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「来て、見なさい」

2005年1月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章35節~51節

    

 これから三月までの聖書朗読はヨハネによる福音書です。福音書には、か つてこの地上を歩まれた主イエスの姿が描かれています。しかし、それはた だ単に過去の出来事を伝えるために書かれたのではありません。ある人は、 この福音書の性格を次のように表現しました。「福音書の性格は、過去の人 (生前の)イエスを描くという仕方で、同時に現在の人(教会の主として現 臨する)イエスをも描き出し、さらに未来の人(再臨の)イエスをも重ね合 わせて証示するところにある。」ですから、これを読みます私たちも、ただ 単にナザレのイエスとはどのような人物であったか、ということを知るため にこの福音書を読むのではありません。私たちはこの福音書の中に、今も生 き、働き、語り給う復活のキリストの姿を見るのであり、同時に2005年 の現在を生きている私たちの姿を見い出すのです。

●何を求めているのか

 そのような私たちが、ヨハネによる福音書において最初に目にする主イエ スの言葉は38節の言葉です。「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを 見て、『何を求めているのか』と言われた」(1・38)。これは主イエス の弟子となろうとついて行った者たちに対する最初の問いであると同時に、 この福音書を読もうとしている私たちに対する最初の問いでもあります。人 が教会の門を叩くとき、そこにある求めは人によって様々です。最初に何を 思って教会に来たかをここにいる十人の人に問うならば、十通りの答えが返 ってくることでしょう。そのような私たちに、主は改めて問われるのです。 「何を求めているのか」と。

 もともとここに出てくる二人は洗礼者ヨハネの弟子でした。そのような彼 らが主イエスについて行った経緯は次のように記されています。「その翌日、 また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを 見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イ エスに従った」(1・35‐37)。洗礼者ヨハネは、その前日にも同じこ とを語っています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1・29)。 その時にも、この二人の弟子はヨハネと共にいたのでしょう。そのようにヨ ハネが繰り返し語るのを聞いて、意を決して彼らは主イエスについて行った のです。

 洗礼者ヨハネが語った言葉を、二人がどの程度理解していたかは分かりま せん。しかし、重要なことは、彼らが「神の小羊」について行ったというこ となのです。そして、その「神の小羊」が振り返って言われるのです。「何 を求めているのか」と。その「神の小羊」は、「成功を与える神の小羊」で も「苦しみを取り除く神の小羊」でもないのです。洗礼者ヨハネが証しして いるように、「世の罪を取り除く神の小羊」なのです。

 「何を求めているのか」と問われて、彼らはこう答えました。「ラビ―― 『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」(1・38)。 すると主イエスはこう答えられました。「来なさい。そうすれば分かる」 (1・39)。たあいのないやり取りに見えます。表面的に見るならば、主 イエスが言っておられるのは、「どこに泊まっているか、ついてきて自分の 目で確かめたらよいでしょう」ということです。ですから、「彼らはついて 行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエ スのもとに泊まった」と書かれているのです。

 しかし、実は、この「泊まる」と訳されている言葉は「とどまる」という 意味の言葉でありまして、この福音書に実に頻繁に出てくる大事な言葉なの です。あえてそのような言葉を用いて、この二人の弟子たちが、主イエスは どこに「とどまっている」かを見て、自分たちもイエスのもとに「とどまっ た」ということが書かれているのです。そして、この《主イエスがどこにお られるのかを見て、その主イエスと共にとどまる》ということは、この福音 書において繰り返し現れる重要なテーマなのです。

 それでは主イエスはどこにおられるのでしょうか。今日は一箇所だけ見て おきましょう。17章21節をお開きください。主イエスが十字架にかから れる前夜に弟子たちと共にされた食事において捧げられた祈りの言葉です。 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、 すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにして ください」(17・21)。このように、御子は御父の内におられ、御父は 御子の内におられるのです。そのような父なる神との完全な愛の交わりの内 に主イエスはおられるのです。そのことを私たちは、この福音書において見 ることになるのです。

 「来なさい。そうすれば分かる」(直訳すると「来なさい。そうすればあ なたたちは見るだろう」)と主は言われます。主イエスが見せようとしてい るのは、この交わりなのです。主イエスが与えようとしているのは、この交 わりなのです。主イエスが望んでおられるのは、御父と御子との交わりの内 に、私たちもおり、私たちもとどまることなのです。「彼らもわたしたちの 内にいるようにしてください」と主は祈り給うのです。

