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「ヤコブの格闘」

2004年8月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記32・23‐33

●ヤコブという名を持つ男

 今日も先週に引き続きヤコブという人物の物語をお読みしております。

 ところで、ヤコブという名前の由来に関しては大変面白い話が伝えられて おります。創世記25章21節以下を御覧ください。彼は兄エサウと双子の 兄弟でした。その双子は母親の胎内にいたときから既に先を争っていたよう です。そして、生まれた時、先に出てきたエサウのかかとをつかんで出てき たのが弟のヤコブでした。「かかと」はヘブライ語で「アーケーブ」と言い ます。これが動詞になりますと、「かかとをつかむ」となりまして、私たち の言葉で言いますと、「足を引っ張る」とか「出し抜く」というような意味 になります。ヤコブという名前は、そのような言葉に由来するのだと説明さ れているのです。

 「名は体をあらわす」と言われます。ヤコブという人物は、その名の通り 「人の足を引っ張り、人を出し抜く人」として特徴付けられます。実際、ヤ コブがしたことは、兄エサウを出し抜き、父イサクを欺いて、長子の特権と 祝福を奪い取ることでありました。

 しかし、望むものをまんまと手に入れたヤコブは、彼は兄エサウから深く 憎まれることになりました。兄エサウは必ず弟のヤコブを殺してやると心に 決めていたのです。それを知ったヤコブは、兄のもとから母の故郷であるハ ランへと逃れていくことになりました。そして、実にその逃亡生活は20年 に及ぶことになるのです。その間、彼は叔父のラバンに何度も騙されて大変 な苦労をいたします。29章から31章に渡って、ハランにおけるヤコブの 生活が描かれていますので、どうぞお読みください。しかし、そのような逃 亡先での苦労多い生活の中で、彼は妻子を得、多くの家畜を得て、実に豊か な大家族となったのです。

 そのようなヤコブに、ついに故郷に帰るべき時がやってきました。主が夢 の中でヤコブに、「さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさ い」と言われたのです。ヤコブとその家族は主の導きに従い、ハランを後に しました。しかし、そこにはまだ大きな問題が未解決のまま残されておりま す。そうです、エサウとの和解がまだ成立していないのです。

 彼はあらかじめ兄エサウのもとに使いを遣わしました。すると、使いはエ サウがこちらへ向かっているとの知らせをもって帰ってきたのです。しかも、 エサウは四百人もの野郎共を引き連れてやってくると言います。ヤコブは震 え上がりました。そこでヤコブが祈った言葉が32章10節以下に記されて います。

 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわ たしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあ なたに幸いを与える』と。 …どうか、兄エサウの手から救ってください。 わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も 殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ず あなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多 くする』と」(32・10‐13)。

 ヤコブは、そのように神に救いを祈り求めます。しかし、もう一方におい て、彼は取り得る方法を思い巡らしておりました。これまで人の足を引っ張 り、人を出し抜くために用いてきた頭脳をフル回転させて、ヤコブはこの危 機を乗り切るための策を講じます。彼は自分の持ち物の中から兄エサウへの 贈り物として、山羊や羊、らくだや牛などを選びました。そして、それぞれ の群れを召使いに託して、贈り物の行列を作ったのです。彼は召使いにこう 言わせることにしました。「これはあなたさまの僕ヤコブのもので、御主人 のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」 と。

 「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、 恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである」(21節)。そう書かれ ております。そのように、ヤコブにとって最大の問題は、兄エサウと「顔を 合わせる」ということにありました。ですから、兄と「顔を合わせる」こと ができるように策を講じたわけです。兄の怒りという問題を解決し、取り除 こうとしたのです。

 そのように、私たちもまた、目の前に問題があれば、その問題を解決しよ うとして策を講じます。その問題そのものを解決し、取り除こうといたしま す。しかし、聖書はいつでも、本当の問題は何かと私たちに問いかけます。 実は、ヤコブにとって解決されなくてはならない最大の問題は、兄エサウと の間に存在していたのではありませんでした。それは神との間にあったので す。そのことを、今日の聖書箇所は示しているのです。

●祝福してくださるまでは離しません

 23節以下を御覧ください。「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人 の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川 を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、 何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てな いとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節 がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言っ たが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』」 (32・23‐27)。

 まことに奇妙な話が書かれています。「何者かが」と書かれていますが、 これは何者なのでしょう。これは人のようであるし、天使のようであるし、 後の言葉からすれば神でもあるようです。良く分かりません。しかし、いず れにせよ、このような表現をもって、その夜のヤコブの経験が描写されてい るわけです。確かに、不安と恐れに満ちた夜を過ごすヤコブにとって、その 夜の経験というものは何者かとの格闘――究極的には神との格闘――に他な りませんでした。

