「兄弟のために命を捨てる」                        1ヨハネ3・14‐18 ●死から命へと移った  私たちが毎週口にしています使徒信条は「永遠の命を信ず」という言葉で 終わります。私たちに与えられる究極的な救いが「永遠の命」と表現されて おります。それは来るべき世の命であり、神の国における命であり、罪と死 から解放された命です。私たちはそのような命にあずかることを待ち望んで いるのです。しかし、救いが「永遠の命」と表現される時、それは単に未来 に属する事柄ではありません。ヨハネは信仰者として、この永遠の命を既に 経験し始めていることについて語っているのです。「わたしたちは、自分が 死から命へと移ったことを知っています」(14節)と。  「永遠の命を信ず」という信仰告白は、使徒信条の第三の区分、すなわち 「我は聖霊を信ず」から始まる区分に属します。そのように、私たちが永遠 の命にあずかるのは、神の霊のお働きにおいてです。既にあのペンテコステ の日より聖霊は注がれているのですから、私たちは既に永遠の命を経験し始 めているということになります。  ですから、パウロもまた、私たちに与えられた聖霊を「保証」と呼んでい ます。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたち に油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押し て、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」(2コリ ント1・21‐22)。「保証」というのは、いわゆる「手付け金」を意味 する言葉です。約束されているものの全体を受け取る前に、既にその一部を 受け取っているのだ、ということです。これがキリスト教信仰における経験 です。既に与えられている永遠の命の経験です。  では、ヨハネは、この永遠の命を具体的にどこにおいて経験しているので しょう。先ほど引用した14節は次のように続きます。「わたしたちは、自 分が死から命へと移ったことを知っています。《兄弟を愛しているからです 》」(14節)。このように、永遠の命は愛することにおいて経験されるの です。永遠の命の経験は、互いに愛し合う交わりの中にあるのです。  さて、このことは、私たちの救いの完成についても、大切なことを教えて いるように思います。永遠の命とは、ただ単に人間が個人として受ける何か ではないのです。私たちが永遠の命にあずかるということは、完全な愛の交 わりの中に生かされることに他ならないのです。それは神との交わりである と同時に隣人との交わりです。永遠の命は、そのような愛の交わりの中にあ るのです。(ですから、個人として、孤独のうちに救いを求めていく信仰の 形態は、キリスト教信仰の本来のあり方ではありません。)  そもそも命の源である神御自身が、その内に愛の交わりを持っているのだ と、私たちは教えられております。神が三位一体の神であるとはそういうこ とです。そして人間もまた、一人として創造されたのではなく、複数として、 男と女として創造されたのだと教えられております。「男と女に創造された 」(創世記1・27)と書かれているとおりです。交わりがあって初めて人 間なのです。人間は互いに愛し合う存在として造られたのです。ですから、 救いの完成は、互いに愛し合う人間としての完成に他なりません。そのよう に、救いの完成である永遠の命は、愛の交わりの中にこそあるのです。  そして、そのような永遠の命を、私たちはこの地上における不完全な愛の 交わりの中においても、既に経験し始めるのです。しかし、全く逆のことも 起こり得ます。人が愛において永遠の命を経験するように、人は憎しみにお いて死を経験いたします。続けてヨハネが次のように語っているとおりです。 「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人 殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がと どまっていません」(14節後半‐15節)。  「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とは実に激しい言葉です。しかし、そ れは憎しみというものがいかに命から遠いかを知るゆえの激しさなのでしょ う。他の人について「こんな人はいない方が良い」と考えていることについ ては、憎んでいる人であっても、実際に人を殺す人であっても変わりません。 その思いそのものが、永遠の命とは対極にあるのです。人を憎んでいる時、 そして憎んでいる自分を正当化している時、その人は生物学的に生きていた としても、経験しているのは永遠の死そのものなのです。  では人はいかにして憎む者ではなく、愛する者となるのでしょう。「わた したちは、自分が死から命へと移ったことを知っています」とヨハネは言い ました。それは「兄弟を愛しているからだ」と言っています。しかし、その 愛も命も、もともとヨハネが持っていたものではありません。「死から命へ 移った」と言っているのですから。その愛は与えられた愛なのです。愛は愛 を通してのみ与えられます。愛されて、愛を知らされて、愛する者とされる のです。ヨハネはどこにおいて愛を知ったのでしょうか。16節は、原文で は「ここにおいて愛を知った」という言葉から始まります。ヨハネの手紙に は、「ここにおいて」という言葉が、実に頻繁に出てきます。彼はひたすら に、ただ一点を指し示しているのです。「ここなのだ」と。その指の先には キリストがおられるのです。彼は言います。「イエスは、わたしたちのため に、命を捨ててくださいました」(16節)。