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「ここに愛がある」

2004年11月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ヨハネ4・7‐12

●神を知っている?

 先週からヨハネの手紙(1)を読んでいます。この手紙を読みますとすぐ に気づくことですが、ここには「知る」あるいは「分かる」(原文ではどち らも同じ言葉)という言葉が頻繁に現れます。そして、その多くは「神を知 る」という文脈において用いられているのです。「神を知る」ということが、 この手紙の背景となっている当時の教会においてホットな話題となっていた ことが分かります。

 私は神を知っているのか。それとも知らないのか。そもそも神を知るとは いかなることか。どうしたら神を知ることができるのか。――これらは、今 日の私たちにおいても極めて重大な問いであるに違いありません。ある人に とっては、「神を知っている」とは、聖書についての知識、神学的な知識を 持っているということを意味するかもしれません。一方、別な人は言うでし ょう。「聖書の知識ばかりの頭でっかちではだめだ。神を体験することが重 要なのだ」と。また別の人にとって《神を知っている人》とは、超自然的な 神的能力を持っている人を意味するかもしれません。もう10年以上前のこ とですが、この教会堂が建った時、近所に住んでいたある新興宗教のお婆さ んが来られて、私にこう尋ねられました。「お前は雨を降らせることができ るか」。唖然とした私は何とお答えしたかは忘れましたが、要するに、いく ら牧師などと言っていても、雨ひとつ降らせることができない私などは、そ の人から見るならば、神を知っていることにならないわけです。

 この手紙が書かれた当時の教会にも、ある特別な意味あいをもって「わた しは神を知っている」と言う人々がいたようです。彼らは限られた人のみに 与えられる神についての特別な知識(グノーシス)を持ち、神との特別な交 わりが与えられていると主張していたのです。そして、その交わりは霊的な 交わりであって、この物質世界に属するいかなるものによっても、決して妨 げられることはないと言っていたのでした。つまり自分の体をもって何をし たとしても、神との霊的な交わりは影響を受けることはないということです。 この世の生活における倫理的な事柄を問題にするキリスト者は、彼らから見 るならば、一段も二段も低いところにいたのです。

 しかし、そのような人々の教えがはびこっていた当時の教会に対して、ヨ ハネは全く違うことを語ったのでした。7節以下を御覧ください。「愛する 者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、 神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りま せん。神は愛だからです」(7‐8節)。

 「愛する」ということは、この物質世界の中で営まれる具体的な生活に関 わっている言葉です。現に存在する隣人とどのように共に生きるのか、とい うことに関わっている言葉です。そのように具体的に愛して生きるというこ とを欠いているならば、どんなに特異な神秘体験を持っていようが、どんな に特別な知識を持っていようが、どんなに霊的な神との交わりがあると主張 しようが、その人は神を知らないのだ、とヨハネは言うのです。それはなぜ でしょうか。彼は言います。「神は愛だからです」。

●神は愛です

 「神は愛です」とは教会で良く耳にする言葉です。いい言葉だと思います。 しかし、よくよく考えてみると、これをどう理解するかということは、そう 単純ではありません。神は本当に愛なのでしょうか。ヨハネはいったい何を 根拠として、「神は愛である」と語っているのでしょうか。

 奇跡的に病気が癒されて「神は愛である」と感謝する人もいます。しかし、 病気の癒しが「神は愛である」と語る根拠にならないことは明らかです。人 生最後の病気は癒されないからです。自分が経験してきた数々の幸運のゆえ に「神は愛である」と言う人もいるでしょう。しかし、その人が不運に見舞 われるならば、「神は愛である」と言っていた舌をもって神を呪うことにな るかもしれません。

 「神は愛である」という言葉が、単純にこの世の経験から出てこないこと は明らかです。なぜなら、この世に満ちている理不尽な出来事、私たちもし ばしば経験するこの世の不条理やそれに伴うやり場のない悲しみや怒りは、 「神は愛である」という言葉と激しく対立するからです。今朝届いた新聞に 見る一つ一つの悲しいニュースと、「神は愛である」という言葉は単純に結 びつきますか。結びつかないだろうと思うのです。

 それともヨハネは、そのような悲しみや痛みとは無縁の、平和で幸いに満 ちた生活をしていたから、このようなことを書いているのでしょうか。まさ かそうではないでしょう。というのも、迫害の中にあった教会にとって、理 不尽な苦しみや悲しみは、むしろ身近な日常の経験だったからです。そして 何よりも、ヨハネは最も理不尽な出来事を知っているのです。すなわち主イ エスがどれほど惨たらしい仕方で殺されたかを知っているのです。