 では、その格闘の中で一体何が起こったのでしょうか。ヤコブの腿の関節 がはずれたのです。それは相手に打たれたからです。打たれて弱くされたの です。それまでヤコブは強かったのです。相手を打ち負かすほどに強かった のです。しかし、そのヤコブが打たれて弱くされました。腿の関節がはずれ たらどうなるでしょう。足を引きずらざるを得ません。もはやエサウが襲っ てきても、戦うことはできません。逃げることすらできません。絶体絶命で す。

 そのように、神が人に関わられ、その人生に入って来られる時、そして神 が人と格闘される時、その格闘の中で人は弱さを与えられます。神は人間を 打って弱くし給うのです。それまで神にさえ打ち勝てると思っていた人間が、 徹底的に弱くされるのです。もはや自分の力で戦うことも逃げることもでき なくなります。その時、人はどうしたら良いのでしょう。ヤコブはどうした のでしょうか。ヤコブはしがみついたのです。「祝福してくださるまでは離 しません」と言ってしがみついたのです。彼はそのように、ただひたすら神 の祝福を求めたのです。彼は気が付いたのです。エサウとの関係が問題なの ではなくて、それ以前に神との関係が問題なのだ、ということにです。

●お前の名はイスラエル

 しがみついて離さないヤコブに対して、その人は尋ねました。「お前の名 は何というのか」。彼は「ヤコブです」と答えます。先ほど申しましたよう に、ヤコブという名前は「足を引っ張る」「出し抜く」という意味の言葉に 由来します。「わたしはヤコブです」――そう答えることは、彼がこれまで どのように生きてきたかを認める、ということでもあったに違いありません。 「わたしはヤコブです。出し抜くものです。そのように人を出し抜いてでも、 前に出ようとしてきた者です。そのように自分の力によって、未来を切り開 こうとしてきた人間です。そうです、そのようにして、自分の力で、この危 機をも乗り越えようと、いろいろ考えを巡らしました。策を講じました。し かし、今や、わたしは腿の関節をはずされた者です。もはや自分の力では逃 げることすらできません」。そのように彼の生き様とその破れとを表してい た名、それがヤコブという名前でありました。

 しかし、「わたしはヤコブです」と答えた彼に、その人は――すなわち神 は――こう言われたのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからは イスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。 ヤコブは新しい名前を与えられました。もうヤコブではありません。イスラ エルです。「イスラエル」という名前が正確にどのような言葉に由来し何を 意味するかは難しい問題ですが、ここでは「神と人と闘って勝った」という ことから説明されています。なんと驚くべき言葉でしょうか。そこにいるの は、打たれて弱くされて、もはや足を引っ張ることも出し抜くこともできな い、ただすがりつくことしかできないようなヤコブです。しかし、そのよう なヤコブに対して、神は「お前こそイスラエルだ。真の勝利者なのだ」と言 われたのです。

 この出来事を経験した場所は、「ヤボクの渡し」(23節)という場所で した。その場所をヤコブは「ペヌエル」と名付けます。それは「神の顔」と いう意味です。それはヤコブが「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、 なお生きている」と言ったからだ、と説明されています。

 先に見たように、ヤコブにとって最大の問題は、エサウと顔を合わせるこ とにありました。少なくとも彼はそう思っていたのです。しかし、本当に顔 を合わせなくてはならない相手は、エサウである前に神だったのです。そし て、エサウと顔を合わせることがヤコブにとって危機を意味するように、そ れ以上に、神と顔を合わせるということは危機を意味しました。なぜなら、 罪ある人間が神と向き合うことは死を意味するからです。しかし、「わたし は顔と顔とを合わせて神と見たのに、なお生きている」のです。これはすな わち「わたしは赦された」ということに他なりません。神の祝福は、神の赦 しと共に与えられたのです。それこそが、エサウに赦されること以上に、ヤ コブにとっては重大なことでありました。

 そして、「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」とい う印象深い描写が続きます。彼は足を引きずっています。彼は神に打たれて 弱さを与えられました。しかし、不安と恐れの闇夜はもはやそこにはありま せん。彼は確かに朝の光の中を歩んでいるのです。そのような朝を、後のイ スラエルの民もまた幾度となく経験しました。新しいイスラエルである教会 もまた同じです。そこに生きる私たちもまた、ヤコブからイスラエルとされ た者として、闇夜から朝の光の中へと常に導かれているのです。

 
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