「万物の終わりが迫っています」
2004年11月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ペトロ4・7‐11
本日は聖徒の日です。こうして既に召された方々を記念して礼拝を捧げて いますと、否応なしに私たち自身の人生の終わりについても考えさせられま す。しかし聖書は、人生の終わりだけでなく、万物にも終わりがあるのだ、 と教えております。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふる まい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)。ですから、私たちはこの礼 拝において、自らの人生の終わりだけでなく、万物の終わりについても考え たいと思うのです。
●万物の終わりが迫っています
ところで、「万物の終わり」と書かれておりますが、その「終わり」が単 なる「終わり」でしかないならば、ここで「万物の終わり」について考える ことに何の意味もありません。「終わり」について何を考えようが、何を語 ろうが、どうせ「終わる」のですから。「終わり」というものは「終わり」 についての思考さえも無意味にするのです。
しかし、聖書は「万物の終わりが迫っています。だから…」と言って話を 続けます。それは「終わり」が単なる「終わり」ではないことを意味してい ます。「終わり」は同時に新しい「始まり」でもあります。今の世の終わり は来るべき世の始まりでもあるのです。ですから他の箇所においては、「万 物の終わり」ではなくて「万物が新しくなるその時」(使徒3・21)と表 現されております。
「終わり」が「始まり」でもあるならば、「終わり」について考え、語る ことには大いに意味があります。終わりがどうであるかによって、新しい始 まりのあり方が決定されるからです。古い世界を総括し終わりをもたらされ るのは神です。ならば、その終わりにおいて重要なことは、神との関係です。 神と共にあるならば、神と共にある者として終わりを迎えます。神に逆らっ ているならば、神に逆らっている者として終わりを迎えます。これを別な言 葉で表現するならば、「神の審判」と言い表すことができます。新しい始ま りは裁きの向こう側にあります。ならば「終わり」について考えることより ももっと重要なことは、「終わり」に向かう者としてどう生きるのか、とい うことです。そこで聖書はこう教えているのです。「だから、思慮深くふる まい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)と。
「身を慎んで」と訳されているのは、醒めていること、冷静であることを 意味する言葉です。その反対は陶酔であり熱狂です。終わりについて考える。 終わりについて語る。そのような終末思想と結びつきやすいのは宗教的な熱 狂です。実際、聖書の時代から今日に至るまで、いつの時代でも「終わりが 近い」と言って熱狂し、異常な行動を取る人々、あるいは刹那的な生き方を 選ぶ人は跡を絶ちません。
確かにペトロは終わりの時について考えています。私たちもまた、このま ま古い世界が永続するかのように考えてはなりません。不義が放置されたま まで、罪が支配したままで、そして神が侮られたままで、そのままこの世界 が続くと考えてはなりません。しかし、そこで大事なことは冷静になること なのです。祈りは陶酔や熱狂と結びついてはならないのです。そして祈りを 伴った真に思慮深い行動が必要とされているのです。
●愛し合いなさい
ペトロはそこで具体的に三つの事柄を挙げております。その第一は、「何 よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」ということです。原文においてこ の8節は独立した文ではなく7節に繋がっております。互いに愛し合うこと が求められています。しかし、その愛は、思慮深く、冷静で、祈りを伴うも のでなくてはならないのです。
愛が思慮深さと冷静さを失う時、その“愛”なるものは暴走を始めます。 人間の熱情ばかりが先走り、もはや神のことを考えられなくなるような、祈 りを失った“愛”なるものは、しばしば共同体を破壊し、混乱をもたらす元 凶となります。「愛」という言葉が氾濫している社会の中に生きている私た ちは、なおさらこのことを心に留めねばなりません。この社会は、衝動に走 った不倫の関係さえ「純愛」と呼んでしまう社会です。家庭を破壊し、子供 の心に深い傷を与え、周囲の人々を不幸につき落としてしまうものであって も、それを「愛」と呼んでしまう社会なのです。もちろんそれは極端な例か もしれません。しかし、教会における交わりも、思慮深さと冷静さを失い、 祈りを伴わなくなったなら、この世の混乱した“愛”なるものと少しも変わ らないものとなってしまうのです。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」。それは本当の意味で関係 と交わりを建て上げていくものでなくてはなりません。ですから、続けて 「愛は多くの罪を覆うからです」と書かれているのです。罪は交わりを破壊 します。自分の罪のゆえに、また他者の罪のゆえに、交わりが傷つけられ壊 されるということが、主を信じる者の交わりにおいてさえ起こります。しか し、愛は多くの罪を覆うのです。愛は多くの罪を覆って、壊れた交わりを回 復するのです。罪によって傷ついた関係の中に、赦しをもたらし、和解をも たらし、回復をもたらすことができるのは、思慮深く、祈りを伴った愛だけ なのです。
