「魂を救う御言葉」

                       ヤコブ1・19‐27

●聞くに早くありなさい

 「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くの
に早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(ヤコブ1・1
9)。

 なぜここに「怒り」の話が出てくるのでしょう。それは章の前半に試練と
誘惑について書かれているからです。具体的には信仰者に降りかかってくる
様々な苦難です。苦しみを受けると、人の心の中には怒りが湧き上がってま
いります。迫害の場合のように、苦しみの原因や苦しみをもたらす相手が明
確であり、しかもそれが不当な苦しみであるならばなおさらです。そして、
湧き上がってきた怒りはまず舌を動かし、言葉となって外に現れてきます。
「話すのに遅く」と言われているのは、何よりもまず怒りの言葉について語
られているのでしょう。

 しかし、どうも腑に落ちません。怒ることは悪いことなのでしょうか。怒
りを言葉にしてはいけないのでしょうか。ならば不当なことがまかり通って
いても、ただ黙認していれば良いのでしょうか。筋の通らぬことであっても、
容認していれば良いのでしょうか。それは相手のためになるのでしょうか。
世のためになるのでしょうか。

 これはなかなか難しい問題です。実際、不当なことや筋の通らぬことは実
に多いのです。最近私もいくつかのトラブルを経験しました。不当なことで
あれば当然腹が立ちます。「それでは筋が通らないでしょう!」とついつい
怒りをぶつけてしまいました。そうでなくても、ただでさえこの世には怒る
べきことがあまりに多いように思います。自分に関わることにせよ、他人に
関わることにせよ、腹の立つことはいくらでも耳に目に入ってまいります。
しかし、前々から今日の聖書箇所は決まっております。腹の立つことがあっ
た週でも、このような聖書箇所の説教準備をしなくてはなりません。まこと
に困りました。

 そこでついつい、「イエス様だって怒ったではありませんか」と言いたく
なります。確かに聖書にはこう書かれています。「イエスは縄で鞭を作り、
羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの
父の家を商売の家としてはならない』」(ヨハネ2・15‐16)。有名な
「宮清め」の箇所です。そのような聖書箇所を味方にしたくなります。皆さ
んならばどうですか。

 しかし、ヤコブの言葉はこのように続くのです。「人の怒りは神の義を実
現しないからです」(20節)。この御言葉の前で、私は立ち止まらざるを
得なくなりました。そもそも怒っている時に「自分は間違っている」と思い
ながら怒る人などいないのです。自分は正しいと思って怒っているのです。
しかし、「では今のあなたの怒りはこの世に神の正しさを実現する怒りなの
か」と問われるならば、私は答えに窮してしまいます。実際、苛立ちながら
電話の受け答えをしている私の姿は、とてもこの世に神の義を実現しようと
している姿ではありませんでした。

 もちろん、これは私の場合です。しかし、皆さんも同じだと思うのです。
「怒ることは正しいことだ」と言っても良いと思います。もし「私の怒りは
神の義を実現する怒りである」と胸を張って言えるなら、それで良いと思う
のです。「イエス様だって怒ったではないか」と言っても良いと思います。
もし「私の怒りはあのイエス様の怒りと同質の怒りである」と胸を張って言
えるならば、それで良いと思うのです。しかし、もしそう言えないのである
ならば、自分の怒りの正当性を主張し続けるのではなくて、聖書の語るこの
言葉に素直に耳を傾けるべきなのでしょう。聖書はこう言っているのです。
「だれでも、聞くに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」
と。私はこの御言葉の前に頭を垂れざるを得ませんでした。

 確かに悪が支配し、不当なことが横行しているこの世にあって、私たちが
為すべきことはあるだろうと思います。しかし、私たちの心が怒りに満たさ
れている時、私たちに本当に為すべきことが見えているのでしょうか。見え
ていないだろうと思うのです。ですから本当に為すべきことが行えないので
す。そこで「聞くに早くありなさい」という勧めは重要な意味を持ってまい
ります。語る前によく聞かなくてはならないのです。この後に書かれている
ことを読みますと、何よりもここでは「神の言葉を聞くこと」について語っ
ているようにも思われます。私たちはまず、神に聞くことに早くなければな
らないのです。怒りが私たちの心を支配しようとしている時、怒りが私たち
の舌を支配しようとしている時、私たちはまず、そんな私たち自身に対する
神の言葉に耳を傾けなくてはならないのです。

 そのように私たちが神の言葉に耳を傾ける時、しばしば見えてくることが
あります。まず取り除かれなくてはならないのは、誰か他の人の悪ではなく、
私自身の内にある悪なのだ、という事実です。ですから、ヤコブは怒るに早
い私たちに対して「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て
去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」と言うのです。この
「あふれるほどの悪」は、他の人の悪ではありません。怒っている人自身の
中にある「あふれるほどの悪」のことです。その悪をまず処理しなくてはな
らないのです。

