「言は肉となった」                         ヨハネ1・1‐18  「クリスマスは何の日」と問われれば、日曜学校の生徒なら「イエスさま のお誕生日!」と答えるでしょう。キリスト教人口が1パーセントに満たな いこの国でありましても、クリスマスがキリストの誕生と関わっていること を知っている人は少なくありません。教会付属の幼稚園に行っていたり、キ リスト教系の学校に行っていたりした人ならば、この時期になると昔演じた ページェントのいろいろな場面を思い起こすかもしれません。キリストがベ ツレヘムの馬小屋で産まれたこと、羊飼いが訪ねてきたこと、博士たちが星 に導かれてやってきたこと…などなど。  ところが、今日お読みしましたヨハネによる福音書の冒頭には、いわゆる 「イエスさまのお誕生」の場面はでてきません。宿屋の場面も羊飼いたちも 出てきません。その意味では、クリスマス礼拝の朗読として、少々味気なく 感じる方もあるかもしれません。しかし、ここにもクリスマスの出来事は確 かに語られているのです。短く一言で次のように表現されています。「言は 肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。この短い言葉の中に、 その誕生の意味、さらにはそこから始まるキリストの御生涯の意味が言い表 されているのです。  クリスマスの物語を味わいながら、この時を喜び祝うということは、それ はそれで一つのクリスマスの過ごし方であろうと思いますが、私たちが祝っ ているクリスマスの出来事がいったい何を意味するのかということを、自分 自身との関わりにおいて深く思い巡らすということは、それにもまさって重 要なことです。そこで今年は、この短い言葉の中に言い表されている三つの ことに注目したいと思います。 ●《言》は肉となった  第一に、私たちが祝っているのは、「《言》が肉となった」という出来事 だということです。すなわち、私たちは単に偉大な人間の《誕生》を祝って いるのではない、ということです。私たちがキリストについて考える時、あ のベツレヘムの馬小屋から始めるのでは十分ではないのです。その前がある のです。私たちは「初め」まで遡らねばなりません。ここで《言》と呼ばれ ているお方は、「初め」からおられるお方です。1節にはこう書かれており ました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1 節)。そのお方は初めから神と共におられた神です。ですので、そのお方に ついては、18節では「父のふところにいる独り子である神」と呼ばれてい ます。「ふところにいる」という表現は親密な交わりを表しています。父な る神と愛の交わりにあった子なる神――その方が人間となって来られました。 イエス・キリストとは、そのような肉となられた「子なる神」なのだ、と聖 書は教えているのです。  しかし、それにしても、ここで「子なる神が肉となった」と書かれずに、 「言は肉となった」と表現されているのはなぜでしょう。このことについて は多くのことが語られ得ると思いますが、今日はただ一つのことだけに触れ たいと思います。それはヘブライ語において、「言葉」という単語は同時に 「行為」や「出来事」をも意味する、ということです。それはある意味では、 極めて現実的な物の見方であると言えるかもしれません。というのも、私た ちは現実に口から発せられた言葉が良きにせよ悪しきにせよ《事を為してし まう》ことを体験的に知っているからです。一度口から出してしまったらも う手遅れで、その言葉が次々と事を引き起こしてしまうということがあるで しょう。だから「言葉」は同時に「行為」であり「出来事」でもあるのです。 そのような意味合いにおいて、御子なる神は「言」である、というのです。 すなわち、イエス・キリストがこの世に生まれ、この地上に生きられたとい うことは、この世に対する神の語りかけであると同時に、神の行為であり、 神による出来事なのだ、ということです。  このことは、私たちの救いに関わることであるゆえに、特に強調されねば なりません。もし人間に必要な救いが、単に精神的な解放や心の安らぎであ るならば、そのような救いは人間の言葉によっても得られます。あるいは、 人間に必要な救いが、抑圧からの解放や様々な苦痛からの解放であったとし ても、それは人間の手によって実現され得るでしょう。同様に、できるだけ 苦痛を経験せずに穏やかに死ぬことが救いであるなら、今日の終末医療が目 指しているように、それも人間の手によって実現され得ることです。  しかし、聖書は人間に必要とされる救いをそのようなところに見てはいな いのです。もっと根本的な問題があるのです。枝が枯れて葉が落ちていると するならば、それは根が腐っているからです。根っこが問題なのです。その ように、人間の根元的な問題は、人間が神に背いているところにこそあると 見ているのです。神との断絶――神との交わりを失い、神の愛を失い、神の 光を失い、神の命を失っていることこそが問題なのです。  そして、その問題に対して人間は全く無力です。なぜなら、神に背いてき た人生そのもの、神の御前に明らかとなっている人間の罪の事実そのものを、 人間はどうすることもできないからです。