「忍耐と知恵」                          ヤコブ1・1‐8 ●誘惑と試練  今日の聖書箇所には「試練」という言葉がでてきます。後の13節には 「誘惑に遭う」あるいは「誘惑する」という言葉が出てきます。これらの箇 所では、名詞と動詞の違いはありますが、基本的には同じ言葉が用いられて おります。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なり ますが、原文では同じ言葉なのです。  それが指し示している具体的な事柄は明らかです。信仰者の身に降りかか ってくる苦難です。当時のキリスト者にとっては、迫害ということが大きな 割合を占めていたに違いありません。しかし、ここに「いろいろな試練」と ありますように、苦難の内容は必ずしも迫害だけではありません。ある場合 は、教会の中に生じた混乱が苦しみの原因であったかもしれません。あるい は、パウロが経験したように、肉体に与えられた棘、すなわち病気が苦しみ の大きな原因となっていたかもしれません。いくつかの苦しみは互いに絡み 合っているものです。苦難の内容は必ずしも単純ではありません。  いずれにせよ、そのような苦しみは、確かに「誘惑」として働きます。人 間を神から引き離す力として働きます。人間を罪へと引きずり込む力として 働きます。人間を死へと導く力として働きます。苦難が人間に対して悪魔の 力として働くのです。  しかし、そのように苦難が悪魔の力として働く場面は、また同時に、そこ において私たちの信仰が試される場面でもあります。それは私たちの信仰の 内容が問われる場面であると言ってもよいでしょう。いったい誰を信じてい るのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。そのことが問わ れるのです。毎週の礼拝において信仰告白を唱和している私たちは、そのこ とによっていったい何をしているのか。信仰を言い表して洗礼を受けたこと、 信仰を言い表して聖餐に与っていること、それはいったい何を意味している のか。――そのように、私たちは確かに具体的な苦難の中で、悪魔の力が神 から私たちを引き離そうと働く中で、信仰が試され、普段私たちが信仰と呼 んでいるものの内容を問われるのです。  そこでヤコブの手紙は次のように私たちに語りかけます。「わたしの兄弟 たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤ コブ1・2)と。もし、苦難が誘惑でしかないならば、悪魔の力としての意 味しか持たないならば、どう考えてもそれは喜びにはなりません。しかし、 そうではないのです。既に述べたように、私たちが経験するのは、単なる誘 惑以上のことなのです。  信仰が問われること、試されることは、それ自体悪ではありません。それ はむしろ時として必要なことです。もちろん、それは神にとって必要なので はありません。私たちの信仰を知るために、わざわざ神が人間にテストを課 す必要はありません。それは神にとって必要なのではなく、人間にとって必 要なのです。それは良きものが私たちの内に生じるためです。その良きもの とは何でしょうか。聖書はそれを「忍耐」と呼びます。「信仰が試されるこ とで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)と書かれている とおりです。  ここで言われている「忍耐」とは、人間の性質としての「我慢強さ」のこ とではありません。我慢強さということならば、生来我慢強い人もいれば、 私のようにちょっと痛いだけで大騒ぎをする者もおります。しかし、ヤコブ が語っているのは、そのような人間の性質のことではありません。彼がここ で「わたしの兄弟たち」と言って語りかけていることに注意してください。 彼は信仰における兄弟たちに語りかけているのです。ここで話題とされてい るのは、あくまでも信仰に関することです。この「忍耐」という言葉はもと もと「留まる」という言葉に由来します。それはあえて留まることのできる 力です。どこに留まるのでしょう。信仰に留まることです。  信仰に留まると言いましても、その信仰の内容が明瞭でないならば、留ま ることはできないでしょう。誰を信じているのか。何を信じているのか。ど のように信じているのか。漠然としているならば、留まることはできないで しょう。しかし、既に申しましたように、試練の中で、信じている私たちが 問われます。信仰の中身を問われるのです。ですから、私たちも自らに問わ ざるを得なくなります。もう一度自分の足場を見直さざるを得なくなります。 そして私たちは、既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見よ うと望むようになります。かすかに聞こえていたものをはっきりと聞き取ろ うとするようになります。目を凝らします。耳を澄ませます。するとより良 く見えてきます。より良く聞こえてきます。漠然としていたことがはっきり としてきます。信仰の内容と共に希望がはっきりと見えてくるのです。それ が試練の中で起こるのです。  こうして講壇に立って皆さんと共に礼拝をしていると良く分かります。試 練の中にある人の目の輝きが変わってくる。聖書を開く顔つきが変わってく る。礼拝をしている時の姿が変わってくる。そのようなことが起こります。 そのように、信仰が試される場は、信仰が確かにされる場ともなり得ます。 希望が確かにされる場ともなり得ます。そのようにして、人は信仰に留まる 力を与えられるのです。忍耐が与えられるのです。  そして、信仰に留まるということは、時として具体的な苦難の中にあえて 留まるということをも意味いたします。放棄しないことです。逃げ出さない ことです。神の御心がそこにあるならば、留まり続ける。それが忍耐です。 信仰が試されることで、そこに忍耐が生じるのです。  そして、ヤコブはさらにこのように言います。「あくまでも忍耐しなさい。 そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」 (4節)。