「目を開かれるイエス」
2004年9月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ8・22‐26
●見えるようになるために
パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中に次のような言葉があります。 「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠 の栄光をもたらしてくれます」(2コリント4・17)。これはまことに驚 くべき言葉です。というのも、パウロが経験してきた艱難は、どう考えても 「軽い艱難」などではないからです。例えば、同じ手紙の中にこう書かれて います。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打 たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。 一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、 同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の 兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢 え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」 (同11・24‐27)。これが「軽い艱難」でしょうか。しかし、パウロ はそう呼ぶのです。やせ我慢ではありません。虚勢を張っているのでもあり ません。ごく自然にそのように語り得るのはなぜでしょう。
先に挙げた言葉は次のように続きます。「わたしたちは見えるものではな く、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えない ものは永遠に存続するからです」(同4・18)。どうもここに鍵があるよ うです。見えないものに目を注ぐのは、見えないものが見えているからです。 肉の目をもって見えないものが、信仰の目をもって見えているのです。彼は 信仰の目をもってキリストを見、この世界を見、そして自分自身を見ている のです。そして、パウロの人生にとって決定的な意味を持つのは、信仰をも って見えるものなのです。ですから、最終的に肉の目をもって見えるものに よっては動かされないのです。艱難の中にあっても希望を奪われることはあ りません。落胆しません。信仰によって生きているからです。私たちも、パ ウロと同じように、見えないものに目を注いで生きる者でありたいと思いま す。
さて、そのようなことを考えながら、今日の聖書箇所に目を転じますと、 この箇所の直前には、見えるべきものが見えていない弟子たちの姿が描かれ ていることに気づきます。彼らは主イエスと共にいました。主イエスの奇跡 をも目にしました。しかし、彼らは主イエスにこのように言われているので す。「…まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっている のか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えてい ないのか」(8・17‐18)。
主イエスは、そのような弟子たちと共に旅を続けます。そのような鈍くか たくなな弟子たちに、主イエスは忍耐強く関わり続けられます。見えるべき ものが見えるようになるために。そのような主イエスと弟子たちの旅路の途 上の出来事として、今日の奇跡物語は描かれております。そこで一人の盲人 が見えるようになります。そこに描かれている主の御姿は、まさに目の見え ない弟子たちが見えるようになるために忍耐強く関わり給う主の御姿に他な りません。そして、それは私たちに関わり給う主の御姿でもあるのです。
●村の外に連れ出して
マルコによる福音書には、盲人の癒しの奇跡を描いた物語が二回現れます。 その一つは今日の箇所であり、もう一つは10章に記されています。バルテ ィマイという盲人の物乞いが癒されたという話しです。その人は、道端に座 っていたのですが、ナザレのイエスが通りかかると耳にすると、「ダビデの 子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で叫び始めたのでした(1 0・47)。人々は叱りつけて彼を黙らせようとしますが、彼はますます大 声で叫び続けます。そして、ついにその声が主イエスの耳に留まりました。 主は言われます。「あの男を呼んで来なさい」。主のお声がかかると、彼は 目が見えないにもかかわらず、躍り上がって主イエスのもとにやってきたの です。
今日の聖書箇所に出てくる人の姿は、そのようなバルティマイの姿とは対 照的です。彼は人々に連れられてやってきました。触れて欲しいと願ったの は、本人ではなく、連れてきた人々です。この描写を読みますかぎり、この 人にバルティマイほどの熱意は感じられません。このように、主イエスのも とに人が来る仕方は様々です。ある人は自ら主イエスを叫び求めてやってき ます。他の人々に止められてもなお求め続けます。またある人は、他の人々 に連れられてやってきます。本人が切に求めているわけではありません。
しかし、たとえ自らが求めて主のもとに来たのではなく、誰かに連れられ て来た人でありましても、主は連れてきた人々ではなく、その本人と直接向 き合うことを望まれるのです。主イエスは、この盲人の手を取って、村の外 に連れ出されます。彼を連れてきた人々は後に残されました。彼が今まで頼 ってきた人々は、後に残されました。今、頼りになるのは、彼の手を握って いる主イエスだけです。その御手だけです。彼は主イエスの御手を意識せざ るを得なくなりました。その御手を自分自身もしっかりと握らざるを得なく なりました。
