「ヤコブの見た夢」
2004年8月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記28・10‐22
ヤコブはベエルシェバから母リベカの故郷であるハランに向かって旅をし ていました。それは兄エサウに命を狙われていたからです。事の詳細は25 章19節からの物語をお読みください。要するにこういうことです。エサウ は長男、ヤコブは次男でした。長男には長子としての特権があります。また 長子が受け継ぐ神の祝福があります。弟のヤコブにはそれが我慢なりません でした。ですから、エサウに与えられている特権を奪ってやろうと思ったの です。彼は兄エサウを欺いて長子の特権を奪い、年老いて盲目となった父イ サクを欺いて長子の祝福を奪ったのでした。そのように、人を欺き、陥れ、 あるいは出し抜いてでも自分の望んでいるものを手にしたいという思いは、 誰の内にもあろうかと思います。しかし、そのような欲望に従って行動した 時、それが必ずしも幸福には結びつかないということもまた事実です。ヤコ ブは結局、兄に命を狙われ、故郷を離れ、愛する母親とも長い間別れて生活 することになったのでした。
今日お読みしたのは、そのような事情で兄から殺されそうになったヤコブ が、とぼとぼと一人で旅をしていた途上での出来事です。そして、ヤコブは そのような旅路の途上で神に出会うことになるのです。聖書のこの箇所に書 かれていることは、まことに驚くべきことです。それは彼が神に出会ったこ と自体ではありません。神がこの狡猾で罪深いヤコブにどのように関わられ たか、ということです。そのことを御一緒に見ていきましょう。
●天からの階段
彼は一つの場所にさしかかりました。その場所は後にヤコブによってベテ ルと名付けられます。19節には、「ちなみに、その町の名はかつてルズと 呼ばれていた」とあります。しかし、ここでヤコブは明らかに野宿をしてい るのであって、この物語においては、まだその場所に町は存在していません。 後に町ができるにしても、まだヤコブが立っているその場所は荒れ野です。
日が沈みました。あたりを暗闇が覆います。彼はそこで一夜を過ごさねば なりません。彼はその場所にあった石を枕にして身を横たえました。実に惨 めです。まさかこのような夜が彼の人生におとずれようとは、夢にも思わな かったに違いありません。なぜこんなことになってしまったのか。過ぎし日 日を振り返れば悔悟の念にかられます。これからどうなってしまうのか。明 日からの日々を思えば不安と恐れがつのります。自分の手で幸福を勝ち取り、 未来を切り開こうとしてきた彼は、今やどこにも希望を見出すことができま せん。彼を包んでいる闇夜は、彼の人生そのものを象徴しているかのようで した。
あなたはそのような夜を過ごしたことがありますでしょうか。あるいは、 今まさに私はそのような闇の中で石を枕にしているのだ、と言われる方があ るかもしれません。私たちの姿は、しばしばこのヤコブの姿と重なります。 しかし、物語はそこで終わりません。続きがあるのです。そのような石を枕 にして身を横たえているような惨めな夜こそが、まさにヤコブにとっては神 との出会いの夜だったのだと聖書は私たちに教えているのです。
このように書かれています。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達す る階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上った り下ったりしていた」(12節)。奇妙な表現だと思いませんか。私たちな らば、「先端が天まで達する階段が《天に向かって伸びており》」と表現し ますでしょう。しかし、階段は確かに「地に向かって」伸びていたのです。 実際この個所ではそのような表現が使われているのです。「伸びている」と は文字通りには「立てられている」という言葉です。誰が立てたのでしょう。 神が立て給うたのです。だから「天に向かって」ではなくて「地に向かって 」なのです。方向はあくまでも《天から地に向かって》なのです。
小さな違いのように見えますが、これは極めて重要な違いです。彼が《地 から天に向かう》階段の夢を見たとしても、それは救いにはならないからで す。なぜなら、ここで石を枕にしているのは、天に顔を向けることすらでき ない人間だからです。それは何もヤコブだけではありません。私たちも皆同 じであろうと思います。その罪深さのゆえに天に顔を向けることすらできな い――それが私たち人間というものです。ですから、地から天に向かって伸 びている階段を示されても人は救われないのです。
神がヤコブに見せてくださった夢は違っておりました。神が天から階段を ヤコブのいる地の方向に伸ばしていてくださったのです。しかも、「救われ たかったら天にまで昇って来い」と言われたのではありません。既にそこに は神の御使いたちが上ったり下ったりしていたのです。つまり、神の恵みは 天の高いところに留まっているのではなくて、ヤコブのいる地の上まで届い ているということです。それがヤコブの見た夢でありました。神がそのよう な夢を見せてくださったのです。
●見よ、わたしはあなたと共にいる
