「ユダヤ人もギリシア人もなく」
2004年12月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤ3・26‐29
●信仰によって義とされる
イエス・キリストはユダヤ人でした。主イエスの弟子たちもまたユダヤ人 でした。最初のキリスト教会は、ただユダヤ人のみによって構成されており ました。しかし、イエス・キリストの福音は、ユダヤ人の枠の中に留まらず、 広くギリシア・ローマ世界に伝えられていきました。そのような異邦人への 伝道において中心的な働きをしたのが、この手紙を書いているパウロです。
シリアのアンティオキアを拠点としたパウロの異邦人伝道が進展するにつ れ、もともと潜在的に存在していた困難な問題が浮上してまいりました。そ れはユダヤ人と異邦人がいかにして一つの共同体(教会)を形成することが できるか、という問題です。この問題をいかに解決するかは、パウロにとっ て福音の本質に関わる事柄であって、決して枝葉のことではありませんでし た。それゆえにパウロはこの問題の解決を求め、繰り返しエルサレムに上っ たのです。
その時の様子はこの手紙の一章から2章にかけて記されています。第一回 目はパウロが宣教を開始して三年ほど経った時でした(1・18)。その時、 パウロはケファ(ペトロ)と面会しています。しかし、決定的な出来事は二 回目の訪問の際に起こりました。第一回目の訪問から14年後のことでした。 「わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわ け、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っていうのでは ないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」(2・2)と書 かれています。そして、そこにおいて、後の教会の歴史を左右する出来事、 いや世界の歴史を左右する出来事が起こったのです。
2章9節を御覧ください。「また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、 ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたし とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたした ちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです 」(2・9)。このように、ヤコブとケファとヨハネはユダヤ人の方へ、パ ウロとバルナバは異邦人の方へと福音を携えて進んでいくわけですが、あく までも教会は一つであり、一つの主の食卓を囲み、一つのパンを分かち合う ことができる共同体であることが確認されたのでした。
ところがその後、この確認された事実を反故にするような悲しむべきこと が起こりました。2章11節以下に書かれているように、それまで何の問題 もなく異邦人と一緒に食事をしていたケファ(ペトロ)が、ヤコブのもとか らある人々が来てからというもの、異邦人と一緒に食事をしなくなったので す。当時の教会において聖餐は形の上では通常の食事と区別はありませんし たから、要するにペトロのしたことは、もはや主の食卓を囲んで異邦人と共 に礼拝することはなくなった、ということを意味します。そして、他のユダ ヤ人たち、またバルナバまでが、それに倣うようになったのでした。
ヤコブのもとから来た「ある人々」がどのような人々であり、どのような 事情のもとにペトロがそのような行動を取ったのか、その詳細は定かではあ りません。しかし、ペトロが取った行動が何を意味したかは明らかです。ペ トロが意図していたか否かは別として、結果的に彼の行動は、異邦人に対し てユダヤ人のようになれと要求することを意味したのです。異邦人がユダヤ 人のようにならなければ、もはやペトロたちと一つの食卓を囲むことはでき ない、ということです。ですから、パウロはペトロに対して、こう言って非 難したのです。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方を しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人の ように生活することを強要するのですか」(2・14)。
なぜこのような強要が起こってくるのでしょう。なぜ相手の同化なくして は決して一つになれない、ということが起こってくるのでしょう。パウロに 言わせるならば、それは「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」 (同14節)からなのです。すなわちそれは福音の本質に関わる問題なので す。ですから、パウロは続く15節以下で福音の真理を語り直しているので す。これはケファに対する言葉の続きであると理解することもできます。
「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人で はありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリスト への信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信 じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義とし ていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として 義とされないからです」(2・15‐16)。
確かにパウロもペトロも「異邦人のような罪人」ではありません。神の律 法を知らない罪人ではありません。では神の律法を持っているパウロやペト ロ、ユダヤ人たちは罪人ではないのでしょうか。いや、同じように罪人なの だ、とパウロは言うのです。「律法の実行によっては、だれ一人として義と されないからです」と。
これは徹底した律法遵守に生きたパウロの言葉であるゆえに説得力があり ます。神の要求を完全に満たそうと律法を守ってきたパウロの結論は、「わ たしは義しくない。わたしは神によって義とは認められない」ということだ ったのです。そのように、ユダヤ人も義とされない。異邦人も義とされない のです。しかし、福音の真理は何と言っているでしょう。そのように行いに よっては義とされないユダヤ人も異邦人も、「イエス・キリストへの信仰に よって義とされる」のです。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、十字 架の上で私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストへの信仰によって、 神に受け入れられ、神の民として生きられるのです。ですからそのような神 の民は、当然のことながら、異邦人とユダヤ人をそのままで含むことになる はずなのです。
