「主が来られるときまで」
2004年10月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヤコブ5・1‐11
●終わりの時に向かって
今日の聖書箇所は「富んでいる人たち、よく聞きなさい」という言葉で始 まります。そして、富んでいる人に対する、非常に厳しい糾弾とも告発とも 言える言葉が続きます。「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、 金銀もさびてしまいます」(2‐3節)。そこで問題とされているのは、富 を欲にまかせてひたすら蓄え、決して他者のために用いようとはしなかった エゴイズムです。さらにヤコブは言います。「御覧なさい。畑を刈り入れた 労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声を上げています」(4 節)。そこで問題とされているのは、彼らが富を蓄えるために取った不正な 手段です。さらに彼らは、「正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あ なたに抵抗していません」(6節)とまで言われています。そこで問題とさ れているのは、富める者の力によって曲げられた裁きです。
さて、このような箇所を読みますと、当然問題になりますのは、これらの 言葉の矛先に私たちも立たされているのか、ということです。「私はいつも 金欠状態である。だからここで問題とされている『富んでいる人たち』には 当たらない」と考える人もいるでしょう。一方、「この《金持ちニッポン》 に住んでいる限り、この言葉は私たちすべてに当てはまるのだ」という議論 も成り立つでしょう。この世界の中にあって、日本に住む私たちは、富を蓄 えるだけのエゴイストであり、富む者となるための不正な手段の片棒を担い でいる者であり、弱い人々を抑圧し、正しい裁きを曲げてしまっているのだ、 ということも確かに言えるに違いありません。そして、そのような私たち自 身のあり方を真実に省みなくてはなりませんし、具体的にどのように生きた ら良いのかを真剣に考えることはとても大事なことです。
しかし、私たちはここでヤコブが、ただ「富んでいる人たち、よく聞きな さい。お前たちがしていることは悪いことだから改めなさい」と言っている のではないことに注意しなくてはなりません。彼らは「悪い」のではなくて 「不幸だ」と言われているのです。彼らに泣きわめかなくてはならないほど の不幸が降りかかってくるのだ、と言われているのです。ですから、この箇 所で重要なことは、彼らに降りかかってくる不幸とは何なのか、ということ です。ここで語られているのは、単なる悪の告発ではないのです。なぜ悪が 《悪を行う本人にとって》不幸をもたらすのか、ということなのです。
そこで私たちが決して読み過ごしてならないのは3節の後半です。「あな たがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」(3節後半)。来 るべき未来が既に実現してしまったように書いているのは、それが確実に実 現することを表現するためです。そのように聖書は確実にやってくる「終わ りの時」について語っているのです。そして、聖書が「終わりの時」につい て語っているのは、ここだけではありません。聖書は繰り返し「終わりの時 」について語っているのです。
「終わりの時」があるということは、なんらかの結論が出る時が来るとい うことす。肯定的にせよ否定的にせよ、最終的にはある決定的な判断が下さ れるということです。私たちの人生にも、この世界にも、最終的な判断が下 される時が来るのです。その判断を下すのは誰か。人間ではありません。こ の世界は人間のものではないからです。最終的に判断を下すのは人間ではな く神です。神が裁き給う時が来るのです。人間も世界も、そのような終わり に向かって存在しているのです。
確かに個々の人生に結論が出る「終わりの時」があるということは理解し やすいかもしれません。なぜなら、人間は必ず死ぬからです。「死」という 「終わり」は、誕生から死までの人生全体を総括します。そこで何らかの結 論が出ます。そこで私たちの関心は、その人がどのように死んだかに向かう かもしれません。安らかに死んだか、苦しみながら死んだか。床の上で死ん だか、事故で死んだか。満足して死んだか、心残りのまま死んだか。人間が 判断を下すならば、そのような違いは決定的な意味を持つに違いありません。 しかし、人間の一生について最終的な判断を下すのは神なのです。ならば、 語弊があるかもしれませんが、どのように死んだかは、本当はさほど重要な ことではないのです。そうではなくて、決定的に重要なことは、その人が神 との関わりにおいてどう生きたか、神の御前でどのように生きたか、という ことなのです。
そのように、個々の人間も、この世界全体も、神が裁き給う終わりの時に 向かって存在しているからこそ、例えばここに書かれているような、富んで いる人々のあり方が問題となるのです。エゴイズムや不正が問題となるので す。ヤコブがこの問題を取り上げているのは、単に富んでいる人々がしてい ることが人道的に問題だからではないのです。そうではなくて、神の前にお いて問題だからです。なぜなら、この世界は最終的にカネと力がモノを言う 世界ではないからです。この世界は神がモノを言う世界、神が最後の言葉を 持っておられる世界なのです。
ですから、その意味において、ここに書かれていることは、私たちすべて の者に関わっていると言えるでしょう。裕福であるか否かにかかわらず、私 たちに語りかけられている言葉なのです。なぜなら、私たちもまた、同じよ うに終わりの時に向かって存在しているからです。しかし、私たちは「終わ りの時」を5節にあるように「屠られる日」としてのみ見る必要はありませ ん。7節以下において、ヤコブは全く異なるイメージを用いてこの「終わり の時」について語っているのです。
