「ヤコブとエサウの和解」
2004年9月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記33・1‐20
私たちはヤコブの物語を共にお読みしてきました。今日はその三回目です。 これまでの話を振り返ってみましょう。
ヤコブは兄エサウと双子の兄弟でしたが、兄エサウと父イサクを騙して長 子の特権と祝福を奪いました。しかし、それゆえに兄エサウの怒りを買い、 命を狙われるようになります。ヤコブは兄の殺意から逃れ、遠いハランの地 で二十年間の逃亡生活を送ることになりました。そして、ついに故郷に帰る べき時がやってきます。それは兄エサウと再び顔を合わせるということをも 意味しました。彼は苦悩の夜を過ごします。その様子を聖書は「そのとき、 何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」(32・25)と表現しております。 何者か――それは神の御使いと考えて良いでしょうが、ヤコブの経験した格 闘は、究極的には神との格闘に他なりませんでした。
その格闘の中で彼の腿の関節がはずれます。もはや彼は神にすがりつくこ としかでません。彼は言いました。「祝福してくださるまでは離しません」 と。こうして苦悩の夜が明けました。朝日が彼の上に昇ります。ヤコブは 「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(32・3 1)と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けました。確かにその 夜は本当の意味でヤコブが神と向き合った夜でありました。彼は神に赦され た者として、そして祝福された者として、朝を迎えたのです。
●神の御顔のように見えます
そして、今日の聖書箇所に入ります。ヤコブが顔を上げると、遠く地平線 のかなたに、エサウが四百人の者を引き連れてやってくるのが見えてきまし た。神と向き合う夜を過ごしたヤコブは、人と向き合う備えをいたします。 覚悟は定まりました。彼はすべてを神にゆだね、先頭に立って進んでいきま す。彼は兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏しました。すると兄エサウが 走ってきたのです。ヤコブはもう逃げも隠れもしません。そもそも神に腰の 関節を打たれた時から、逃げるという選択肢はありませんでした。今や、ヤ コブが寄り頼めるのは、自らの力や強さではありません。ただ神に赦され祝 福された者であるという一事だけです。そうです、人間が最終的に寄り頼む ことができる岩は、神の赦しと祝福しかないのです。
走り寄る兄が近づいてきました。そして、驚くべきことが起こったのです。 ヤコブがそこに見たのは怒り狂って剣を振りかざす兄の姿ではありませんで した。エサウは両手を広げてヤコブを迎え、彼を抱きしめ、首をかかえて口 づけしたのです。エサウは泣いていました。ヤコブも共に泣きました。この ように、和解はまさにヤコブの思いを遙かに越えた仕方で起こったのです。
やがてエサウは顔を上げ、女たちや子供たちを見回して尋ねました。「一 緒にいるこの人々は誰なのか」と。ヤコブは改めて逃亡生活の間に与えられ た自分の家族をエサウに紹介いたします。するとエサウはさらに尋ねました。 「今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか」。ヤコブがあの苦 悩の夜を過ごす前、何とかしてエサウの怒りを宥めようとして策を講じ、先 に送っておいた多くの贈り物の行列のことです。ヤコブは率直に「御主人様 の好意を得るためです」と答えました。するとエサウは受け取ることを断っ て言いました。「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものは お前が持っていなさい」。
しかし、ヤコブはあえてエサウにこう言って勧めたのです。「いいえ。も し御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄 上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎 えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。 神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから 」(33・10‐11)。
人間の顔が「神の御顔のように見える」というのは極端な表現です。実際、 聖書のここにしか出てきません。この言葉が32章のペヌエル(神の顔)に おいて「顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったヤコ ブの言葉との関連で用いられていることは明らかです。
