「光の中における交わり」

                        1ヨハネ1・1‐10

●交わりを持つようになるため

 今日はヨハネの手紙の冒頭部分をお読みしました。ヨハネはここでひとり
のお方のことを伝えようとしています。そのお方は「命の言」と呼ばれてい
ます。父なる神と共におられた「命の言」なる方、永遠の命そのものであら
れるお方は、この世界に来られ、この歴史の中に現れ、私たちが見ることが
でき、手で触れることができる存在となられました。もちろんヨハネがここ
で語っているのは、人となられた御子なる神、イエス・キリストのことです。

 ヨハネが「命の言」なるイエス・キリストを伝えようとしているのは何の
ためでしょうか。3節にはこう書かれております。「わたしたちが見、また
聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交
わりを持つようになるためです」(1・3)。

 イエス・キリストを伝えるのは「交わりを持つようになるため」です。伝
道とは交わりへの招きです。その交わりとは「御父と御子イエス・キリスト
との交わり」であるとヨハネは言います。ヨハネたちは既に御父と御子イエ
ス・キリストとの交わりに入れられています。そのような彼らが、イエス・
キリストを宣べ伝えて、さらに他の者を交わりへと招きます。そのようにし
て交わりに加えられた者が、さらにイエス・キリストを伝え、他の者を御父
と御子イエス・キリストとの交わりへと招きます。教会が二千年間続けてき
たことは、まさにこのことです。そして、そのイエス・キリストが私たちに
も伝えられました。私たちもヨハネが語るその交わりへと招かれたのです。
信仰生活とは、この交わりに生きることに他なりません。

 ヨハネがこれを書くのは、すなわちキリストを伝え、交わりへと招くのは、
「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であると言っています。
「わたしたち」というのは、別の写本では「あなたたち」となっています。
いずれにせよ、「わたしたち」と言っても、読者を除外して、「あなたがた
はどうであれ、わたしたちは」という意味ではないことは確かです。「あな
たがた」を含めた「わたしたち」と言っても良いでしょう。そのように、交
わりへの招きは満ちあふれる喜びを共有するためです。

 このように私たちの信仰生活において、「交わり」は本質的な意味を持っ
ています。「個人的に神を心の中で信じていればよいではないか」という考
えはキリストの福音とは無縁です。私たちは、既に存在する交わり、すなわ
ち御父と御子と世々のキリスト者との交わりへと加えられることにおいて、
神と共に生きるのです。そして、その交わりにこそ満ちあふれる喜びはある
のです。そもそも他者と自分を切り放し、自分の救いの事しか考えられない
エゴイスティックな敬虔さの中に、真の喜びなどあろうはずがありません。
御父と御子との交わりを基とした信仰における兄弟姉妹との交わりに生き、
さらに隣人をその交わりへと招くところにおいてこそ、私たちは満ちあふれ
る喜びを経験するのです。


●闇の中を歩むなら

 そこでさらにこの交わりについて考えてみましょう。「わたしたちの交わ
りは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。すなわちそれは「神
との交わり」でありますから、そこでは当然のことながら、《神はどのよう
なお方であるか》ということが大きな意味を持つことになります。そこでヨ
ハネはこう言っています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あな
たがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということ
です」(5節)。

 神の本質をこの世の言葉で表現することは不可能です。ですから「神は光
である」という表現は完全ではありません。しかし、少なくとも私たちが理
解する助けにはなります。私たちは神さまを直接思い描くことはできません。
しかし、光については思い描くことができます。闇についても思い描くこと
ができるでしょう。

 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」
――この言葉によって思い描くべき一つの姿は、私たちが明るい光の中を共
に歩いている姿です。この正反対の状態も思い描いてみましょう。私たちが
真っ暗闇の中を歩いている姿です。「光の中」と「闇の中」、その決定的な
違いは何でしょうか。それは一方で見えるものが他方では見えない、という
ことです。

 私たちは通常、物が見えることは望ましいことだ、と考えて生活している
ものです。ですから昼間はカーテンをあけて太陽の光を部屋に取り込み、夜
は人工的な光をもって部屋を照らします。停電などで真っ暗になってしまう
と、本当に困ったことになります。そのように、明るい光のもとで物が見え
ることは確かに望ましいことです。