●主が来られるときまで
7節を御覧ください。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」 (7節)と書かれております。実は、訳出されておりませんが、ここには 「それゆえに」という言葉があります。話はその前と繋がっているのです。 5節にあるように、「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる 日に備え、自分の心を太らせ」ているだけであるならば、「終わりの時」は まさに恐るべき時であるに違いありません。しかし、教会はキリストを通し て、それとは全く異なるイメージを与えられているのです。聖書はそれを 「主が来られるとき」(7節)と表現します。私たちが週ごとに告白してい る使徒信条においては、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁 きたまわん」と言い表されています。そのように、キリストがこの世界を裁 くために来られるのです。「終わりの時」は神の裁きの時であると申しまし た。その裁きはまことの王としてキリストが到来されることにおいて実現す るのです。
「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」。生きて いる者も死んだ者も逃れることのできない裁きについて語るこの言葉は、恐 るべき言葉でしょうか。確かに、私たちはこの言葉の前で畏れを抱かねばな りません。しかし、そのような「主が来られるとき」について語るこの聖書 箇所に、まったく悲壮感がただよっていないのはなぜでしょう。むしろ明る い希望が満ちているのはなぜでしょうか。それは生ける者と死ねる者とを裁 き給うキリストは、まったく知らないお方ではないからです。否、むしろそ のお方を既に知っているということが、キリスト教信仰の本質だからです。
教会がこれを「キリストの再臨」と呼び慣わしてきたことは極めて正しい ことです。そのお方はかつて来られたお方に他ならないのです。そのお方は、 私たちのために肉を取ってこの地上を歩まれたお方です。そのお方は私たち を愛し、私たちのために苦しみを受けられ、私たちのために十字架にかから れ、私たちの罪が赦されるために血を流してくださったお方です。そのお方 は私たちが義とされるために復活され、天に上げられたたお方です。そのお 方は教会の頭(かしら)として、聖霊において、御言葉を通して、今も私た ちと共にいてくださり、私たちを治めてくださっているお方です。私たちは、 こうして御赦しに与った者として、共に礼拝を捧げ、そのお方に心からの感 謝の讃美を捧げているのです。
そのお方が来られるのです。再び来られるのです。「終わりの時」は私た ちにとって、そのような「主が来られるとき」に他なりません。ですから、 その終わりの時に向かうということは、《好きなだけ食べて肥え太った牛が 屠られる時を待つこと》に例えられるのではなくて、《農夫が忍耐強く大地 の尊い実りを待つこと》に例えられるのです。
私たちが経験的に知っているように、信仰は必ずしも労苦や苦難の免除を 意味しません。むしろ信仰をもって神と共に、また人と共に真実に歩もうと するならば、それゆえの労苦や苦難を引き受けなくてはならないかもしれま せん。そして、そのような労苦や苦難が必ずしもすぐに報いられるわけでは ありません。死ぬまで報いられないこともあるでしょう。死んだ後でさえ、 感謝の言葉一つかけられないかもしれません。しかし、「忍耐しなさい」と 聖書は言うのです。この「忍耐」という言葉は1章に出てきた言葉とは異な って、「気を長く持つ」という意味の言葉です。農夫は大地を耕す労苦がす ぐに報いられないことを気にしません。なぜなら、最終的には実りの時が来 ることを知っているからです。だから気長に待つのです。同じように、主が 再び来たり給うことを知る者は、苦しみに報いが伴わないことを気にしなく て良いのです。
その「主が来られる時」は、ヤコブが書いているように「迫っている」の かもしれません。あるいは、そう書かれてから既に二千年近くが経ってしま ったように、まだ先のことなのかもしれません。しかし、それは大して重要 なことではありません。いずれにせよ、私たちの人生は主の御前にあるので す。それはあたかも私たちがいる家の戸口に主が立っておられるようなもの です。「主が来られるときまで忍耐しなさい」――その具体的な実践は、互 いに不平を言わないことであるとヤコブは言います。不平を言い合っている 時、私たちは戸口に主が立っておられることを思い描かなくてはなりません。 不平を言い合っている姿もまた、主の御前にあることを忘れてはならないの です。
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨ ブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知ってい ます。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(11節)。主が苦 しんだヨブに対してどのようにしてくださったか――それはただ単に繁栄を 回復してくださっただけではありません。何よりも大いなることは、ヨブが 最終的に、「あなたのことを、耳にはしてはおりました。しかし今、この目 であなたを仰ぎ見ます」と言い得る者とされたということです。私たちもや がて「慈しみ深く、憐れみに満ちた方」である主に顔と顔とを合わせてまみ える時が来るでしょう。そのときには、「はっきり知られているようにはっ きり知ることになる」(1コリント13・12)でしょう。それこそが、私 たちに約束されている、何よりも大きな報いなのであります。