです。そのよう な正しい人が本当にいるのかどうか、ということです。人数の問題ではない のです。たった一人でもそのような正しい人がいれば良いのです。果たして、 多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをすることのできる正し い人が本当にいるのでしょうか。この私やあなたの過ちを担い、背いた私や あなたのためにも執り成してくれる正しい人が本当にいるのでしょうか。そ の切実な問いに対して、聖書は何と答えているでしょう。「いるのだ。確か にいるのだ」と答えているのです。そして、一人の御方を指し示すのです。 十字架の上ですべての人の罪を担い、「父よ、彼らをお赦しください」と執 り成し給う一人の正しい御方、イエス・キリストを指し示しているのです。
「誰がわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むし ろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わ たしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8・34)。そのよ うにパウロは書きました。確かに、私たちはキリストによって《執り成され ている者》です。しかし、同時に私たちはあのアブラハムの姿を思い起こし ます。罪に満ちたソドムとゴモラのために赦しを求めたアブラハムの姿、そ れはまた私たちのあるべき姿でもあります。私たちは《執り成されている者 》であると同時にこの世のために《執り成し祈る者》とされているのです。 私たちは確かな希望をもって執り成し祈ることができるのです。なぜなら、 一人の正しい御方がおられるからです。執り成し祈る正しい御方と一つにな って、私たちもまた他者のために祈ることが許されているのです。