禁断の木の実を食べたアダムとエ バが、神の顔を避けて身を隠したように、人間は皆、神の顔を避けて生きざ るを得ないのです。  それゆえに、神御自身が回復してくださるのでなければ、神との交わりは 全く回復され得ないのです。神の愛の語りかけと共に、神の御手が伸ばされ るのでなければ、人が神との交わりへと救われることはないのです。だから 神は語られたのです。神は行動されたのです。「言が肉となった」のです。 肉となった神の「言」こそ、イエス・キリストに他ならないのです。 ●言は《肉となった》  そして第二に、私たちが祝っているのは、言が《肉となった》という出来 事であることを心に留めたいと思います。《肉となった》という言葉をもっ て言い表されているのは、「完全に私たちと同じ人間となられたのだ」とい うことです。  人間であることが「肉」と表現される時、そこに肯定的な喜ばしい響きは ありません。確かに私たちがこの世界に目を向ける時、人間が織りなすこの 社会の諸相に目を留める時、そして自分自身の有様を見つめる時、私たちは 人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることは困難です。私たち は繰り返し、人間であることは悲しいことだと思い知らされます。人間であ ることの醜さと向き合わされます。私たちが目にしている人間の現実、それ が「肉」であるということです。  それはあたかも深い穴の底でもがいているようなものです。暗い穴の底に は泥水が溜まっています。その中に落ち込んで泥の中に沈んでいるのです。 穴から這い上がれば良いことは分かります。泥水の中にいてはならないこと も分かります。そのためには壁をよじ登れば良いことも分かります。しかし、 手をかけても、足をかけても、滑ってもとの泥の中に落ちてしまうのです。 穴の外までは到底登ることはできません。それが「肉」である私たちの現実 です。  しかし、言は《肉となった》と聖書は言うのです。いわば、その深い穴の 中に自ら降りてきてくださったのです。穴の外から「上がってきなさい」と 叫んでいるのではなく、自ら穴の中に飛び込んできてくださったのです。そ して、穴の底で泥だらけになっている私たちと共に、泥だらけになってくだ さったのです。そのように言が《肉となった》ということにおいて明らかに されているのは、神の愛に他なりません。私たちが神を求めたのではなく、 神が肉なる私たちを求めてくださったのです。私たちが神を愛したのではな く、神が私たちを愛してくださったのです。  しかし、御子なる神は、ただ単に《人間であること》を私たちと共有する ために来られたのではありません。ただ単に人間であるゆえの悲しみや苦し みを共有するために肉となられたのではありません。それならば、人間とし てこの地上を生きるだけで良かったのです。しかし、福音書はイエス・キリ ストの御生涯のほとんどの部分に関して沈黙しています。むしろその大きな 部分を、最後の一週間を伝えるために割いているのです。キリストは十字架 にかけられて死なれたのです。言が肉となられたのは十字架の上で死ぬため でありました。そうです、飼い葉桶に生まれた幼子イエスは、十字架にかけ られて死ぬために生まれたのです。  そのように、御子なる神は、私たちと《人間であること》を共有してくだ さっただけではありません。自ら肉となって、肉なる私たちの全ての罪をそ の身に負ってくださったのです。イエス・キリストは私たちの罪のために死 んでくださったのです。こうして、肉なる私たちが神と共に生きる道が開か れました。人間の罪によって神との交わりが引き裂かれていたのですから、 人間の罪が取り除かれて、交わりが回復されるのです。言が《肉となった》 のはそのためでありました。 ●わたしたちの間に宿られた  そして第三に、私たちが祝っているのは、肉となった言が、《わたしたち の間に宿られた》という出来事だということを心に留めねばなりません。  「宿られた」というのは「テントを張って住む」という意味の言葉です。 「言」は権威を振りかざして入り込んできたのではありませんでした。「言 」はまるで寄留者であるかのように、テントを張って宿られたのです。それ は実につつましやかな宿りです。ですからそのように宿られた「言」を人間 は受け入れることもできれば、拒否することもできるのです。「言は自分の 民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11節)と書かれている通 りです。  「言」は「行為」であり「出来事」でもあると申しました。神の全き愛か ら出た行為であり出来事であっても、神は人間に無理強いしようとはされま せん。神は「言」が信仰をもって受け入れられることを望んでおられるので す。神との交わりは力づくの強制によっては生み出されないからです。交わ りとはそういうものなのです。  私たちが「言」を受け入れるとき、私たちは神との交わりに生き始めます。 聖書が朗読されている時、ここから文章の調子が変わったことにお気づきに なりましたでしょうか。ここから「わたしたち」という言葉が出てくるので す。ヨハネはここから「わたしたち」のこととして語り始めるのです。クリ スマスを祝うに当たって、最も重要なことは一般的な世と「言」との関わり ではありません。「わたしたち」――わたしやあなたと「言」なるキリスト との関わりなのです。