「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせ なさい」という表現です。忍耐が働く時、それはさらに良きものをもたらす のです。しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところの ない人」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私 たちの努力目標であるならば、とうてい受け入れることはできないでしょう。 しかし、これはあくまでも信仰に留まるところにおける神の御業として語ら れているのです。ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そ こにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神 ご自身なのです。  この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパ ウロの言葉でしょう。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたし たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む ということを」(ローマ5・3‐4)。ちょうど、ヤコブが言っていること は、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て 純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように 神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。 私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるので す。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされて いくのです ●知恵を求めよ  しかし、そのように理解したとしても、「いろいろな試練に出会うときは、 この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの勧めは、やはり困難な勧めで あると言えるでしょう。こうして静かに礼拝の場に座っている時は良いけれ ど、いざ日常の生活の中に置かれる時、なかなか聖書の言葉と現実とが結び つかないということが起こってまいります。抽象的な概念ではなく、具体的 な「試練」については、とうてい「この上ない喜び」とは思えないものです。  しかし、そのような私たちであるからこそ、さらに次のように書かれてい るのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜 しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与 えられます」(5節)。ここでも語られているのは一般的な意味における 「知恵」ではありません。苦難に満ちた世を上手に渡っていくための処世の 知恵ではありません。そのような知恵ならば、何も神に求める必要はないで しょう。しかし、もし私たちが、単に苦難を回避するだけでなく、今直面し ている現実の中に神が与えてくださっている意味、神が持っておられる目的 を見い出して生きていこうとするならば、神から与えられる洞察力、神から の知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。  実際、私たちの日常には、「なぜ」と問わざるを得ないことは少なくあり ません。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜよりによってこの私に起 こったのか」。「なぜ私ばかりこんな目に遭うのか」。自分の周りを見回し ても、わけの分からないことがあまりに多いように思えます。しかし、考え てみてください。私たちが「なぜ?なぜ?」と口にしている時、必ずしも答 えを求めているとは限らないでしょう。「ああ、分からない、分からない」 と言っている時、私たちが本当に分かりたい、知りたい、と思っているとは 限らないでしょう。それはただ誰かに文句を言いたいだけ、ただ誰かに向か ってボヤきたいだけかもしれません。そうではありませんか。  もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りた いと思うなら、やはり私たちは宙に向かってボヤいたり、人に向かって問う ているだけではだめなのです。神に向かわなくてはならないのです。そして、 神に向かうとするならば、本気で向かうべきなのです。現実を理解するため の知恵を、本気で神に求めるべきなのです。疑ってなどいる場合ではありま せん。聖書は、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、 風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいた だけると思ってはなりません」(6‐7節)と語ります。そうです、疑って などいる場合ではありません。私たちは、神に求め、神から受けるのでなけ れば、結局は人の知恵、自分の知恵、自分の理解力をもって生きるしかない のですから。そして、自分の知恵をもって生きるなら、結局、一生「なぜ、 なぜ」を繰り返しながら生きるか、どこかで諦めて、問うことを終わりにす るしかないでしょう。  苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それ は自ずと信仰者の成長へと結びつくわけではありません。先にも申しました ように、それはまず第一に誘惑として働きます。悪魔の力として働くのです。 そのような誘惑に陥らないために必要なのは神からの知恵です。ですから、 ヤコブが言うように、私たちは、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお 与えくださる神に、願い求めるべきなのです。