 主は私たちに「何を求めているのか」と問われます。もし私たちが富や成 功を求めているのなら、あるいは苦しみからの解放を求めているだけならば、 そのお方は「世の罪を取り除く神の小羊」である必要はありません。しかし、 もし私たちが、主イエスがどこにおられるのかを見、そこに一緒に留まろう とするならば、すなわち主イエスが父なる神との愛の交わりの内にあること を見、そこに一緒に留まろうとするならば、そのお方は「世の罪を取り除く 神の小羊」でなくてはなりません。なぜなら、罪が赦され、罪が取り除かれ ることなくして、神との交わりはあり得ないからです。

 主イエスについて行った弟子たちは、やがて本当の意味で主イエスがどこ にいるのかを見ることになります。そしてまた、主が「世の罪を取り除く神 の小羊」であるということがどういうことかを見ることになるのです。十字 架の上で屠られる神の小羊を見ることになるのです。

●知っておられる主イエス

 しかし、そのような《主イエスに向けられる眼差し》だけが重要なのでは ありません。ヨハネによる福音書においては、《主イエスが向けられる眼差 し》もまた重要な意味を持つのです。

 主イエスに従った二人の弟子たちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレ でした。彼は兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシアに出会った」と伝 え、シモンを主イエスのもとに連れていきます。ここで興味深いのはその出 会いの場面の描写です。こう書かれています。「イエスは彼を見つめて、 『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――「岩」という意味――と 呼ぶことにする』と言われた」(42節)。初めてペトロに会うという場面 であるのに、主は既にペトロを知っており、またその鋭い目ですべてを見通 しておられるかのように描かれているのです。

 実際、ここで主が与えた名前「ケファ」(ギリシア語化すると「ペトロ」) は、後の彼の人生にとって、そして後の歴史にとって決定的に重要な意味を 持つことになります。それは、マタイによる福音書が次のように伝えている とおりです。ペトロが後に、主イエスに対して「あなたはメシア、生ける神 の子です」と言った時、主イエスはこう答えられたのでした。「わたしも言 っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)。その「岩(ケファ) 」という名前は、既に最初の出会いの時に、シモンを見つめられた主イエス によって与えられていたことが、今日の聖書箇所に記されているのです。い わばその名前は既にシモンのために用意されていたのです。

 私たちが主イエスに出会う前に、主は既に私たちを知っておられる――。 そのことを考えさせられる場面です。そのことは、ナタナエルが弟子となっ た場面において、より強調されて語られています。

 フィリポがナタナエルに「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者た ちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」 と言った時、ナタナエルの反応は冷ややかでした。彼は言いました。「ナザ レから何か良いものが出るだろうか。」もちろん、彼はメシアを待望してい なかったわけではありません。イスラエルの伝統に生きる者として、彼もま たメシアを待ち望んでいたことでしょう。しかし、彼はナザレ出身のメシア は信じたくなかったのです。ナザレはガリラヤの小さな町に過ぎず、イスラ エルの歴史において何ら重要性をもった町ではなかったからです。そんな片 田舎からメシアが出るわけがない、と彼は笑ったのです。

 いずれにしても、ナタナエルはまだ主イエスに会ってはいません。見ても いません。知ってはいないのです。知った上で、「これは違う」と言ってい るのではありません。悲しいかな、人間はこのように先入観に凝り固まり、 偏見に囚われて、はじめから戸を立ててしまいます。しかし、ナタナエルが 近づいてきたとき、主イエスはこう言われたのでした。「見なさい。まこと のイスラエル人だ。この人には偽りがない」(1・47)。ナタナエルは、 明らかに懐疑的な眼差しをもって近づいてきたことでしょう。「ナザレから 何か良いものが出るだろうか」というような侮蔑に満ちた態度で近づいてき たことでしょう。しかし、主イエスは彼の内にある真実な心を見ておられた のです。

 ナタナエルは、主イエスが唐突に自分のことを語られたので、「どうして わたしを知っておられるのですか」と尋ねました。すると主は、「わたしは、 あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見 た」と言われました。このように主イエスは、ナタナエルがフィリポから声 をかけられる前に、既に彼のことを知っておられたのです。主はナタナエル がいちじくの木の下にいるのを見ておられました。いちじくの木の下という のは、伝統的にユダヤ人にとっては祈りと瞑想の場所です。彼は、一人のま ことのイスラエル人として、メシアを待ち望みつつ、自らと同胞の救いを求 め、切なる祈りを捧げていたことでしょう。そこには、他の誰も入り込めな い、彼のみが知る苦悩があったに違いありません。しかし、その彼の祈りの 姿に主イエスは目を注いでおられたのです。

 私たちは、この福音書を通して、今も生き給う復活のキリストを知ろうと しています。そこには私たちが見るべきことがあり、知るべきことがありま す。しかし、もっと重要なことは、私たちが見る前に、知る前に、既に主が 私たちを見ていてくださり、知っていてくださるということなのです。その ことを思いつつ、これから三月まで、この福音書を共に読み進んでまいりま しょう。

 
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