「新しく生まれる」

                         1ペトロ1・3‐5

 今日共にお読みしましたのはペトロの手紙です。冒頭にありますように、
これはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある
諸教会に宛てられた回覧状です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練
に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者
は様々な苦しみの中にあったことが分かります。具体的には迫害の苦しみの
中にあったということでしょう。彼らは、キリスト者であるというだけで、
非難や中傷、不当な扱いを耐え忍ばねばなりませんでした。そのような人々
を励まし、適切な指示を与えるために、この手紙は書かれたのです。特に1
章3節から4章11節までは、洗礼式における説教をもとにして書かれたの
ではないかとも言われます。もしそうでありますならば、3節以下の言葉は、
既に洗礼を受けている者たちだけでなく、試練を受けることを覚悟の上で、
あえてこれから洗礼を受けてキリスト者となろうという人々にも宛てられた
言葉であると言えるでしょう。

 さて、そのような教会の人々に対して、ペトロはまず何を語ろうとしてい
るのでしょうか。彼は挨拶に続けて、次のように書き始めるのです。「わた
したちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」
(3節)。挨拶の後に神への讃美が書かれるのは、当時の一般的な書簡の形
式です。しかし、これが苦しみの中にある教会に宛てて書かれていることを
考える時、やはりこの最初の言葉を単なる形式的な言葉として読むことはで
きません。ペトロは、彼らが受けている試練について語り出す前に、まず神
の御業について語っているのです。「人々があなたに与えた苦しみにではな
く、神があなたに何をしてくださったか――まずそのことに目を向けようで
はないか。そして共に神をほめたたえようではないか!」あたかも、そのよ
うに語りかけているかのようです。


●新しく生まれる

 では、その《神がしてくださったこと》とは何でしょう。ペトロがここで
中心的な事柄として語っているのは、次の一事です。「神は豊かな憐れみに
より、わたしたちを新たに生まれさせてくださった!」(3節)。

 人間が新たに生まれるとはどういうことでしょうか。人は人生の途上にお
いて幾度か「新しくなりたい。生まれ変わりたい」と願うものです。そして、
様々な決意のもとに、新しい生活へと踏み出します。しかし、やがて自分自
身の本質は何も変わっていないことに気づきます。人は生活環境を変えるこ
とはできるかもしれません。生活習慣を変えることは困難ではありますが不
可能ではありません。しかし、人が根本的に新しくなるのは、そのようなこ
とによってではなく、神との関係が変わることによってなのです。神との関
係が新しくなるところから、本当の意味で新しい人生は始まるのです。

 そして、神との新しい関係は、人間の決意や努力によって築かれるのでは
ありません。赤ん坊が自分の努力で生まれてくるのではないように、私たち
が新しく生まれるのは神によるのです。ここに書かれているように、神の
「憐れみ」によるのです。

 なぜ「憐れみ」によるのか。そのことを理解するために、もう一箇所聖書
をお読みしたいと思います。エフェソの信徒への手紙2章4節以下を御覧く
ださい。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくだ
さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に
生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イ
エスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エ
フェソ2・4‐6)。

 私たちは「罪のために死んでいた」というのです。確かに肉体的には生き
ていたかもしれません。元気であったかもしれません。しかし、神に背を向
けて生きている時、人は神との関係においては死んでいるのです。そのよう
な人と神との関係を変えることは、人間の側からは為しえません。ただ神が
人間の罪を赦してくださることによってのみ、その関係は変えられるのです。
ですから、それは神の憐れみによるのです。

 事実、憐れみに満ちた神によって、その関係が決定的に変えられたのだ、
とパウロは言います。神が私たちを愛し、神が私たちにキリストを与え、神
が私たちの罪を赦し、神が私たちを御自身との関係の中に回復してください
ました。そのことを、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に
生かし、…キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせ
てくださいました」と表現しているのです。そして、「あなたがたの救われ
たのは恵みによるのです」と念を押すように語っているのです。


●生き生きとした希望

 そのように、神の憐れみによって「新たに生まれさせ」られるということ
は、罪によって死んでいた者が神の赦しに与り、神との関係において新しい
命に生かされるということです。そして、そのことに伴う二つのことについ
て、ペトロはさらに語ります。

 第一に、それは「生き生きとした希望」が与えられることであるとペトロ
は言います。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、
死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与
え」(3節)と書かれているのです。

