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「神の御前に価値ある装い」

2004年12月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ペトロ3・1‐7

●男も女もないはずでは?

 先週お読みしましたガラテヤの信徒への手紙には次のように書かれていま した。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着て いるからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由 な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエ スにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・27‐28)。キリストに結ば れている(キリストの内にある)ということが絶対的に重要であるならば、 その他の一切は相対的に重要性を失います。そこでは男も女もないのです。

 一方、教会が置かれている現実の社会は、男女の別が大きな意味を持って いる社会でした。それは男尊女卑の思想が支配している社会でした。そこで は家庭もまた男性中心の結婚観によって形作られていました。女性には従属 的な位置づけしか与えられていませんでした。往々にして妻は夫の所有物と しか見なされませんでした。妻が夫に従うのは当然ことであり、他に選択肢 などなかったのです。

 そのような社会の中に置かれている教会は、当時の結婚観、夫婦観とどの ように向き合っていたのでしょうか。《キリストにあって男も女もない》と いうことを体験していたはずの教会は、驚いたことに、当時の結婚観を何の 修正も加えずに受け入れていたように見えるのです。今日お読みしましたペ トロの手紙には「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と書かれておりますし、 エフェソの教会やコロサイの教会に宛てられたパウロの手紙にも同様の勧め が記されています。つまりそれらの言葉は教会において一般的に語られてい た言葉であるということです。世の中の人が当然のこととしていた認識に対 して教会は戦いを挑むわけでも、男性中心の家庭秩序を拒否するわけでもな かったのです。ですから、そのような聖書の言葉に対して、当時の社会的背 景に由来する限界を見る人もいないわけではありません。確かに、時代的状 況を考慮に入れて聖書を読むということは大切なことであり、必要なことで もあります。

 しかし、もう一方において、見落としてはならないことがあります。この 世と同じように「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と語っていた教会であ ったにもかかわらず、そこには当時の社会の中には見られなかった全く新し い家庭の姿が現実に存在した、ということです。あるいは少なくともそのよ うな新しい家庭の姿が目指されていた、という事実があるのです。そのよう な新しい家庭の姿は、7節にある「夫たちに対する勧め」に垣間見ることが できます。

 「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を 共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あな たがたの祈りが妨げられることはありません」(7節)。

 この勧めにおいて想定されているのは、どのような家庭の姿でしょうか。 それは夫と妻が、命の恵みを共に受け継ぐ者として、生活を共にしている家 庭です。そこにあるのは、永遠の命を共に受け継ぐ者として、神の国を仰ぎ 望みながら、共に祈りつつ生活している夫婦の姿なのです。そのような夫婦 の関係が形作られるのは、「妻が夫に従う」という選択肢しかない既存の秩 序を拒否することによってではなく、既存の秩序と戦って破壊することによ ってでもありませんでした。それは福音のもたらす命の力によって内側から 形成されていったのです。

●御言葉を信じない夫でも

 しかし、次のように言う人がいるかもしれません。「そのようなことが起 こるとするならば、それは夫もまたキリスト者である場合に限られるではな いか。確かに夫が神を畏れる人であるならば、『妻たちよ、自分の夫に従い なさい』と語られても、妻が不当に貶められることはないだろう。しかし、 神を畏れぬ夫ならどうなるのだ。その場合には不当な上下関係を改革するた めに戦うことの方が重要ではないか。あるいはそのような不当な関係など破 棄すべきではないか。」

 どう思われますか。実際に、パウロの手紙から察するに、そのような夫と の結婚関係など破棄するべきだと考えていた妻たちもいたようです。考えて みれば、《キリストにあって男も女もないのだ》ということに目が開かれた 妻たちが、今日よりも遙かに女性の地位が低かった当時の社会のありようや 夫婦のありようを改めて見つめ直した時、そのような既存の秩序を拒否した い思いにかられたとしても、不思議ではないでしょう。

 しかし、そのような御言葉を信じない夫に対してであっても、今日の聖書 箇所においてなんとペトロはこう言っているのです。「妻たちよ、自分の夫 に従いなさい」と。なぜでしょうか。その理由はいたって単純です。「夫が 御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるよ うになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」 (1‐2節)。

 ここで「信仰に導かれる」と意訳されていますが、もとの言葉は「獲得す る」という意味の言葉です。本当に獲得しなくてはならないのは、自分の権 利ではないのです。自分の地位ではないのです。平等ですらないのです。本 当に獲得しなくてはならないのは、人間なのです。この場合ならば「夫」で す。人間を神のもとに獲得しなくてはならないのです。夫が御言葉を信じな い人であるからこそ、神のもとに獲得しなくてはならないのです。平等の権 利を獲得するための戦い方というのは、確かにあるでしょう。しかし、人間 を得るための戦い方はそれとは異なります。神のもとに人を得るのはイエス ・キリストの福音によるのです。