彼が指し示すその指の先には、 十字架にかけられているキリストがおられるのです。  このように、命をもたらす聖霊のお働きは、十字架にかけられたキリスト と切り離すことはできません。聖霊は、キリストの十字架の意味を私たちに 示します。キリストが、他ならぬ私たちのために命を捨ててくださったこと を悟らせます。聖霊は、キリストが命を捨ててくださるほどに私たちを愛し てくださったことを、私たちに証しします。聖霊によって、「イエスは、わ たしたちのために命を捨ててくださいました」と言い表す者とされるのです。 そのようにして、私たちは死から命へと移されるのです。それゆえに、「死 から命へと移される」ということは、その次の言葉を聞く者とされる、とい うことでもあります。何と書かれているでしょうか。「だから、わたしたち も兄弟のために命を捨てるべきです」(16節)と書かれているのです。 ●兄弟のために命を捨てる  しかし、そうは言いますものの、「兄弟のために命を捨てる」という言葉 が現実味を帯びるような場面が、私たちの人生においてどれほどあると言え るでしょうか。「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」というヨ ハネの言葉は、確かに理屈としては分かりますが、私たちの日常とはあまり にもかけ離れた言葉であると言えないでしょうか。  実は、今日の私たちだけでなく、殉教ということがあり得た当時の教会の 人々にとっても、「兄弟のために命を捨てる」という言葉は、それほど日常 と結びついた言葉ではなかったのです。そのことをヨハネは重々承知してい るのです。ですから、ヨハネはすぐにこれを身近な具体的な事柄に置き換え て語り直します。彼はこう言うのです。「世の富を持ちながら、兄弟が必要 な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような 者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをも って誠実に愛し合おう」(17‐18節)。  そのように、「兄弟のために命を捨てる」と言いましても、何もそこで死 に方を考える必要はないのです。結局そこにあるのは、《この命をどう用い るのか。この地上の生をどう用いるのか》という問題だからです。そして、 《この命をどう用いるのか》と言いましても、何も大きなことを考える必要 はないのです。皆がインドのカルカッタに行ってマザー・テレサのようにな る必要はないのです。兄弟は身近にいるからです。重要なのは、ごく当たり 前の日常のことであり、そこで私たちがこの地上の生活と、生活に関わるす べてのモノを身近な兄弟のためにどう用いるか、ということなのです。  特に、ここでヨハネが触れているのは、教会の中における事柄です。この ヨハネの言葉の背景にあるのは、富める者が貧しい者を支えることによって 成り立っていた、当時の教会の状況です。そこで私たちは必ずしも個人の間 における直接的な物のやりとりだけを考える必要はありません。使徒言行録 を読みますと、そこには皆が持っているものを使徒たちのもとに集め、それ が必要に応じて分配されるという、初期の教会の姿が描かれています。そも そも、「主の晩餐」がそのように行われていたのです。初めの頃の教会にお いては、「主の晩餐」と通常の食事(愛餐)の区別は必ずしも明確ではあり ませんでした。そこでは食べ物を提供することのできる者がそれぞれ持ち寄 り、それが神に奉献され、分かち合われて食事がなされたのです。そこでは 貧しい者も食べることができました。富める者も貧しい者も皆が食事をする ――そこに愛し合う者たちによって捧げられる、主の食卓を囲む礼拝があっ たのです。  さて、今日の私たちは通常、食べ物を教会に持ってくることはありません。 持ち寄った食べ物によって聖餐を行うわけでもありません。しかし、かつて 行われていたことは、形を変えて残っております。献金です。私たちは礼拝 において献金をいたします。教会員であれば月次献金を献げます。これはも ちろん神に献げるから「献金」と呼ばれているのです。しかし、もう一方に おいて、私たちの献金によって教会のすべての営みは支えられています。す なわち、私たちの献げ物は、他の誰かの信仰生活を支えているのだ、という ことです。そのように互いに支え合っているのです。「兄弟のために命を捨 てる」ということは、そのように私たちの「献金」においても起こるのであ り、そこにおいても私たちは永遠の命を経験することができるのです。  また、それは私たちの奉仕においても起こることです。「この世の富」は、 今日の私たちにとって、必ずしもお金とは限りません。私たちの持っている 能力であるかもしれませんし、時間であるかもしれません。それを互いのた めに差し出すことにおいて、「兄弟のために命を捨てる」ということは起こ ります。教会における様々な奉仕は課せられた重荷なのではありません。そ れは「兄弟のために命を捨てる」という経験であり、互いに愛し合うという 具体的な経験なのであり、それはすなわち永遠の命の経験に他ならないので す。  繰り返しますが、この「兄弟のために命を捨てるべきである」という言葉 は、「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのこと によって、わたしたちは愛を知りました」という言葉に続いています。その 前提と切り離すことはできません。ですから、何よりも大事なことは、ヨハ ネがひたすら指し示しているその方向に私たちの目を向け、聖霊によって、 「わたしたちは愛を知りました」と言い表す者としていただくことなのです。