 「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。
味わい深い表現です。わざわざ「生きている希望」と書かれていることは、
もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということで
しょう。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方に
は命があり、もう一方には命がありません。希望にも命のある希望と命のな
い希望があるようです。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消え
ていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいく
らでもあります。いや、もし人が死をもって終わる人生しか知らなければ、
滅びをもって終わる世界しか知らなければ、あらゆる希望は結局枯れてしま
う希望であると言わざるを得ないでしょう。それは「死んだ希望」でしかな
いのです。

 真の希望、「生きている希望」ならば、死と滅びを突き抜けていくもので
なくてはなりません。そして、そのような希望は、ただ神との関係が新たに
され、生きたものとされることによって与えられるのです。なぜなら、神だ
けが永遠なるお方だからです。神は死に支配されてはいないからです。です
から、死をも支配し給う神との新しい関係が与えられる時、人は生きた希望
をも与えられるのです。この生きた希望を神は既にイエス・キリストの復活
を通して現してくださいました。キリストの十字架は、死をもって消えてし
まうあらゆる希望の終わりでありました。しかし、キリストの復活は、死を
もっては終わらない、まことの希望の始まりでありました。私たちは今や、
その希望の中に産み出された者として、その希望の中に生かされているので
す。


●神の国の相続者

 そして第二に、新たに生まれるということは、「朽ちず、汚れず、しぼま
ない財産を受け継ぐ者」とされることだとペトロは言います。

 この世において相続する財産については、多くの人々が多大の関心を払い
ます。しかし、それらは相続したとしても、本当の意味では私たちの「所有
」とはなりません。この世に属するものは本質的に私たちの所有とはならな
いのです。いかなるものも私たちの意に反して失われ得るという事実がその
ことを証明しています。それは一時的に託されているに過ぎません。仮にそ
の人生の途上で財産を失うことがなかったとしても、最終的には死によって
私たちはすべての持ち物から確実に引き離されるのです。

 いや、あえて言うならば、本来私たちに属するものがないわけではありま
せん。それは私たちの罪の負債です。それは消えることもなければ過ぎ去る
こともありません。私たちの記憶から消えたとしても罪の事実は消えません。
ですから、いわば私たちは借用証書だけを持っているようなものです。私た
ちの罪を主イエスは一万タラントンの借金に例えました(マタイ18・24)。

一万タラントンと言えば六千万日分の日当に相当しますから、とても返済で
きる額ではありません。

 しかし、神はそのような私たちの罪を赦してくださいました。もはや罪の
借金を背負った者ではありません。しかも、私たちは全く新しい存在として
永遠なるお方との新しい関係の中に産み出され、神の子供として神の国の祝
福を相続する者とされたのです。私たちの目はまだそれを見てはいません。
私たちは朽ちたり汚れたりしぼんだりするものしか知りませんから、私たち
が何を受け継ぐのかについては、思い描くことさえできません。しかし、そ
れは確かに備えられているのです。それは「天に蓄えられている」のです。
天に蓄えられているのですから、地上の者は指一本触れることができません。
それは決して奪われることはなく、失われることもありません。確実に守ら
れているのです。

 いや与えられるべきものが守られているだけではありません。「あなたが
たは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神
の力により、信仰によって守られています」(5節)とペトロは言うのです。

 私たちのために用意されている完全なる救いにあずかるのは、あくまでも
終わりの時においてです。それまでは「いろいろな試練に悩まねばならない
かもしれません」(6節)。私たちは嵐に翻弄されながら港へと向かってい
る一艘の船のようなものです。もう沈んでしまうのではないかと思えること
が幾たびもあることでしょう。しかし、神は「港で待っているから頑張って
たどり着きなさい」と言っておられるのではないのです。そうではなくて、
神御自身がその旅路に伴い、御力をもって守ってくださるのです。そのよう
に、私たちが新たに生まれることも神の憐れみによるならば、私たちが完全
な救いにあずかるのも、ただ神の憐れみによるのです。私たちに求められて
いること、そして私たちの為しえることは、ただ信じることだけです。最後
まで神に信頼することです。


 さて、このようにペトロは、試練の中にある信仰者に対して、まず神の為
してくださったことについて書き始めました。私たちは、神の御業に目を留
めつつ、ここから再び歩み出したいと思います。私たちはもはや苦しみに支
配されて、つぶやきながら生きていく必要はありません。神の御業に目を向
けるならば、ペトロと共に主をほめたたえて生きていくことができるはずな
のです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえら
れますように!」