要するに、ヤコブにとって、エサウの赦しは神の赦しの反映に他ならなか ったのです。ヤコブはエサウの好意の中に神の恵みを見ていたのです。エサ ウによって赦され、エサウとの和解が実現したということは、ヤコブにとっ て、ただ人と人との間に起こったことではなく、神とヤコブとの間に起こっ た出来事でもあったのです。
人から赦されても、危機が過ぎ去っても、ただ「ああ、よかった。助かっ た」としか考えない人はいくらでもおります。時が経てば何事も無かったか のように忘れ去られてしまいます。それがどんなに大きなことであっても、 本当の意味で人生における深い経験にならず、後には何も残りません。しか し、ヤコブにとってこの出来事はそのようなものではありませんでした。な ぜでしょうか。エサウと向き合う前に神と向き合ったからです。真剣に向き 合ったからです。格闘するほどに真剣に向き合ったからです。
●スコトへ、シケムへ
さて、エサウはヤコブに言いました。「さあ、一緒に出かけよう。わたし が先導するから」(33・12)。しかし、ヤコブはこの申し出を婉曲に断 りました。そして、エサウが先導することだけでなく、護衛をする者何人か を同行させるという申し出をも断るのです。そして、「わたしは、ここにい る家畜や子供たちの歩みに合わせてゆっくり進み、セイルの御主人様のもと へ参りましょう」(33・14)と言ったにもかかわらず、まっすぐにセイ ルのエサウのもとに行くことはしなかったのです。
なぜでしょう。このことの理由として、ヤコブがエサウを信用していなか ったからだと説明する人もいます。しかし、恐らくそうではないでしょう。 このことが問題となって再びヤコブとエサウとの間に不和が生じたという話 の展開にはなっていませんから。父イサクが死んだ時、ヤコブはエサウと共 に何の問題もなく父を葬っているのです(35・29)。
むしろ物語の大きな流れに目をやるときに、ヤコブがエサウの申し出を断 った理由が見えてくるように思います。要するに、ヤコブはまっすぐにセイ ルに向かうわけにはいかなかったのです。彼には向かうべきところが別にあ ったからです。それは父の家のあるヘブロンでさえありません。神がヤコブ に現れて故郷に帰るよう導かれた時、神は何と言われたでしょうか。創世記 31章13節を御覧ください。神はこう言われたのです。「わたしはベテル の神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓 願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰り なさい」(31・13)。
ベテルとは、かつて兄エサウを逃れてハランへと向かっていたとき、その 途上で石を枕にして眠っていたヤコブに、夢の中で神が現れた場所です(2 8・10以下)。神が天から地へと伸びる階段を見せてくださった場所、そ して、「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない」と言っ てくださった場所です。そこで立てた誓願とは、記念碑として立てたその石 を神の家とし、すべて、神が与えられたものの十分の一をささげる、という ことでした(28・22)。ですから、彼は逃げてきた道を逆に辿って故郷 に帰るに当たり、どうしてもまずあのベテルへと向かわねばならなかったの です。
ところが、実際にヤコブがベテルに上り、そこに祭壇を築くのは35章に おいてです。彼はそれまでどうしていたのでしょうか。次のように書かれて おります。「ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った 」(33・17)。なんと「家を建てた」という話が出てくるのです。彼ら は長期に渡って、そこに定住することになったのです。恐らく彼らの目には、 ヤボク川とヨルダン川の間にあるその土地が、家畜を養うのに適した豊かな 土地と映ったのでしょう。しかし、それは神の目にどう映っていたのでしょ うか。
そして、さらにもう一つの話が伝えられています。彼らがシケムに移り住 んだという話です。その話は34章全体にまで及びます。そして、それは娘 のディナが陵辱され、息子たちがその復讐をするという、まことに悲しむべ き話となるのです。これらのことを経て初めて彼らは再びベテルへと向かう ことになるのです。
確かにヤコブはペヌエルにおいて「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た のに、なお生きている」と言いました。そして、そこにおいてまた、兄エサ ウとも和解することができました。しかし、ペヌエルはゴールではありませ ん。それですべて事が終わったのではありません。むしろ大事なのは、そこ からどこへ向かうか、ということだったのです。
私たちにおいても同じです。神に赦されること、神と和解すること、そし て、人と和解すること。信仰によって義とされること。洗礼を受けること。 それはゴールではありません。大事なのは、そこからどこに向かって生きて いくかということなのです。