そして、ヤコブはまことに驚くべき神の言葉を耳にしたのでした。13節 以下を御覧ください。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あ なたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわって いるこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂 粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地 上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わた しはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、 必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決 して見捨てない』」(13‐15節)。
声は天の高いところから響いてきたのではありません。なんと、主はヤコ ブの傍らにおられたのです。まことに神から見捨てられても仕方がないよう なヤコブの人生の直中に、主は立っておられたのです。そして、「見よ、わ たしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない」と言ってくださっ たのです。
そこでヤコブは目を覚まします。彼は周りを見回します。何も変わってい ません。彼を取り巻く闇は変わりません。彼の置かれている状況は何も変わ っていません。しかし、石を枕にしていたその場所――悲しみと恐れに満ち ていたはずのその場所の意味が全く変わってしまいました。天からの階段が 地に向かって伸ばされていること、そして主が傍らに立ってくださったこと を知った時に、その場所の意味が変わってしまったのです。
ヤコブはこう言っています。「まことに主がこの場所におられるのに、わ たしは知らなかった」と。そして、さらに恐れおののいてこう言ったのです。 「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そう だ、ここは天の門だ」(17節)。石を枕にしていた場所は、相変わらず荒 れ野であるにもかかわらず、そこは神の家となり天の門となったのです。
●あなたがたは見ることになる
さて、この聖書箇所との関連で思い起こされるのは、十二弟子の一人であ るナタナエルが初めて主イエスに出会った時に、主が彼に語られた言葉です。 主イエスはこう言われたのでした。「はっきり言っておく。天が開け、神の 天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」 (ヨハネ1・51)。「人の子」というのは主イエス御自身を指している言 葉です。ここだけを読みますと、何かイエスさまの頭の上を羽のはえた小さ な天使が飛びまわっている、漫画のような映像を思い浮かべてしまうかもし れません。しかし、今日お読みしました聖書箇所とあわせて読みますと、主 イエスの言わんとしていたことが見えてまいります。主はあのヤコブが見た 階段の話をしているのです。
ヤコブは、夢の中で、天から地に伸ばされている階段を見ました。しかし、 主イエスは、夢ではなくて現実に天使が昇り降りする階段を見ることになる のだ、と言われたのです。どこにおいて?「人の子」においてです。すなわ ちこの地上を歩まれたイエスという御方においてです。では、実際にナタナ エルをはじめ、主イエスについて行った弟子たちは、本当にヤコブの階段を 「見た」のでしょうか。
主イエスについて行った彼らがやがて目にしたのは、十字架にかけられた キリストの姿でありました。しかし、彼らは確かにヤコブの階段を見たので す。なぜなら、それは私たちの罪を贖うために、私たちに代わって苦しみを 受け、死んでいかれたキリストの姿だったからです。このキリストの十字架 こそ、まさに神が天から地に伸ばされた階段に他ならないのです。キリスト の十字架こそ、天に顔を向けることのできないこの地上の世界に、神の側か ら伸ばしてくださった階段なのです。神は確かに、イエスというお方を通し て、私たちにその階段を見せてくださったのです。
ですから、このキリストのもとにおいて、私たちにもまたあのヤコブが聞 いた言葉を聞くことができるのです。主は私たちにも言われるのです。「わ たしはあなたと共にいる。わたしは決してあなたを見捨てない」と。そして、 私たちもまた、ヤコブと同じように、自分自身が神の家におり、天の門の前 に立っていることを見出すのです。
この後、「主よみもとに近づかん」*という讃美歌を歌います。この歌は、 しばしばお葬式においても歌われます。しかし、私たちは勘違いしてはなり ません。人が亡くなったから「主よみもとに近づかん」と歌うのではありま せん。人が死んだら自動的に神に近づくのではありません。生きるにしても 死ぬにしても、罪深い人間が神に近づくことができるということは、決して 自明のことではないのです。神に近づくことができるのは、ヤコブが夢に見 たように、そしてキリストの十字架において神が私たちに見せてくださった ように、ただ神の恵みによるのです。この神の恵みによって、最終的に人間 が石を枕に身を横たえる墓さえも、そこが天の門となるのです。
*日本基督教団出版局発行「讃美歌21」434番 同「讃美歌第一編」320番