 少し前に「パッション」という映画が上映されました。目を覆いたくなる ような残酷なシーンが続きます。しかし私は、あの映画において、残酷さが 殊更に強調されているとは思いません。実際に起こっていたことは、もっと 残酷であったに違いないとさえ思います。鞭で打たれて飛び散った血と肉に よって真っ赤に染まった敷石の上をキリストが引きずられていく場面と「神 は愛である」という言葉は結びつきますか。結びつかないだろうと思うので す。そうです、ヨハネはこの世界の中に起こっていることが、まさにそのよ うな事であることを重々承知の上で書いているのです。ですから、「神は愛 である」という言葉は、単純にこの世界の一般的な経験の中からは出てきた 言葉ではないのです。

 では、ヨハネは何を根拠に「神は愛である」と言っているのでしょうか。 実は、9節は「ここに神の愛は示されたのだ」という言葉で始まるのです。 日本語とは順序が逆になります。「神は愛である」――その愛はまさに「こ こ」にあるのだ、「ここ」においてこそ現されたのだ、と言っているのです。 ではヨハネの言う「ここ」とはどこでしょう。ヨハネはどこを見ているので しょう。彼は言うのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました、わ たしたちが生きるようになるために!」と。

 さらに彼は言います。「ここに愛があります」。どこにですか。ヨハネは こう言っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたし たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしにな りました」。これこそがヨハネの見つめている一点なのです。

 ここで重要なのは、「わたしたちの罪を償ういけにえ」という言葉です。 これは旧約の背景を持った言葉です。その言葉が前提としているのは、「罪 の赦しを必要としているわたしたちである」ということです。ヨハネは、自 分の罪、そして全世界の罪について考えているのです。そして聖なる神と罪 深い人間を隔てる、越えがたい深淵を見ているのです。

 自分自身の罪と深刻に向き合うことがないならば、人はいくらでも神に近 づくことができると考えることでしょう。自分が近づこうと思いさえすれば、 神に近づくことができると思うのです。人間の努力によって、修練によって、 積み重ねた善行によって、あるいは瞑想によって、神秘体験によって、いく らでも神に近づき、神に触れ、神と一つになることさえできると考えるもの です。そして、そのような神と一つになる体験を得るために、酒や薬物の助 けを借りるということも、人間が昔からしてきたことです。

 しかし、私たちが幻想から目覚めて真に現実的になり、自分自身を見つめ、 この世界を見つめるなら、どうしても私たち自身の罪が問題となるのです。 神と人とを隔てる深淵が問題となるのです。いったいその深淵に橋渡しはな され得るのかが問題となるのです。そこで少なくとも一つ明らかなことは、 人間の側から橋はかけられない、ということです。なぜなら、この断絶は人 間の罪の故の断絶だからです。ですから橋渡しは神が罪を赦してくださるこ とによってしか成り立たないのです。神が赦してくださるのでなければ、神 との交わりは成り立たないのです。だから――そうです、だからこそ、神自 らが橋をかけてくださったのです。こう書かれているとおりです。「わたし たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を 償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

●互いに愛し合いなさい

 このキリストの十字架という出来事に目を向けつつ、ヨハネは「神は愛で ある」と語っているのです。「神を知る」ということは、そのように、十字 架において御自身の愛を示された神を知ることに他なりません。それはすな わち、自分に与えられている神との交わりは、百パーセント神の愛に負って いることを知ることに他ならないのです。要するに、私たちは神さまに借り があるということです。こうして私たちは当たり前のように神を礼拝し、神 に祈っているのですが、その私たちは神さまに対して莫大な愛の借りがある のです。

 「神は愛です」。その愛なる神を知るならば、その一生は当然のことなが ら、神に愛をお返ししていく一生となるはずです。もとより返せるような負 い目ではありません。そんな私たちのせめてもの恩返しの一生です。しかし、 そのように神に愛をお返ししようとする時に、神は私たちに言われるのです。 「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あ なたの隣人に返しなさい」と。ヨハネはそのことを次のように表現していま す。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わ たしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。

 「愛し合うべきです」という表現は、「愛することを負っている」という のが直訳です。負債がある、ということです。負っているのは神に対してで すが、返すのは隣人に対してです。それは神が大きな橋を自らかけてくださ ったように、私たち自身も小さな橋をかけることを意味するのかもしれませ ん。その場合、神の方から御赦しをもって橋をかけてくださることが神の愛 であったのですから、私たちが誰かを愛するということは、私たちの側から 橋をかけることを意味するのでしょう。あなたの方から橋をかけなくてはな らない人は誰ですか。

 いずれにせよ、神を知るということは、そのように必然的に私たちが互い に愛し合うという形を取るのです。それゆえに、このように書かれていたの です。先にお読みした言葉をもう一度読んで終わります。「愛する者たち、 互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生 まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神 は愛だからです。」

 
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