 そして、御言葉を受け入れなくてはなりません。「この御言葉は、あなた
がたの魂を救うことができます」とヤコブは言います。先週申し上げました
ように、この世の苦難はまず誘惑として働きます。人を神から引き離す力と
して働きます。人が怒りに満たされている時、そのことにおいて知らず知ら
ずの内に神から引き離されているということが起こってまいります。自分が
正義を振りかざしている時、知らず知らずの内に滅びに向かっているのかも
しれません。怒りが悪魔によって利用される時、それは怒っている人自身を
滅ぼすものとなるのです。そのような現実から魂を救うのは神の言葉です。
神の言葉には魂を救う力があるのです。ですから、「聞くに早く」あるべき
なのです。


●御言葉を行う人になりなさい

 しかし、聞くだけであってはなりません。ヤコブはさらに言います。「御
言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になっては
いけません」(22節)。

 このことをわざわざヤコブが書いているのはなぜでしょう。実は彼が「行
い」について書いているのはここだけでなく、後に多くの言葉を費やしてこ
のテーマを展開しているのです。なぜでしょうか。それは明らかに「聞くだ
けで終わる者」がいたからです。すなわち、「行い」ということを過度に軽
視する人々がいたからなのです。

 2章24節を御覧ください。「これであなたがたも分かるように、人は行
いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と書
かれております。この言葉を読んで、もう一つの聖書の言葉を思い出しませ
んか。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」
(ローマ3・28)というパウロの言葉です。ヤコブがパウロの言葉を意識
して書いていることは明らかです。と言うよりも、正確には《パウロの言葉
の誤用を意識して》と言うべきかもしれません。

 確かに、人が義とされ救われるのは「信仰による」のです。救いは私たち
の行いに対する報酬ではありません。「恵みにより、信仰によって」(エフ
ェソ2・8)人は救われるのです。私たちの信仰告白においても、「神は…
ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義とし給う」と言い表
しているとおりです。ですから、その理解は正しいのです。

 しかし、容易に予想できますように、「信仰による」という言葉は、受け
取られ方によっては、「行い」を軽視する人々をも生み出すのです。事実、
生み出したのです。しかし、それは明らかにパウロの意図に反することでし
た。ですから、そのようなパウロの言葉の誤解に対して、ヤコブは「信仰と
行いは分離できないのだ。行いを伴わない信仰は死んだものなのだ」と語ら
ざるを得なかったのです。

 残念ながら、そのように信仰と行いを分離し、行いを軽視する人々によっ
て、教会はただ「聞くだけ」の場所とされてしまいました。その結果、教会
の中にまことに悲しむべきことが起こっていたことを私たちはこの手紙に読
みとることができます。

 もっとも、もし礼拝において、真に神の言葉が語られ、聞かれているなら
ば、神への従順への促しが必ず人の心の内に起こっていたはずです。神に逆
らっている現実があるならば、そのことは神の言葉が語られるところにおい
て、少なくとも聞いている本人には明らかにされているはずなのです。しか
し、そのように従順へと促されている自分を、もう一人の自分が説得しにか
かります。一生懸命に欺いて、従わせまいとするのです。「人間は皆罪人な
のだから」「いずれにせよキリストの十字架のゆえに罪は赦されるのだから
」「人は行いによって義とされるのではないのだから」などなど、自分を欺
くための言葉には事欠きません。そのような現実があるからこそ、ヤコブは
言っているのです。「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけま
せん」と。

 そうです、自分を欺いてはならないのです。なぜなら私たちは、本当は知
っているからです。キリストが十字架の上で苦しまれたのは、血を流された
のは、罪を贖ってくださったのは、父なる神に執り成してくださったのは、
私たちが罪の中に留まるためでないことぐらい、本当は分かっているはずな
のです。聞くだけで終わってはならないことぐらい、分かっているはずなの
です。そうではありませんか。ならばその自分を欺いてはならないのです。

 「御言葉を行う人になりなさい」。そのように語るヤコブの心にあったの
は、良く知られていた次のような主イエスの言葉であろうと思われます。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を
建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っ
ても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言
葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒
れ方がひどかった」(マタイ7・24‐27)。

 キリストの御言葉を聞き、その御言葉に聞き従うという生命的な要素を欠
いた信仰生活は、それがどんなに立派に見えても、敬虔そうに見えても、熱
心に見えても、それは砂の上に建てた家なのであって、最終的には嵐に耐え
得ないことを、主は良くご存じだったのでしょう。主は私たちが倒れること
をお望みになられません。私たちの教会が、そこにおける私たちの信仰生活
が、岩の上に建てられた家であることを望んでおられるのです。「御言葉を
行う人になりなさい」。