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「悪をもって悪に報いてはならない」

2004年10月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ペトロ3・8‐9

●召されたのは祝福を受け継ぐため

 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝 福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1 ペトロ3・9)。

 試練の中にあるキリスト者に対して、ペトロは、「あなたがたは召された のです」と繰り返し語りかけます。召してくださったのは神さまです。なら ば苦しみは永遠ではないはずです。今は苦しみの中にあったとしても、それ 自体が最終的な目的ではありません。では何のために召されたのか。「祝福 を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」とペトロは言うのです。

 「祝福を受け継ぐために召された」ということで、どうしても思い起こさ ねばならない人物がおります。私たちの信仰の父であるアブラハムです。神 はアブラハムを召してこう言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を 離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、 あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創世記1 2・1‐2)。神はアブラハムを「祝福する」と言われました。しかし、そ れだけではありません。この世界の中にあってアブラハムが祝福そのものと なるのです。「祝福の源」という意訳はそのことを表現しています。

 「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」――それはただ 「祝福を受ける」ことだけを意味するのではありません。私たちが祝福その ものとなることをも含んでいるのです。祝福の源となるために私たちは召さ れたのです。それは試練の中にある今この時から既に始まっています。それ ゆえに、その前には「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりま せん。かえって祝福を祈りなさい」と書かれているのです。

 「悪をもって悪に報いてはならない」ということについては、パウロもま たローマの信徒への手紙の中で書いています。「だれに対しても悪に悪を返 さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12・17)。

また、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(同21節)と も書かれています。このような言葉は既に広く教会において共有されていた ことが分かります。

 もちろん、その源流はキリスト御自身の言葉にまで遡ります。主イエスは 言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯 を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かっては ならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」 (マタイ5・38‐39)。また、主はこうも言われました。「あなたがた も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、 わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」 (同43‐44節)。

 これらはたいへん良く知られた言葉です。しかし、この主イエスの言葉に まで遡りますと、かなり過激な言葉でありますので、受け入れることも容易 ではなくなります。「悪をもって悪に報いてはならない」という言葉につい ては、「なるほどその通りである」と思える人でありましても、「悪人に手 向かってはならない。右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」とまで 言われますと、抵抗を覚えるのではないでしょうか。「そんな事を言ってい て世の中が成り立つわけがない!」という言葉が聞こえてきそうです。しか し、少なくとも私たちはそこで、「悪人」にではなく、「悪」に打ち勝つと はどういうことなのかを考えざるを得なくなることだけは確かです。そして、 それが重要なのです。

 神の祝福に対立するのは人間の悪です。神の祝福がもたらされるためには 人間の悪が取り除かれねばなりません。では人間の悪が取り除かれるのは、 悪を行う者が滅ぼされ、取り除かれることによってなのでしょうか。いいえ、 そうではないのです。悪が取り除かれるのは、人間の悔い改めにおいてなの です。人間が悔い改め、神に立ち帰るところにおいて、人間の悪は取り除か れるのです。では悔い改めは何によって起こるのでしょう。明らかなことは、 悔い改めは悪をもって悪に報いるところにおいては起こらない、ということ です。暴力によっては起こらない。侮辱に対して侮辱をもって報いるところ に、決して悔い改めは起こらないのです。悔い改めは人間が愛に触れるとこ ろにおいて起こるのです。

 もし、悪人を滅ぼすことが悪を取り除くことであり、それが悪に対する勝 利であるならば、神は御子をこの世界に送ることはなさらなかったでしょう。 御子を十字架にかける必要もなかったのです。神は悪に満ちたこの世界を一 瞬にして滅ぼすことがおできになるからです。しかし、神はあえて御子をこ の世界に送られました。そして、御子を通して、まさに「右の頬を打たれた ら左の頬を向ける」ようなことをされたのです。御子を人間に引き渡して十 字架にかけさせられたとは、そういうことです。そのキリストを通して神の 愛は現されました。その愛こそが人を悔い改めに導き、神へと導くのです。 それゆえにペトロもこう書いているのです。「キリストも、罪のためにただ 一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたの です。あなたがたを神のもとへ導くためです」(1ペトロ3・18)。

