「ヨセフの見た夢」
2004年9月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記37・1‐11
今日お読みしましたのは、いわゆる「ヨセフ物語」の冒頭部分です。確か にストーリーはヨセフという人物を中心に展開していますので呼び名は「ヨ セフ物語」でも良いのですが、聖書はそのものは、2節にありますように、 これを「ヤコブの家族の由来」と呼んでいます。すなわち、ヤコブの家族が カナンの地からエジプトに移り住むに至った経緯を描いているのです。これ は創世記から出エジプト記への橋渡しともなっております。出エジプト記に 入りまして、モーセがエジプトから導き出すのは、このヤコブの家族から出 た子孫に他なりません。ですので、ここに描かれているのは、神の民イスラ エルの祖先となる一家族の物語です。しかし、驚いたことに、この家族の姿 は、後のイスラエルの民にとって模範になるような、理想的な家族像として は描かれてはおりません。模範を示すということには全く関心がないかのよ うです。
●歪んだ家族関係
ここに描かれているのは、明らかにある種の歪みを持った家族です。父親 であるヤコブは子供たちに対して公平ではありません。ラケルから生まれた 子、年寄り子でもあったヨセフだけを偏愛しています。ヤコブはヨセフを他 のどの息子よりも可愛がり、彼だけに「裾の長い晴れ着」を作ってやりまし た。特別な時に着るためではありません。ヨセフは普段の生活の中でそれを 着ています(23節)。もちろん、そんなものを着て野良仕事はできません。 兄たちが汗を流して働いている時に、ヨセフだけは父親の寵愛を一身に受け て、いつもその側近くにいたということです。
父親がこういうことをすれば家庭は確実に歪みます。子供の性格も歪みま す。ヨセフは兄たちの悪い行いを見つけては父親に密告をする、立派な「ち くり屋」に成長しました。当然のことながら、ヨセフは兄たちに憎まれ、嫌 われます。「穏やかに話すこともできなかった」(4節)とありますが、当 たり前の話です。兄たちが自分に対してどのような感情を抱いているかは、 その口調で分かるものでしょう。しかし、このヨセフの性格の歪みは相当な ものでありまして、まったく自分が置かれている場の空気を読めません。
その一例となるようなエピソードが記されています。彼は自分が見た夢を 得意げに披露するのです。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。 畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、 まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、 わたしの束にひれ伏しました」(7節)。しかも、こういうことを繰り返し ます。彼は別な夢を見て、兄たちに話しました。「わたしはまた夢を見まし た。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです」(9節)。
こんなことを得意げに話したら、聞いた者は不愉快になるであろうことを、 彼は思い計ることもできません。想像力の欠如は、本人にとっても周りにと っても不幸なことです。彼はますます憎まれることになりました。このよう な関係がやがて破局を迎えるであろうことは目に見えています。実際、悲劇 はある日突然訪れました。
その日、ヨセフは羊の群れを飼っている兄たちの様子を見てくるようにと、 父親のもとから送り出されました。近づいて来るヨセフの姿を、兄たちはは るか遠くのほうに認めます。憎しみと怒りは頂点に達していました。彼らは 殺してしまおうと相談を始めます。結局、殺しはしなかったものの、「ヨセ フがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ 取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ」(23節)のでした。そして、穴に 落とされたヨセフはたまたま通りかかったイシュマエル人の隊商に売り飛ば され、エジプトへと連れて行かれることになったのです。
一方、兄たちは犯行を隠蔽するために、ヨセフの着物に雄山羊の血を浸し、 それを父親のもとに送り届けます。父ヤコブはそれを調べて言いました。 「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしま ったのだ」(33節)。そして、嘆きながらこう呟きます。「ああ、わたし もあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下っていこう」と。
偏愛する父親。弟への憎しみとねたみに満ちた兄たち。そんな兄たちの心 を察することのできない無神経な弟。それぞれの罪深さが相互に働いて、結 局、皆が苦しんでいます。皆が不幸です。しかし、そのように皆が苦しんで いるという話なら、何も聖書に書かれていなくても、私たちの身近かにいく らでもあるでしょう。そのような経験は、私たち自身にもあろうかと思いま す。さて、このような模範にも規範にもならないような家族の姿を示して、 いったい聖書は私たちに何をしようとしているのでしょうか。
●貫かれている神の善意
もしこの「ヤコブの家族の物語」が、ただ人間の罪深さとそこから来る人 間の苦しみを描き出しているだけならば、そのような話は少なくとも聖書の 中の物語として読むに値しないでしょう。私たちがこれを読んでいるのは、 これが単に人間だけの物語ではないからです。これは神の物語でもあるので す。
