「殺してはならない」
2004年8月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 東京神学大学生 久下倫生
聖書 出エジプト記20章13節
今日は8月15日、敗戦の日です。私は今「敗戦」という言葉を使いました。この 日を日本が無条件降伏をした日だと認識することは大切なことであると思います。 なぜなら政府も政治家も普通「あの不幸な戦争」と言うふうに呼び、なぜ日本が そういうところに追い込まれたのか、私たちの信じていたことが間違っていたの か、深く考えるということがないからであります。みずからの罪が招いた敗戦と いう認識が極めて乏しいといわざるを得ません。ドイツの大統領ヴァイツゼッカー はこういいました。「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在も見えなくな る。」彼がドイツの戦争犯罪を反省しながら述べた率直さに比べて、私たちは事 柄を言いつくろってあいまいにする性癖があります。平和をとりわけ深く考える べきこの日に、今日の聖書箇所が与えられましたのは、意義深いことだと思いま す。出エジプト記の20章13節を祈りつつ読みたいのであります。
「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)。この言葉に解説はいりませ ん。キリスト者であるかないかに関係なく、すべての日本人、いや世界中の人が、 この言葉に面と向かって否(ノー)とは言いません。しかし20世紀は何千万人 もの人が殺された100年でした。人類の歴史上もっとも多くの人が殺された世 紀だったのです。日本も日露戦争から太平洋戦争の終了まで、数百万の人命を失 い、かつ数百万の人々の命を奪ったのであります。戦争だけではありません。国 家のリーダーが誤った判断をして数百万人もの自国民を餓死させたこともありま した。いやそういう大量殺戮といったことに限らず、私たちが尊敬するドイツの 神学者ボーンフェーファーは、ヒットラー暗殺を企てたと言われています。さら に、そういった歴史的な事柄だけでなく、今日、自分の目の前で、隣町の小学校 生徒を刺し殺した犯人の死刑を待つ私たちの姿があります。私自身のショッキン グな経験としてある殺人犯の処刑ということがあります。共同研究のパートナー がいるオクラホマ・シティーで大勢の子供を含む168人をビル破壊で殺した犯 人のことであります。何人かの親たちがガラス越しに見守る中で、注射をされて 処刑されました。彼は最後まで「ごめんなさい」とは言いませんでした。親たち の中には、もっと苦しませてじわじわ殺すべきだという声がありました。そこに は憎しみだけがあり、悪魔の勝利とも言うべき光景でした。このように見てきま すと、殺してはならないというあまりにも明らかな戒めが実はそう明らかではな いことがわかります。
こういう20世紀を生きてきた私たちは、今日子供たちになぜ人を殺してはいけ ないのかと聞かれて、まっすぐに答えられるでしょうか? 聖書がそう教えてい るからでしょうか? 実は旧約聖書を読みますと、主なる神が民を皆殺しにせよ、 と命じている箇所が目に付きます。しかも女も子供も家畜をもです。手加減した 人はかえって罰せられているように見えます。たとえばヨシュア記の7,8章を あとでお読みください。これはますます私たちを困惑させますし、普通日本より もあつい信仰を持つと思われる中近東の国々では殺し合いがたえません。
しかし、ここで私たちが必ず思い起こすべき主イエスのお言葉があるのです。マ タイによる福音書5章21節以下を読みましょう。
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁き を受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる 者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、 『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え 物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来 て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く 和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役 に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最 後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(5:26ま で)
主イエスは、今日の聖句、十戒の第6の戒め「殺してはいけない」を引用して語 られました。この主のお言葉を聞きますと、親しい人々に「ばか」とか「愚か者」 と何度も言ってきた私は、恐ろしくなってまいります。皆さんはいかがでしょう か。若いころ私は真剣にある人の乗った飛行機が落ちないかと願ったことがあり ます。すぐにそういう気持ちを打ち消すのですが、またむくむくと出てくる。私 の目の前から消えてほしいという願いです。これは怒りが根底にありました。い まもっと掘り下げて考えて見ますとよくわかります。自分は正しくて相手が間違っ ている。だから心のうちに裁いていたのです。主がそういう相手を断罪されるだ ろうと、こころのどこかで思っていました。お分かりだと思いますが、自分の方 が正しいという主張があるのです。この正義の主張が不義を許さないのです。主 はそこに、問題の本質を見ておられ、兄弟に腹を立てるものは、兄弟を殺すのだ とおっしゃったのです。
この主の言葉を心に留めますと、実は旧約聖書も同じことを言っているのにすぐ 気がつきます。出エジプト記にもどって、十戒の次の章、21章12節を見てく ださい。
21:12 人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、 偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定め る。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴 力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑 することができる。自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。人 を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死 刑に処せられる。自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。(21:17)
死に値する罪として、殺意を持って暴力を振るったり、父母を打ったり、呪うだ けで死に定められています。そして人を誘拐する、つまり人を盗めば死に値する と定められています。人の自由を奪い自分の自由を増やす、これは死に値すると はっきり書かれています。
このように見てきますと、聖書は旧約も新約も、単純に人殺しはよくないと言っ ているのではなく、もっと根本的な人の存在、人の思い、心のあり方を問題にし ていることがわかります。人の罪がそこに問われているのであります。
この殺してはいけないという戒めを理解する鍵をもうひとつだけ、聖書が語る決 定的な殺人事件を見ておきたいと思います。それは創世記の4章です。神が弟の アベルを顧みて自分を顧みてくれないということで弟を嫉妬し、結局彼を殺して しまった兄カインの物語です。誰もがこの兄に同情するのではないでしょうか。 自分もこういう立場に立ったら、弟を殺しかねないと思います。主イエス・キリ ストは、実はそういう私たちがカインにならないように、わたしたちを愛し私た ちのために十字架で死んでくださったとヨハネは語るのです。新約聖書に次のよ うな言葉があります。
カインのようになってはなりません。-------- 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。
あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていませ ん。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによっ て、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨て るべきです。(ヨハネの手紙1、3:15-16)
キリストが自分のような罪ある者のために死んでくださって、神の裁きをまぬか れるように、神と和解させてくださった。このキリストが愛しておられる私の兄 弟を、どうして憎み殺すことができますでしょうか。殺してはならないという戒 めを守り抜く道は、ここにしかないのであります。私たちはそれを証することが できるのです。ただ殺さないというのではなく、お互いが愛し合い許しあって生 きる道が、キリストの足もと、十字架の下にこそあるのです。繰り返します。単 なる教えや倫理ではなく、キリスト・イエスとの関係においてこそ、私たちは殺 すことではなく愛することを実現できるのです。
旧約の詩人はこう言いました。「塵に口をつけよ」(哀歌3:29)塵とは自ら の恥ずかしい過ち、罪の事でしょう。それをごまかすな。むしろそれ に口をつけよ、と。そのときにイエス・キリストの示された愛がわかり始め、希 望が生まれるのです。国のこともそうです。今日という特別の日に、国を守る、 あるいは国益のためと唱えながら、日本人はいかに多くの命を奪ってきたか、私 たちは今一度考え直さねばなりません。率直に過去の過ちに直すること。そこに こそ新しく生きる道があるのではないでしょうか。神はおっしゃいます。「殺し てはならない」と。
祈りましょう。