それはちょうど、私たちと神との間に起こったことと同じです。私たちの 罪のゆえに壊れてしまった神と私たちとの関係が回復されたのは、ただ神の 愛によってでありました。神はその愛のゆえに御子を世に遣わしてください ました。神はその愛のゆえに御子を私たちの罪の贖いとしてくださいました。 神はその愛のゆえに私たちの罪を赦してくださいました。神はその愛のゆえ に私たちを御自身との交わりの中へと招いてくださいました。神はその愛に よって私たちの多くの罪を覆ってくださいました。
そのように神と私たちとの間に起こったことが、今度は私たちと誰かの間 に起こることを神は望んでおられるのです。そして、そのことを私たちに信 頼して委ねてくださっているのです。
●不平を言わず
そして、第二にペトロは言います。「不平を言わずにもてなし合いなさい 」(9節)。ここで「もてなし合うこと」について言及されているのは、単 にそれが美徳だからではなく、当時の教会の事情が「もてなし合う」ことを 必要としていたからです。というのも、パウロがそうであったように、多く の伝道者や指導者たちが巡回することによって、当時の教会は成り立ってい たからです。
巡回する教師たちはその地のキリスト者の個人宅に泊まります。場合によ っては長期に渡って滞在します。泊める家は必ずしも裕福ではありません。 いや初期のキリスト者たちは総じて貧しい人々が多かったのです。当然、負 担がかかります。しかも、その負担は集会の構成員全体に均等にかかるわけ ではありません。ひとりの人に他の人よりも多くの負担がかかることがあり ます。するといつのまにか不平が生じてくる、ということが起こってまいり ます。
この「不平」という言葉は他に例えば使徒言行録6章などに出てきます。 そこでは「苦情」と訳されています。「そのころ、弟子の数が増えてきて、 ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が 出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた からである」(使徒6・1)。そのように「不平」「苦情」は人が不公平で あると感じ、自分たちは損をしていると感じるところに起こってまいります。
そのことを考えますと、ペトロがただ「もてなし合いなさい」と勧めてい るのではなく、特に「不平を言わずに」と言っていることは非常に大事なこ とであることが分かります。不平が満ちている状態は、その前に書かれてい る「互いに愛し合う」ことの対極にあるからです。愛することは、時として、 あえて損を引き受けることを意味します。愛することは、時として、あえて 重荷を引き受けることも意味します。それは、キリストが私たちのためにし てくださったことを考えれば分かります。キリストは私たちの罪の重荷を引 き受けてくださいました。キリストはあえて苦しみを引き受けてくださいま した。キリストは、いわばあえて喜んで損をしてくださったのです。そのキ リストに目を向けるのでなければ、私たちの心はいつでも不平で一杯になっ てしまいます。
●互いに仕えなさい
そして、第三にペトロはこう言います。「あなたがたはそれぞれ、賜物を 授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜 物を生かして互いに仕えなさい」(10節)。
やがて私たちの人生もまた終わりを迎えます。その事実は、私たちが今持 っているものは本当の意味で私たちの所有ではない、ということを意味しま す。能力にせよ、他のものにせよ、私たちは人生の途上で手放しながら生き ていきます。やがてすべてを手放す時がやってくるのです。
もともと私たちは何も持ってはいませんでした。ですからすべては与えら れたものです。神から与えられたものです。ですから「賜物」と表現するこ とができます。その中には、キリスト者となってから与えられたものもあり ます。聖書はただ自然的な能力ではなく、信仰と共に与えられた超自然的な 能力についても言及しています。例えば、コリントの信徒への手紙では、 「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「預言する力」「霊を見分ける力」等 々にも触れられております。人によってはそのような賜物が与えられること もあります。しかし、自然の能力にせよ、超自然的能力にせよ、あるいは私 たちが有している他のものにせよ、いずれにしてもそれは神の賜物です。
繰り返しますが、どのようなものであれ、やがて手放す時がやってまいり ます。ですから、それらはある期間私たちに託されているに過ぎません。な らば、私たちは所有者のように振る舞ってはなりません。大事なことは、1 0節にありますように、「善い管理者」になることです。管理者として賜物 を用いることです。賜物を用いる上での基本的な原則は「仕える」というこ とです。神の賜物は、私たちが他者を支配するために与えられているのでは ありません。他者に仕えるために与えられているのです。
以上挙げられた三つのこと、すなわち「愛し合うこと」「不平を言わずに もてなし合うこと」「賜物を生かして互いに仕えること」は、教会という共 同体を形作ることと関係しています。「万物の終わりが迫っています」とい う言葉から見てまいりました。その「万物の終わり」が、ペトロの言うよう に間近にあるのか、それともそれから既に二千年近く経ってしまったように、 これからもまだ先のことなのか、それは私たちには分かりません。しかし、 いずれにせよ、私たちは終わりに向かって生きているのです。そこで私たち にとって重要なことは、思慮深く、冷静に、祈りをもって、教会の交わりを しっかりと形作っていくことです。神を礼拝し、神に栄光を帰し、神と共に 生きる共同体をしっかりと形作り、その交わりの中に生きていくことなので す。なぜなら終わりの時は、神の栄光が完全に現される時であるからです。 「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。