「主があなたと共におられる」
2004年8月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記26・15‐33
●戦わない男
今日の聖書箇所に書かれていますのは、実に風変わりな男の話です。その 男とはアブラハムの息子イサクです。
彼は、飢饉を逃れるために、ペリシテ人の地ゲラルに滞在しておりました。 そこはかつて父アブラハムも同様に飢饉を逃れて滞在していた場所です。彼 は古代の半遊牧民が通常していたように、その地の民と契約を結び、そこに おいて牛や羊を飼育したり耕作をすることを許されて生活をしていたのでし ょう。ところが、よそ者であるイサクが、次第に豊かになり力を持つように なりますと、その地の民との間にトラブルが生じるようになりました。この 箇所の直前には次のように書かれています。「イサクがその土地に穀物の種 を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受け て、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの 召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった」 (12‐14節)。
具体的にどのようなことが起こってきたかと言いますと、ペリシテ人たち が井戸を埋めてしまったのです。追い出すための嫌がらせです。そしてさら にペリシテ人の王アビメレクから退去命令が下ります。イサクが何か不正を 働いたからではありません。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった」 というのがその理由でした。しかも、何の補償もなくこのことを要求してい るのです。いくらイサクの一族が寄留民だからといって、これは余りに酷い 話ではありませんか。
ところがイサクは、実にあっさりとこの要求を受け入れて出て行くのです。 彼には多くの羊や牛の群れがあります。どのようにして群れを生かしていく つもりなのでしょう。彼には多くの召し使いがおります。どのようにして彼 らを養っていくつもりなのでしょう。しかし、抗議をするわけでもなく、条 件を提示して取り引きをするわけでもありません。無条件に、豊作であった 良い土地を離れて、一族を連れて出て行くのです。
イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住むようになりました。 「谷」と言いましても、それは年中水をたたえているような場所ではありま せん。乾期には水が無くなります。生きていくためには井戸を掘らねばなり ません。そこにはかつて父アブラハムが掘った井戸が幾つかありました。し かし、それはアブラハムの死後、ペリシテ人たちによって埋められたままに なっています。イサクは井戸を再び掘り直しました。僕たちは新たに井戸を 掘り始めます。そして、ついに水が豊かにわき出る井戸を掘り当てました。 これで乾期を越えて生き延びることができます。しかし、イサクの僕たちが 苦労して掘った井戸から水が出たことを知ると、ゲラルの羊飼いたちが「こ の水は我々のものだ」と主張し始めたのです。確かにイサクの一族はよそ者 です。しかし、その豊かな水源は彼らが掘り当てたのです。「この水は我々 のものだ」はないでしょう。ところが、イサクは井戸を「エセク(争い)」 と名付けて放棄したのです。そして、別の井戸を掘り始めたのでした。
そして、ついにイサクの僕たちはもう一つの井戸を掘り当てました。これ で生きていくことができます。しかし、またもやペリシテ人たちが井戸を要 求してきました。イサクは彼らが単に水を欲してこのことを行っているので はなく、イサクの一族に対する敵意による嫌がらせであることを悟ったので しょう。その井戸を「シトナ(敵意)」と名付けました。しかし、不当な嫌 がらせに対抗するわけでもなく、結局井戸を放棄して別の場所へ移って行っ たのでした。そして、やっともう一つの井戸を掘り当てます。「それについ ては、もはや争いは起こらなかった」(22節)と書かれています。彼はそ の井戸を「レホボト」と名付けました。「広い場所」という意味です。「今 や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」(22節)という 言葉には、彼らが生きていく余地を見出すまでの苦労が滲み出ているように 思います。
以上見てきましたように、この風変わりな男を一言で表現するならば、 「戦わない男」と言い表すことができるでしょう。このような人物をどう評 価したら良いのでしょう。このような男について、「敗北主義」あるいは 「事なかれ主義」との評価を下す人があるかもしれません。生存権を奪う強 者の横暴をそのまま放置して良いのか。不当な要求に屈して良いのか。正面 から立ち向かわなくて良いのか。イサクのような人間が増えていったら、こ の世の歪みがますます拡大していくだけではないのか。――そのような批判 の声が聞こえてきそうです。もっともだと思います。私はこのようなイサク のあり方を弁護するつもりはありませんし、単に彼が争いを回避したことを 道徳的な模範として提示するつもりもありません。しかし、この物語におい て少なくとも次に述べる点には注目しておくべきであろうと思います。
●主があなたと共におられる!
