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「エッファタ!」

2004年7月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ7・31‐37

 一人の耳が聞こえず舌の回らない人が主イエスのもとに連れて来られまし た。連れて来られたというのですから、少なくとも彼の周りには助けてくれ る人はいた、ということです。それは彼にとって幸いなことであったに違い ありません。しかし、それでも当時は手話などのない時代です。筆談しよう にも、それは今日とは比べものにならないくらい識字率の低い社会です。し かも、障害を負っていることが、罪に対する裁きであると単純に考えられて いたり、悪霊に憑かれている故であると考えられていた時代です。この人が これまでどれほど深い孤独の中を生きてきたか、どれほどの苦しみと悲哀を 背負って生きてきたか、どれほど大きな不安と恐れの中にあったか、私たち の想像を絶するものであったに違いありません。しかし、そのような苦悩を 負っていた人が、キリストとの出会いを与えられたのです。より正確に言い ますならば、そのような苦悩を負っているがゆえに、彼はキリストに出会う ことができたのです。それがここに書かれていることです。さて、キリスト との出会いにおいて彼にいったい何が起こったのでしょうか。

●弱きところに触れ給うキリスト

 主がなさっておられることに目を向けてみましょう。33節を御覧くださ い。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳 に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」(7・33)と書か れております。その直前を読みますと、人々がお願いしたのは「手を置いて くださるように」ということでした。もちろん、「手を置いてください」と いうのは「癒してください」ということです。しかし、主イエスは単純にこ の人の病気を癒して去らせるということをなさいませんでした。まず主イエ スはこの人だけを群衆の中から連れ出します。何のためでしょう。

 その第一の目的は明らかです。癒しの行為を人々の目から隠すためです。 この人が単に《癒しを求めて癒しを与えられた人》として知られることを主 イエスは望まれなかった、ということです。主イエスは、この人が大勢の人 々の前で「わたしはこの通り癒されました」と《証し》をすることを望まれ ませんでしたし、人々がこの癒しの奇跡を言い広めることも望まれませんで した。むしろ、人々には、「だれにもこのことを話してはいけない」と口止 めをされたのです(36節)。

 しかし、彼を連れ出したのは、ただ人々の目から隠すためだけでなく、こ の人と個人的に向かい合うためでもあったのでしょう。主イエスはこの人と、 群衆の一部としてではなく、一人の人間として向き合おうとされたのです。 主は最後に一言「エッファタ」と口にした以外、何もこの人に語りかけるこ とはありませんでした。語りかけても聞こえませんから。主は言葉をもって 御自分の心をこの人に伝えることはできません。しかし、私たちも知るよう に、人の小さな仕草は、しばしば百万の言葉よりも雄弁にその人の心を伝え るものです。主はまずこの人の耳に指を差し入れました。それから唾をつけ てその舌に触れられたのです。主イエスがしていることは奇妙なことでしょ うか。しかし、その人には分かったのだと思います。主がしておられること は、多くの慰めの言葉よりも心に響いていたに違いありません。なぜなら、 主イエスがその手で触れてくださったところ、それは彼の体の中で最も弱い 部分であり、そして――それは彼にとって最も忌まわしい呪わしい部分だっ たからです。

 その聞こえない耳のために、彼はどれだけ苦しんできたことでしょう。ど れだけ不当な仕打ちを受け、悲しみの涙を流してきたことでしょう。不当で あると訴えようにも、その舌は回りません。自分の悲しみや痛みを伝えよう にも、その舌は自由に動かないのです。この弱ささえなければ、とその人は 幾たび思ったことでしょう。しかし、そんな彼にとって人生の苦しみと悲し みの源とも言うべき耳と舌に、主イエスは御手をもって触れてくださったの です。この人が、主イエスの温かい手と、その手から流れ込んでくる命の力 を感じたのは、彼のもっとも忌まわしい弱い部分においてだったのです。

 さて、私たちにとって苦悩と悲哀の根元はどこにあるでしょうか。それぞ れ抱えている問題は異なることでしょう。それは周りの人々には、なかなか 理解してもらえないことであるかもしれません。しかし、主はその部分に御 手を伸ばし触れてくださるのです。私たちにとって自分の力ではどうにもな らない呪わしい事柄が、主イエスとの出会いの場となり、キリストに触れる 接点となるのです。

