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「試み給う神・備え給う神」

2004年7月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記22・1‐14

●試み給う神

 今日の聖書箇所は、「これらのことの後で、神はアブラハムを試された」 という言葉で始まります。この箇所において私たちが第一に接することにな るのは、《試み給う神》の姿です。神はアブラハムに言われました。「あな たの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」 (2節)。神は、イサクという息子がアブラハムにとって「愛する独り子」 であることを知った上で、なおも神の前でそのイサクを手放すことを求めら れたのです。

 確かに、人間の経験にはこのようなことがあります。人にはどうしても手 放したくないものがあるものです。しかし、現実にはその手放し難いものを 手放すように強いられることがあります。なるほど、それを強いたのは神で あると言えば、そう言えなくもありません。それが神の試みであると言えば、 そう言えなくもありません。その意味において、ここに描かれているアブラ ハムの姿には、苦悩の深さにおいて差はあるにせよ、私たちの経験と重なる 部分があります。

 しかし、そのように私たちの経験と重なる部分があるからと言って、ここ に書かれていることが理解し易いというわけではありません。この箇所の記 述に抵抗を覚える方も多いことでしょう。それはただ単に神の要求が残酷で あり非人道的に受け入れ難いということだけではありません。もっと深いと ころにあるのは、そもそもこのような形で「神が試みる」ということに対し て覚える抵抗ではないかと思います。

 大学が入学者を選ぶために入学試験を課すとするならば、それは受験者の 学力を知るためです。会社が入社試験や面接を課すのは能力や適性を知るた めです。神は、人間をテストすることによって何を知ろうとしているのでし ょうか。12節にこんな言葉が出てきます。「あなたが神を畏れる者である ことが、今、分かったからだ」。――え?神さまはそれまで分からなかった のでしょうか。「本当に愛しているなら証拠を見せてよ」と言い、高価な指 輪を贈られて初めて「あなたは本当にわたしを愛していたのね!」と言う女 性をどう思いますか?ここに描かれている神さまは、まるでそんな人のよう ではありませんか。証拠を見るまでアブラハムの心が分からなかったのでし ょうか。神さまなのに!

 そのように、この箇所を読んで最も受け入れがたいことは、要するに、こ こに描き出されている神のアブラハムに対する関わり方なのだと思います。 アブラハムの心を疑って、テストして、証拠を要求して、その証拠を見て初 めて納得する。神はそのような御方なのでしょうか。そのような神さまを信 じたいと思いますか。そのような神さまと共にありたいと思いますか。もし 神さまがそのような神さまなら、私だったらご免被りたいと思いますが、皆 さんはいかがでしょうか。

 しかし、私たちはここで12節の言葉がアブラハムに《語りかけられてい る》ことの意味を考えたいと思うのです。「あなたが神を畏れる者であるこ とが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わた しにささげることを惜しまなかった」(12節)と言われました。しかし、 もし神がアブラハムを疑っていて、単に彼の本心を知りたかったというだけ であるならば、何もこんなことをアブラハムに説明する必要はありません。 そうでしょう。もう神の目的は果たされているのですから。イサクに手を下 させないためならば、何らかの仕方で阻止すれば良いのですから。

 ですから、ここでわざわざ《神が語りかけておられる》ことは、特別な意 味を持つのです。これは要するに、アブラハムの側からすれば、彼が《神の 心を知った》ということに他ならないのです。つまりこれは《神がアブラハ ムの心を知った瞬間》なのではなくて、《アブラハムが神の心を知った瞬間 》なのです。つまりアブラハムは、神が本当に求めておられるのは何か、と いうことを悟ったのです。神が求めておられるのはイサクではない、神に捧 げられる焼き尽くす犠牲そのものではないのだ、ということです。神が求め ておられるのは、神を畏れる心なのであり、神への信頼であり従順なのです。 アブラハムは愛する独り子である息子イサクを神に献げきったとき、この試 練を通して、何が神の御前において最も大切なことなのかを知ったのです。

 そのように、試練は神が私たちの心を知るために神にとって必要なのでは ありません。私たちが神の心を知るために私たちにとって必要なのです。実 際、私たちは試みられることがなければ、いつでも神の心に対してあまりに も無頓着ではありませんか。

●備え給う神

 さて、私たちはこの聖書箇所から《試み給う神》について思いを巡らして まいりましたが、ここに描かれているのは《試み給う神》だけではありませ ん。そこにはまた、《備え給う神》の姿があるのです。アブラハムは、この 試練を通して、《試み給う神》を《備え給う神》として知ることになるので す。