それは、このようなイサクがペリシテ人の王アビメレクの目にどう映った か、ということです。ゲラルの王アビメレクは参謀のアフザトと軍隊の長ピ コルと共に、ゲラルからイサクのもとにやってきました。驚いたのはイサク です。なぜここに来たのか、と彼は尋ねました。すると、アビメレクたちは こう答えたのです。28節以下を御覧ください。「主があなたと共におられ ることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、 つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいので す。以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよ う計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいか なる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です」 (28‐29節)。
「主があなたと共におられることがよく分かったからです」。何を見て? イサクが強くなって不当な要求をするゲラルの羊飼いたちを屈服させるのを 見て、「主があなたと共におられる」と言ったのではありません。依然とし て、立場的にも実力的にも、明らかにアビメレクやゲラルの羊飼いたちの方 が強いのです。だから虐めることもできるのです。踏みつけることもできる のです。井戸を奪って生きられないようにすることだってできるのです。し かし、どんなに虐めても、踏みつけても、嫌がらせをしても、イサクの一族 を滅ぼすことはできません。力をもって一つの井戸を奪えば、神が別の井戸 を与えて彼らを生かすのです。まさに神が彼らと共にいて彼らを生かしてお られるという事実を、弱いイサクとその一族の中に見たのでした。
私たちが大きければ、強ければ、支配力があれば、主を証しすることがで きる。主が共におられることを示すことができる。私たちは往々にしてその ように考えているものです。しかし、イサクと共にいる主の恐るべき力は、 イサクの一族の弱さの中にこそ現されたのです。だからこそペリシテの王は 恐ろしくなったのです。震え上がったのです。そこで頭を下げて「我々にい かなる害も与えないでください」と願い、相互不可侵の契約を結びたいと申 し出てきたのです。
「主があなたと共におられることがよく分かったからです」。そのように 言ったアビメレクは、確かに見るべきものを見ていたと言えるでしょう。そ して、私たちもまた、そのことに目を向けねばなりません。先ほども言いま したように、イサクは単なる道徳的な模範ではありません。重要なのは、そ の行動の背後にある、イサクと神との関わりなのです。
このことを考えます時に、私たちはこの章に記されている、イサクの一つ の失敗についても触れなくてはなりません。彼が飢饉を逃れてゲラルに移り 住んだ時、イサクは一つの嘘をついたのです。7節を御覧ください。「その 土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うの を恐れて、『わたしの妹です』と答えた。リベカが美しかったので、土地の 者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである」(7 節)。実は、アブラハムの物語にも同様の記事がありまして、父アブラハム が二度ほど同じ嘘をついています(12・13、20・2)。古代において は、美人の妻を持つ男がそのゆえに命を落とすということが珍しくなかった のでしょう。
しかし、この嘘がばれてしまいました。その時、イサクはアビメレクから 次のような非難を受けることになりました。「あなたは何ということをした のだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところ であった」(10節)。後にアビメレクから聞く28節の言葉とずいぶん違 いますでしょう。イサクは、自分の命と自分の家族の生活を自らの方法で自 らの手によって確保しようとしたのです。しかし、その結果は妻の貞操を危 険にさらし、人々を罪に陥れる誘惑を与えることにしかなりませんでした。 その事実を、よりによって異邦人の王から教えられることになったのです。
そのような失敗の記事に続けて、「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、 その年のうちに百倍もの収穫があった」(12節)ということが書かれてい るのです。これはいったい何を意味するのでしょうか。イサクが自分の命を 守ろうとして大きな失敗をする一方で、神は飢饉から逃れてきたイサクとそ の一族の命をしっかり養っていてくださった、ということです。命は自分の 手で確保するものではなく、神から来るものなのだ。神が生かしてくださっ ているのだ。これがイサクがゲラルにおいて学んだことでありました。
ですから、その後に描かれているイサクの行動において重要なことは、単 に彼が争いを避けたということではなく、彼が《主に生かされている者》と して行動した、ということなのです。そのことを良く表しているのは、ベエ ル・シェバにおける主の顕現です。主はイサクに現れてこう言われたのでし た。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わ たしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす、わが僕 アブラハムのゆえに」(24節)。
イサクにとってはこの言葉で十分なのです。数々の井戸を失いました。し かし、もう良いのです。「わたしはあなたと共にいる」という言葉があれば 十分なのです。イサクにとって最も重要なことは、この主なる神と共にある ことなのです。ですから、イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼 拝します。この主と共にあるならば、そこに天幕を張って生きていくことが できるのです。失った井戸のことを思うのではなく、そこで新たに井戸を掘 り始め、生きていくことができるのです。
さて、この物語はどのように締めくくられているでしょうか。かつて自分 を追い出したペリシテ人の王アビメレクを安らかに送り出したその日に、井 戸を掘っていたイサクの僕たちは、歓喜の叫びを上げながら帰ってきたので す。彼らは言いました、「水が出ました!」と。