 私たちもそのように悔い改めへと導かれ、神のもとへと導かれたのでした。 そのようにして、私たちに対する神の召しは実現したのです。そのようにし て私たちは召され、祝福を受け継ぐ者とされたのです。ならば私たちが祝福 となり、祝福の源となるにおいても、私たちは神の方法に倣わなくてはなり ません。悪をもって悪に報いることは、悪に勝利し悪を取り除くことにはな りません。パウロは言いました。「善をもって悪に勝ちなさい」と。そして、 ペトロも言っています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはな りません。かえって祝福を祈りなさい」。

●祝福を受け継ぐ家族

 しかし、今日はもう一つのことを心に留めたいと思います。その直前には 次のように書かれているのです。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、 兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」(8節)。

 「終わりに」と言いながら、まだ論述は5章まで続きます。当初これが5 章まで続くような手紙となることを想定していたのか、また、そもそもこれ は初めから一つの手紙であったのか、これはなかなか難しい問題です。しか し、少なくともここを書いている時、ペトロはそれまでの論述を締めくくる 意味で、どうしても伝えたい大事なことを書こうとしていたのでしょう。迫 害の中にある教会、試練の中にある教会への締めくくりとしての勧めはいか なる言葉で書き始められているかと言うと、「皆心を一つに、、同情し合い、 兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」であったのです。

 迫害のように、具体的に悪をもって臨む人々、侮辱をもって関わってくる 人々がいる場合、その人々にどう対応するかは、第一に重要なことに思える ではありませんか。しかし、ペトロはその前に、お互いにどうあるべきかに ついて書いているのです。より広い言い方をするならば、この世に対してど う関わるべきかを語る前に、まずキリスト者が互いにどうあるべきかを語っ ているのです。すなわち、教会がしっかりと形作られなくてはならないこと を書いているのです。まず教会のあり方、次にこの世に対するあり方――こ の順番は重要です。この世における苦難のことで頭が一杯になって、教会に おける互いの関係のことが二の次になってしまう、ということではいけませ ん。むしろ試練の中にある時にこそ、教会における交わりが重要になってく るのです。実際、主を信じる者同志の関係が正しくないままで、どうしてこ の世に正しく関わることができるでしょうか。できないではありませんか。

 ここでは互いのあるべき関係が五つの言葉をもって語られております。そ して、日本語では分かりにくいのですが、最初と最後が対応する形となって おり、三番目の「兄弟を愛しなさい」という勧めが中心に来るようになって います。

 「皆心を一つにしなさい」とペトロは言います。その勧めは「謙虚になり なさい」という勧めとセットです。心を一つにできないのは、背景の異なる 多様な人々が集まっているからではありません。互いに謙ることができない からです。高ぶりは共同体を破壊します。謙りの心は共同体を建て上げます。 パウロもまた、フィリピの信徒への手紙の中でこう言っています。「そこで、 あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による 交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を 抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自 分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも 注意を払いなさい」(フィリピ2・1‐4)。

 そしてその内側に、「同情し合いなさい」という勧めと「憐れみ深くあり なさい」という勧めが対応するように置かれています。これはちょうど、パ ウロが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・5) と言っていることに当たります。ここで語られているのは、主に人間の感情 に関わる事柄です。共感すること、そしてそこには共に苦しむことさえ含ま れます。

 迫害のますます厳しくなっていく時代にあっては、教会がその嵐に耐えら れるような、揺るがない堅固な共同体として形作られるということは極めて 重要なことだったに違いありません。しかし、ペトロがそこで思い描いてい るのは、整然と秩序立っているけれども人間の情が入り込むスキがまったく ないような、全体主義国家のような共同体ではありません。心が一つになっ ているというのは、皆が版を押したような同じ笑顔を持っている、というよ うなことではないのです。そこには生きた感情を持った人間が共感しながら 存在しているのです。ですから、そのような互いを結ぶものは「兄弟愛」と して表現されるのです。「兄弟愛を持ち(なさい)」(8節、口語訳聖書)。 そこにイメージされているのは家族です。同じ神を「アッバ、父よ」と呼ぶ 家族です。

 そのように、祝福を受け継ぐ家族としての関係を築き、その中にしっかり と身を置いてこそ、始めてこの世においても祝福の源として生きることがで きるのでしょう。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりませ ん。かえって祝福を祈りなさい」というその後に書かれている言葉は、一般 的な倫理道徳や処世術の言葉ではありません。祝福を受け継ぐ家族の交わり の中に生きる者であってこそ、はじめて真に受けとめることができる勧めの 言葉なのです。

 
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