 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行 きなさい」という言葉を聞いたアブラハムは、次の朝早く、ろばに鞍を置き、 献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた 所に向かって行きました。彼が向かったモリヤの地は、言い伝えによれば、 後にソロモンの神殿が建てられることになる場所です(歴代誌下3・1)。 ベエル・シェバから後にエルサレムと呼ばれる地まで、六十キロ以上に及ぶ 道のり、足かけ三日に及ぶ旅路を、アブラハムは重い心を抱きつつ進みます。 そして、ついに遠くにその場所が見えてきました。そこからはイサクと二人 で歩いていきます。我が子を焼くための薪を自らの手で息子に背負わせまし た。自分自身はイサクの喉を掻き裂いて屠るための刃物を持ち、もう一方の 手で犠牲を献げるための火を手に取ります。アブラハムはその重い一歩一歩 を踏みしめながら、いったい何を思っていたのでしょうか。

 沈黙を破ったのはイサクでした。「火と薪はここにありますが、焼き尽く す献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。アブラハムは答えます。「わ たしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(8節)。

彼は苦しみの中から神に向かって目を上げます。試み給う神に向かって目を 上げるのです。「神が備え給う」。人が最終的に語り得るのはそこまでです。 すべては語り尽くされました。彼らは再び沈黙の中を共に登ってゆきます。

 そして、ついに彼らは神の示された場所に着きました。アブラハムは祭壇 を築き、薪を並べ、イサクを縛って薪の上に寝かせます。アブラハムは、手 を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。これは見せかけやポーズ ではありません。この時既にアブラハムの心においてイサクは死んでいるの です。イサクは既に神に献げられているのです。しかし、まさにその刃物が 振り下ろされようとしたとき、天からの声が彼を留めたのでした。「その子 に手を下すな。何もしてはならない」と。

 その後に、大変印象的な描写が続きます。「アブラハムは目を凝らして見 回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラ ハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてさ さげた」(13節)。間違ってはなりません。アブラハムがイサクを屠るの を天からの声が止めた時に、神がイサクの代わりに雄羊を与えたのでは《あ りません》。雄羊は突如としてどこからか現れて角を茂みにひっかけたので はないのですから。既にそこに備えられていたのです。それをアブラハムが 見出しただけです。

 この箇所で繰り返されている「備える」という言葉は、もともと「見る」 という意味の言葉です。主が既に備えておられたということは、主が確かに 見ておられた、ということでもあります。アブラハムが重い足取りで旅路を 進んでいた時、主はそっぽを向いていたのではありません。アブラハムに目 を注いでおられたのです。アブラハムが血を吐くような苦しみの中でイサク と共に山を登って歩いていた時、そして声を絞り出すようにして「神が備え 給う」と口にした時、主は確かに彼に目を留めておられたのです。そして、 アブラハムがただ神に望みを託して語ったように、神は既にその時に身代わ りの犠牲を備えていてくださったのです。その苦しみの直中にあった時、ア ブラハムにはそれが分かりませんでした。見えませんでした。しかし、今や アブラハムは、《試み給う神》を《備え給う神》として知ることになりまし た。それゆえに、彼はその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる) と名付けたのです。

 そして、彼に与えられた啓示は、彼自身のためだけでなく、後の人々のた めでもあり、今日の私たちのためでもありました。やがてアブラハムがヤー ウェ・イルエと名付けたその場所において、神は確かに《備え給う神》であ ることが明らかにされることになるのです。

 アブラハムはイサクに言いました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の 小羊はきっと神が備えてくださる」。確かにイサクに代わる犠牲の羊が備え られておりました。しかし、神はこの時、後の日にこの世界のただ中で屠ら れることになる、真の犠牲をも備えておられたのです。アブラハムに「あな たの愛する独り子イサクを…焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じ られた神は、自ら御自身の愛する独り子イエスを、罪を贖う犠牲として備え ておられたのです。そして、アブラハムがイサクに祭壇の薪を背負わせ歩ま せたように、父なる神は御子イエスに、自らが献げられる祭壇となる十字架 を背負わせ歩ませられました。そして…アブラハムの独り子イサクは屠られ ることなく救われ、神の独り子イエスはそのまま十字架の上で死んだのでし た。

 このことのゆえに、私たちはアブラハムと共に、確信をもって語ることが 許されているのです。「ヤーウェ・イルエ。主は備えてくださる」と。最後 に、パウロの言葉をお読みして終えたいと思います。「では、これらのこと について何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるなら ば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その 御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたし たちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8・31‐32)。

 
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