 しかし、既存の夫婦の秩序の中にあって、妻は夫に言葉をもって福音を伝 えることはできませんでした。イエス・キリストについて語ることはできな かったのです。しかし、福音を「聞かせる」ことができないとしても、「見 せる」ことは可能です。もちろん、夫が礼拝に共に参加するのでないかぎり、 神を礼拝している姿を見せることはできません。しかし、普段の生活してい る姿は見せることができます。「神を畏れるあなたがたの純真な生活」、そ のような「無言の行い」は、「妻が夫に従う」という他に選択肢がない当時 の秩序の枠の中にあっても可能なことでした。

 もちろん、ここに書かれていることは、必ずしも夫婦の間の事柄に留まら ないでしょう。人が従属的な立場に置かれるという場面は、他にもいろいろ と考えられます。職場において、教師と生徒の関係において、親子や兄弟の 間において、地域社会において、しばしば人はそのような立場に置かれます。 そのような立場にある時、しばしば私たちは言葉をもってキリストを伝える ことに困難を覚えます。しかし、そのような秩序の枠の中においても、無言 の行いは人を獲得する力を持つのです。

 もちろん逆のことも言えます。言葉をもって福音を伝える環境にある。事 実そのように言葉をもって伝えている。しかし、その言葉をもって伝えてい ることが「無言の行い」によって否定されてしまう、ということも起こりま す。実際、ここに書かれている「神を畏れるあなたがたの純真な生活」とい う言葉は実に重い言葉です。この聖書箇所を読んで「そうだ、そうだ」と言 って簡単に頷けますか。そうはいかないでしょう。「神を畏れる純真な生活 」が問題となるとき、私たちは皆、付け焼き刃のようなものではどうにもな らないことを良く知っているのです。それは内面から現れ出るものでなくて はならないのです。

●神の御前に価値ある装い

 それゆえに、続く次の言葉は重要です。「あなたがたの装いは、編んだ髪 や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりませ ん。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、 内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価 値があるのです」(3‐4節)。

 外面を装うことは、ある意味で容易なことです。お金さえかければ、いく らでも飾り立てることができます。一方、内面的な人柄を飾ることは容易で はありません。その装いには時間がかかります。内面的な人柄を装うために は、普段からそのことに心を向けていなくてはなりません。ここに書かれて いることは、単に華美なお洒落に対する批判でも、「女はおしとやかである べし」などということでもないのです。そんなことは聖書が語るほどのこと ではありません。そうではなくて、普段の生活において、私たちがどこに心 を向けているかを問題にしているのです。ペトロは、「このような装いこそ、 神の御前でまことに価値があるのです」(4節)と言っています。大事なこ とは、何が神の御前で価値があることなのか、を考えられることなのです。 すなわち日常の生活が神の御前にあるということを覚えて生活していること なのです。

 さて、既に見ましたように、この箇所は特に、未信者である夫との生活に ついて書かれているところです。この部分を、皆さんが普段接している未信 者の方々に置き換えて考えてくださっても結構です。日本におけるキリスト 者は、その生活の大半をキリスト者ではない方々と共に過ごしているわけで すから、多くの方々の顔を思い浮かべることができるでしょう。その中には、 信仰に全く関心のない方、あるいはさらにキリスト教に対して激しい拒否反 応を示される方がおられるかもしれません。そのような関わりの中で、私た ちは往々にして、「神にとって重要なことも、彼らにとっては重要ではない。 彼らはそれが重要であることを分かっていないのだ」などと考えてしまって いるものです。そうではありませんか。

 しかし、今日の聖書箇所は、ある意味で全く逆説的なことを語っているの です。すなわち、御言葉を信じない人である夫こそが、まさに外面的な飾り や派手な衣服などではなく、神の前で価値あるものに目を向けているのだ、 と言うのです。彼らこそが、まさに朽ちないもので飾られた内面的な人柄に 目を向けているのだ、神を畏れる純真な生活をしているかどうかを見ている のだ、ということです。ですから、御言葉を信じない人との関わりにおいて こそ、神の御前に価値のある装いが真に重要なものとなるのです。

 実際、そうではありませんか。教会に来ておられないお連れ合い、子供た ち、友人たちの方が、教会の人よりも良く見ていると思います。実に鋭く見 ているものです。そのような関わりの中において、付け焼き刃は役に立ちま せん。普段は全く表に出てこないような隠れた人格における装い、地味では あるけれどしっかりと内実を持った信仰生活、神を礼拝し神を畏れる生活こ そが、真に人間を神のもとに獲得し、現実を変革する力を持つのです。

 
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