ご存じのように、この箇所はしばしば《信仰義認》を教えている聖書箇所 として引用されます。しかし、既に見てきましたように、この《信仰義認》 を語る言葉は、もともと「罪人が神の裁きを免れて天国に行けるためにはど うしたらよいか」という問題意識から語られているのではありません。どう したらユダヤ人と異邦人が一つの共同体(教会)を形作ることができるのか、 という観点から語られている言葉です。ですから、自分の救いのことしか考 えられず、自分の永遠の運命のことしか問題にできない人は、本当の意味で 《信仰義認》を知っていることにはならないのです。隔ての中垣を取り壊し、 異なる他者と一つになるという課題を真剣に考えることのできない人は、福 音の真理に従ってまっすぐに歩いていることにはならないのです。
●キリスト・イエスにおいて一つ
さて、今日の聖書箇所は、そのような流れの中において、よく理解するこ とができるでしょう。26節には「神の子」という言葉が出てきます。「神 の子」という呼称によってまず思い起こすのは、神の子なる「イエス・キリ スト」でしょう。しかし、旧約聖書にまで遡りますと、「神の子」という呼 び名は神の民イスラエルに対して用いられております。例えば、出エジプト 記4章には、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプ ト4・22)という主の言葉が記されていますし、申命記14章には、「あ なたたちは、あなたたちの神、主の子らである」(申14・1)と書かれて います。つまりここで語られているのは、神と親子の交わりにある神の民に ついてなのです。ですから今日お読みした29節にも「アブラハムの子孫」 「約束による相続人」という言葉が出てまいります。これもまた神の民を指 し示す言葉です。
私たちが神の子らであるとするならば、神の民として神との交わりの中に 生きられるとするならば、その根拠はどこにあるのでしょうか。その根拠は 私たちの行いにあるのではない、ということは既に論じられきた通りです。 たとえ神の御心の啓示が律法として与えられていたとしても、「律法の実行 によっては、だれ一人として義とされない」からです。律法の実行によって は、だれ一人として神の子ではあり得ないのです。それゆえに、根拠は私た ちの側にではなく、ただ神の側にあるのです。イエス・キリストにあるので す。ですからこう書かれているのです。「あなたがたは皆、信仰により、キ リスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。
「キリスト・イエスに結ばれて」というのは「キリスト・イエスの内にあ って」というのが原意です。私たちが自分の義しさによって神の子であるこ とができないならば、私たちはただ信仰によって神の子なるイエス・キリス トの内に身を置くしかありません。そうやってイエス・キリストと一つにし ていただくしかありません。もちろん、それは信仰を通して、神の霊の働き によって与えられる霊的な現実です。霊的な現実そのものは目で見ることは できません。しかし、有り難いことに、私たちには、目に見えないものだけ でなく、目に見えるものをも恵みとして与えられております。キリストは目 に見えなくても、キリストの体としての教会は目に見えます。教会において 行われる聖礼典も目に見えます。ですから、ここでパウロは続けて目に見え る洗礼について語っているのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあな たがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)と。
「キリストを着ている」という言葉は、先ほど見ました「キリストの内に あって」と同じことを意味しているのですが、もう少しイメージ豊かな表現 であると言えるでしょう。私たちがキリストの内にあるならば、神はもはや 私たちを裸の罪人として御覧にはなられません。キリストを通して御覧にな られるのです。罪の贖いに与った者として、キリストを着ている者として御 覧になられるのです。そして、このように「キリストを着ている」というこ とが私たちにとって決定的に重要な意味を持つ時、初めてそれに続く言葉を 語ることができるようになるのです。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシ ア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたが たは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)。
私たちは、洗礼を重んじます。聖餐を重んじます。キリストを信じるとい うこと、キリストの内にあるということを決定的に重要なことであると考え ています。それが健全な教会の姿であると信じております。教会において洗 礼が重んじられなくなる時、イエス・キリストを信じるということ、キリス トの内にあるということが決定的に重要なことと見なされなくなる時、「キ リスト者であってもキリスト者でなくても同じです」などと言い始める時、 必ずそこでは他の様々な要素が幅を利かせてくるようになります。ユダヤ人 であるか異邦人であるか、奴隷であるか自由な身分の者であるか、男である か女であるか、金持ちか貧しいか、学歴があるか無学か、ある政党を支持す るかしないか、右寄りか左寄りか――そのような諸々の違いの方が重要にな ってくるのです。そして、それゆえに一つとなることが困難になるのです。
パウロはここでもはや「一つになりなさい」とは言っていません。「あな たがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と言っているので す。この世においても来るべき世においても、最も重要な意味を持つ絆によ って一つとされているのです。既に一つとされているのです。私たちにとっ て必要なことは、様々な相互理解の努力によって一つになろうとすることで はありません。既に一つとされているという事実を認識することなのです。