 しかし、私たちは何でも見えることが良いと常に考えているわけではあり
ません。見えないほうが良いと思っているものもあるのです。その代表は何
でしょう。それは「罪」です。私たちの罪深い行い、私たちの罪深い姿が見
えてしまうことは、私たちにとって都合の悪いことです。ですから、罪につ
いて言うならば、それは他の人に見えないことが望ましい。いやそれだけで
なく、自分にも見えないこと、見ないですむことを望んでいるものです。そ
のために、あえて光を遠ざけて闇の中に身を置く、ということが私たちの人
生には起こってまいります。

 「神は光である」とヨハネは言いました。しかし、その光を人は遠ざけて
しまうのです。光を閉め出します。闇の中に身を置きます。闇の中ですから、
見えるべきものが見えません。認識されるべきものが認識されません。罪が
罪として認識されません。言い換えるならば、闇の中にいる限り、人間は自
分の罪深い行いを、いくらでも正当化できるということです。8節にありま
すように、「自分には罪がない」と言うことができるのです。この手紙が書
かれた当時、「自分には罪がない」という主張のために援用されていたのは
ギリシア的な霊肉二元論に関する哲学的思弁や様々な神話でした。そのよう
に、人間はいかなる論理を用いてでも「自分に罪がない」と言い張るものな
のです。

 今日の私たちは、当時の人々と異なる論理を用いて、自分を正当化してい
るかもしれません。いずれにせよ、それは闇の中において可能なことです。
そのことを私たちはある程度、知っているものです。「自分には罪がない」
という主張が神の明るい光に耐え得ないことを知っているのです。実際、私
たちが普段言い張っていることを神の御前で本当に主張することができるか、
と問われるならば、口を閉ざさざるを得ないでしょう。

 そして、もう一つ明らかなことがあります。それは闇の中でどんなに「自
分には罪がない」と言い続けても、そこに本当の喜びなどない、ということ
です。思い描いてみてください。真っ暗闇の中を歩いている自分を、そして
真っ暗闇の中を歩いている隣人を、闇の中における人間社会の営みを。それ
は確かに「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」というヨ
ハネの言葉とは対極にある姿ではありませんか。「わたしたちが、神との交
わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついてい
るのであり、真理を行ってはいません」(6節)とヨハネは言います。まこ
とに彼の言うとおりです。


●光の中を歩むなら

 それゆえ、私たちは闇の中を「歩いて」はならないのです。たとえ闇の中
に自らを置いてしまうことがあったとしても、その闇の中に留まり続けては
ならないのです。光なる神を退けて、罪の中に留まり続けようとしてはなら
ないのです。そこで私たちは神のもとに立ち帰り、光の中に立ち帰らなくて
はならないのです。

 光の中を歩むなら、罪が罪として見えてくるでしょう。自分の為してきた
悪がはっきりと見えてくるでしょう。もはや「自分には罪がない」とは言え
ません。そこには心の痛みが伴います。しかし、それでもなお、光の中に身
を置くべきなのです。なぜなら、私たちには約束が与えられているからです。
「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、
互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます
」(7節)。私たちが光の中にいるかぎり、御子イエスの血が私たちの罪を
清め続けるのです。

 そして、そのような光の中においてこそ、闇の中にはなかった互いの真実
な交わりも成り立つのです。それは具体的に次のように言い換えられていま
す。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦
し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(9節)。

 光の中を歩むために与えられている公の場所、それは私たちが共に集まり
神を礼拝する場所です。光の中を歩くということは、単なる精神的な事柄を
言っているのではありません。それは共に神を礼拝して生活するという具体
的な形を持っています。そして、そのような具体的な公の場に、私たちは罪
を告白する者として共に立つのです。

 先ほど、詩編51編を交読しました。毎週私たちはこれを交読いたします。
「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをも
って、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から
清めてください」という言葉を、私たちは公に口にします。これを単なる形
式的なお題目にしてはなりません。もし私たちが真実に神の前でこの言葉を
告白するならば、それは私たちが悔い改めて、いかなる罪の正当化も放棄す
ることを意味するのです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なこ
とが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不
義からわたしたちを清めてくださいます」。真実で正しい方であるならば、
その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しか
し、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれてい
ますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけに
えとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださる
のです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清める
のです。

 私たちの互いの交わりは、そのような礼拝から始まります。そこから光の
中における交わりが始まるのです。神の恵みを共有する、「御父と御子イエ
ス・キリストとの交わり」が始まるのです。そして、私たちはイエス・キリ
ストを宣べ伝え、その交わりへとさらに隣人を招きます。真の喜びが満ちあ
ふれるようになるために!