そこで重要な意味を持ってきますのが、この物語においてたびたび出てき ます《夢》の話です。今日の聖書箇所においても、ヨセフが二つの夢を見た という話が出てきました。夢は見ようと思って見るものではありません。一 方的に見せられるものです。ヤコブの見た夢の内容は明らかに人間の営みの 中から出てきたものではありません。それは人間の計画とは何の関わりもあ りません。ヤコブの偏愛とも兄たちの憎しみとも何の関係もありません。そ の内容は、彼らの現実とは全く無関係の別のところで定められたものです。 それが一方的に見せられた。それがヨセフの夢でありました。
このような《夢》の話には、ある一つの強烈な主張が込められていると言 ってよいでしょう。すなわち、この地上の人間の営みや計画とは全く別なと ころで、人間の全く関与できない知られざる世界において、既に定められて いる別の計画、神の計画があるのだ、という主張です。そして、そのように 夢を通して明かされた天における神の計画は、確かに地上において実現した のだ、とこの物語は私たちに語っているのです。
「兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」 ――ヨセフの見たこの夢は、どのような形で、この地上において実現したの でしょうか。驚いたことに、それは売られて行った先であるエジプトにおい て、ヨセフが宰相となることにおいて実現したのです。どのようにして、彼 がエジプトを支配する者となったのか。詳しくは39章以下をお読みくださ い。ともかく、そのように、エジプト全土を支配する者となったヨセフのも とに、兄たちがカナンの地から旅をしてやってきたのです。それはカナン地 方が飢饉に見舞われたからです。彼らは食料を求めてやってきたのでした。 こうして、神の計画は不思議な形で実現したのです。
しかし、ここで私たちは考えたいと思うのです。この物語が、ただ「神の 計画というものがあるのだ。それは必ず実現するのだ」ということを語って いるだけなら、それは本当に私たちの喜びとなるでしょうか。私たちに希望 を与えるものとなるでしょうか。必ずしもそうはならないだろうと思うので す。
そこで私たちが心に留めるべき重要な言葉があります。ヨセフの夢が実現 した後に、ヨセフが身を明かして語った言葉です。45章4節以下を御覧く ださい。彼は驚く兄たちにこう語っているのです。「わたしはあなたたちが エジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったこ とを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神 がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世 界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収 穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、 この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大 いなる救いに至らせるためです」(45・4‐7)。
要するに、この物語は、ただ神の計画が機械的に実現することを主張する ような、冷たい決定論の話ではないのです。もしそうならば、それは単に人 間を無気力にするだけでしょう。「どうせ、すべては決まっているのだから。 どうせ神の意志だけが実現するのだから」と。ここで語られているのは、そ のようなことではないのです。神の計画が実現したということ以上に重要な ことがあるのです。それは、その計画が神の愛と善意に貫かれている、とい うことなのです。
「兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」 というヨセフの言葉に、兄たちは腹を立てました。自分たちが弟の前にひれ 伏すということは、想像しただけでも腹立たしかったに違いありません。し かし、あの夢が語っていたのは、丁度小さな節穴から覗いた一齣のようなも のだったのです。その一齣はもっと大きな全体の流れの中に置かれているの です。それはもっと大きな神の意図の中に置かれているのです。それはヤコ ブの家族全体が救われるということです。その全体には神の愛と善意が貫か れているのです。
しかし、良く考えますと、このヤコブの家族が飢饉から救われるというこ ともまた、小さな節穴から覗いた一齣に過ぎないと言えるでしょう。なぜな ら、冒頭に申しましたように、これは神の民イスラエルの祖先となる家族の 物語だからです。この先にはイエス・キリストの到来があるのです。これは 確かに、神の救いの計画とその実現という大きな流れの中の一場面に他なら ないのです。その全体には神の愛と善意が貫かれているのです。
私たちが日々目にし、経験しているのは、確かに人間の意志と行為によっ て動いていく世界です。ヤコブの偏愛が、ヨセフにも兄弟にも自分自身にも 苦しみをもたらしたように、私たちも自分の罪、他者の罪のゆえに、多かれ 少なかれ、苦しみと悲しみとを味わいながら生きていかねばなりません。し かし私たちは、そのような私たちの営みがもっと大きな流れの中に置かれて いることを忘れてはならないのです。その流れを導いているのは、私たちの 知らない、天において定められた神の計画です。その計画は、神の愛と善意 に貫かれているのです。