 私はこの箇所を読みますときに、この人と同じ経験をした一人の人のこと を思い起こします。パウロという人です。彼はその手紙において、自分の身 に与えられた「一つのとげ」について語っています。「…それで、そのため に思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられまし た。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンか ら送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わ たしは三度主に願いました」(2コリント12・7)。この「とげ」が何を 意味するのかは定かではありません。てんかんの症状であったと考える人も いますし、目の病気であったと考える人もいます。いずれにせよ、それは彼 にとって最も忌まわしい弱さであったでしょうし、神に仕える上でも大きな 障害であると思えたに違いありません。ですから、彼は繰り返し、このとげ が取り去られるようにと祈り願ったのです。しかし、主はパウロにこう答え られたのでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこ そ十分に発揮されるのだ」。それゆえに、パウロは言うのです。「だから、 キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを 誇りましょう」(同12・9)と。確かに、パウロは自らに与えられた「と げ」は、キリストに触れる接点となったのです。

 福音書の物語に戻ります。主イエスはその御手をもってこの人の耳と舌に 触れ、天を仰いで深く息をつかれました。主はこの人の苦しみの傍観者では ありませんでした。言葉にならないうめきをもって、この人の担ってきた苦 しみを共にしながら、この一人の人のために父なる神に祈られたのです。そ して、主はこの人に向きなおり、「エッファタ」と言われたのでした。これ は「開け」という意味であると説明されています。すると、たちまち耳が開 き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのです。

 この人の耳と舌は癒されました。一方、パウロの「とげ」は取り除かれま せんでした。そのように主の力の現れは異なります。しかし、主の恵みに本 質的な違いはありません。なぜなら、あの人において開かれたのは耳だけで はなかったからです。もっと大きなことは、パウロと同じように、この人に も、主に触れられた人、主の恵みを知る人としての新しい人生が開かれたと いうことなのです。

●耳を開かれ、舌を解き放たれて

 さて、ここでさらにもう一つのことを共に考えてみましょう。先ほど、 「私たちにとって苦悩と悲哀の根元はどこにあるでしょうか」と問いました。 それは私たちの肉体の病であるかもしれませんし、抱えている個々の問題で あるかもしれません。しかし、誰でも自分自身の苦悩の最も深い根元を尋ね 求めていくならば、最終的には他ならぬ私たち自身の罪という問題に行き着 くのではないかと思うのです。その意味において、ここに描かれている耳が 聞こえず舌の回らない人の姿は、私たち自身の罪深い有様を象徴的に表して いるとも言えるでしょう。

 旧約聖書において「聞く」と訳されている言葉は、同時に「聞き従う」こ とをも意味している言葉です。ですから、聞き従おうとしない不従順なイス ラエルの民は「耳があっても、聞こえぬ民」(イザヤ43・8)と表現され ております。そのように、私たちの罪深さは、神に聞こうとしないこと、聞 き従おうとしないことにあります。自分にとって都合の良いことには喜んで 耳を傾けますが、自分に都合の悪いことには耳を閉ざしてしまいます。神に 対してそうであるならば、隣人に対してもそうなるでしょう。私たちは、し ばしば本当に耳を傾けるべき隣人の声に対しても、耳が聞こえなくなってし まっているのです。

 そして舌もまた私たちにとってやっかいな存在です。ヤコブはこの舌とい うものの恐ろしさについて次のように語ります。「御覧なさい。どんなに小 さな火でも大きい森を燃やしてしまう。 舌は火です。舌は『不義の世界』 です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き 尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、ま た這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも 制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、 疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、 父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなこ とがあってはなりません」(ヤコブ3・5‐10)。そのように私たちを支 配しようとする罪の力が、しばしば私たちの耳を聞こえなくするだけでなく、 私たちの舌をも回らなくしています。ここに私たちの苦悩の最も深い根元が あるのです。

 しかし、キリストはそのような私たちを罪から救うためにおいでください ました。キリストはそのような罪深い私たちと真実に向き合い、徹底して関 わってくださいます。キリストは罪に苦しむ私たちの傍観者ではありません。 主は私たちの罪を贖うために十字架にまでおかかりくださった御方です。耳 が聞こえず舌の回らなかったあの人の苦しみを自らの苦しみとし、天を仰い で深く息をつかれたキリストは、私たちの苦悩をもその身に受けて、深いう めきをもって父なる神に執り成してくださいます。そして、主は私たちに向 かい、「エッファタ、開け」と言って、その御手で私たちの耳に、そして私 たちの舌に触れてくださいます。私たちが神の御声に耳を傾け、その御声に 聞き従えるように、そして私たちの舌が解き放たれて神をほめたたえ、人に 対しても相応しく語ることができるようになるためです。そのように、私た ちのこの身にキリストの恵みの御力がさらに豊かに現れることを、私たちは ひたすら求めてゆきたいと思います。

 
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