あなたは家族の誰かから誘われて教会に来られた方であるかもしれません。 友人に誘われて来られた方であるかもしれません。しかし、いずれにせよ、 主はあなたと直接向き合うことを望んでおられます。主はあなたの手を取ら れます。主はあなたの知らないところへとあなたを導いていきます。主はこ の人を村の外に連れて行きました。そのように、主はあなたが今まで頼りに していた人や物や環境からあなたを引き離されるかもしれません。主が関わ られる時、あなたは主の御手を意識せざるを得なくなります。その御手をし っかりと握らざるを得なくなるのです。
●目に触れ給う主イエス
きっとこの人は不安を感じていたことでしょう。何の説明もなく、村の外 に連れて来られたのですから、多少の憤りさえ覚えていたかもしれません。 しかし、主はこの盲人と向き合うと、いきなりこの人の目に唾をつけ始めま した。そして、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねにな ったのです。
動物は傷ついた時、傷口を舐めます。唾液には殺菌作用があるからです。 古来からユダヤでもヘレニズム世界でも、唾液を傷口につけるという習慣は 珍しくありませんでした。私も小さい頃、外で転んで膝小僧をすりむいて帰 って来ると、祖母が「痛くない、痛くない」とか言いながら、唾をつけてく れたのを思い出します。しかし、唾をつけることが目に良く利くとは思えま せん。また、主イエスが、奇跡を行うために、唾をつけるという行為がどう しても必要であったとも思われません。なぜなら、バルティマイを癒した時 には「あなたの信仰があなたを救った」と言われただけで、唾などつけなか ったのですから。
ですから、唾をつけることは、主イエスが癒しをするために必要だったの ではないのです。それはこの人のために必要だったのです。主が深い憐れみ をもってこの人に関わっておられることをこの人が知るための助けだったの です。なぜなら、この人には主イエスの表情が見えないからです。主がこの 人に向けておられる眼差しの優しさも見えないからです。主がこの人に出来 ることは、彼に触れることだけだったのです。他の人々が治療のために傷口 に唾をつけるように、この盲人の見えない目に唾をつけ、主が片手だけでな く両手をその人に置いた時、その人は確かにイエスというお方をその身に感 じていたに違いありません。主イエスが彼の見えない目に関心があること、 その見えない目を何とか開こうとしておられること、そのために一生懸命に なって関わってくださっていること、そのように彼の目が開かれるかどうか は主イエスにとって決してどうでもよいことではないことを、彼は確かに感 じ取っていたはずです。
ですから、彼も、今まで見えなかったその目で見ようとしたのでしょう。 すると見えてきました。彼は言います。「人が見えます。木のようですが、 歩いているのが分かります」(24節)。それを聞いて、主イエスはもう一 度両手をその目に当てました。すると、「よく見えてきていやされ、何でも はっきり見えるようになった」(25節)と書かれております。「よく見え てきて」と訳されていますが、もともとは「ひたすら見つめる」という意味 の言葉です。聖書協会口語訳では「盲人は見つめているうちに、なおってき て、すべてのものがはっきりと見えだした」となっていました。彼はそのよ うに、見え始めたものを一心に見つめていたのです。するとさらにはっきり と見え
てきたのです。 確かに、この人が見えるようになったのは、主イエスがこの人の目を開か れたからです。それは主の御力によるのであって、この人の努力によるので はありません。しかし、この人はおぼろげに見え始めたものをはっきりと見 たいと願い、見え始めたものをひたすら見つめていたことは決して小さなこ とではないのです。
先にも申しましたように、この聖書箇所の直前には、見るべきものが見え ていない弟子たちの姿が描かれております。しかし、この聖書箇所の直後に は信仰を告白しているペトロがいるのです。主イエスに対し、「あなたは、 メシアです」(29節)と言っているのです。そのように、あの鈍い弟子た ちにも、何かがおぼろげに見え始めているのです。しかし、主イエスは、弟 子たちがおぼろげに見えたことをもって良しとはされませんでした。主は再 び両手を盲人の目に置かれたように、弟子たちに対してなおも関わり続けら れたのです。触れ続けられたのです。どのようにしてでしょう。彼らの目の 前に十字架上の無惨な死をさらすことによって、そして復活の姿をもって現 れることによって、そして天に上げられたお方として弟子たちに聖霊を注が れることによってです。
そして、今もなお、福音の言葉を通して、分かち与えられる御体と血とを 通して、生ける主イエス・キリストは、私たちに関わり続け、触れ続けてお られます。私たちの目が開かれて、見えないものが見えるようになるために。 決して過ぎ去ることのない永遠なるものが、救いの世界が、確かに主の憐れ みによって、既におぼろげながら見え始めているではありませんか。そして、 代々のキリスト者は、そのようにしておぼろげながらも見え始めたものに、 ひたすら目を注ぎ続けてきたのです。やがて「顔と顔とを合わせて見る」 (1コリント13・12)ように、すべてをはっきりと見る時が来るでしょ う。そのときまで、私たちは信仰によって見え始めたものに、ひたすら目を 注ぎ続けて生きてゆくのです。