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「カナの婚礼」

2005年1月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 2章1節~12節

    

●ぶどう酒がなくなりました

 「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」(1節)と 書かれております。主イエスと弟子たちは「招かれた」と書かれていますの で、イエスの母マリアは特別な立場にあったものと思われます。折しも宴会 のぶどう酒が足りなくなるということが起こりました。そこでマリアが主イ エスのところに行って事情を伝えます。「ぶどう酒がなくなりました」(3 節)。すると主イエスは答えました。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあ るのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。

 「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです」という返答は、あまりに も冷たいものに思われます。そこで古来より様々な説明が試みられてきまし た。しかし、ここは素直にそのまま読むべきであろうと思います。主イエス は明らかにマリアの求めを拒否しておられるのです。ぶどう酒がなくなった から何とかしてくれ、という求めを斥けられたのです。同時にマリアとの間 にも一線を引くのです。そのようにして、単にマリアの息子としてそこに存 在しているのではないことを示しておられるのです。主イエスは、神から遣 わされた者であり、神によって定められた「わたしの時」へと向かっておら れるのです。

 では主イエスは、マリアの願いを斥けて、いったい何をなさったのでしょ うか。水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたのだ、と今日の聖書箇所 は伝えます。「なんだ、結局はマリアの求めに答えられたのではないか」― ―確かに、結果的に見ればそうです。しかし、この福音書を書いたヨハネは、 主イエスがマリアの願いを聞き入れて、祝宴が事なきを得たことに注目して いるのではありません。この出来事を次のように締めくくっているのです。 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現さ れた。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。つまりこれが最初 の「しるし」であったこと、そして主イエスが「栄光を現された」ことに注 目し、そのことを伝えようとしているのです。

●最初のしるしを行われた

 第一に、これが最初の「しるし」であったことについて考えてみましょう。 ある出来事が起こるとき、その出来事の意味がその時には分からないという ことがあります。主イエスが語られたこと、主が行われたことについても、 その意味が当時の弟子たちにすべて理解されたわけではありません。いやむ しろ福音書は弟子たちの無理解を隠すことなく伝えます。ですから、他の福 音書においては、主イエスがたびたび弟子たちに口止めをしています。「イ エスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」 (マルコ8・30)。まだ主イエスのことを語ってはならなかったのです。 主イエスが十字架にかかられ、復活されるまでは、まだ本当に見るべきこと を見てはいなかったからです。後にならねば理解され得ないことがあったか らです。

 このカナの奇跡も主イエスが為されたことを伝えるひとつのエピソードと して、教会において語り継がれてきたのでしょう。しかし、その主イエスの なさった奇跡が、実は非常に大事なことを指し示しているのだということを、 ヨハネは後になって知るに至ったのです。それゆえに、ヨハネはこの奇跡を 「しるし」と呼んでいるのです。「しるし」にとって重要なのはそれ自体で はありません。それが何を指し示しているのか、ということです。そこで、 もう一度、主イエスのされたことを振り返ってみましょう。

 主イエスは「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。その水 がめは、わざわざ「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」であったと説明さ れています。二ないし三メトレテスとは、大体80から120リットルぐら いです。大変大きな水がめです。当時はどこの家にもこのような水がめがあ りました。そこに入っている水は、外の汚れを落とすという意味もありまし たが、むしろ主に清めの儀式のために用いられたのです。厳格なユダヤ人は 実にしばしば清めを行ったのです。衣服や器物、手や体など、汚れを受けた と思われるものを洗い清めたのでした。食事のたびに手を清め、時には食事 の最中にまで手を清めるのです。

 このような「清めの儀式を守ること」、あるいはもっと広く「戒律を守る こと」は、往々にして二つの意識と結びついているものです。一つは「恐怖 」です。清めを行わないことが災いに結びつくことに対する恐怖。戒律を守 らないことに対して罰が下るのではないかという恐怖。戒律を守らないこと を他者から非難されることに対する恐怖。人はその恐怖に駆られて定められ たことを行い続けます。そのようにして、戒律にしばられた生活は形作られ ていきます。

 もう一つは「優越感」です。自分が「一生懸命に何かを守っている」とい う意識をもっている人は、同じように何かを遵守している人の方に目は向き ません。いつでも「守っていない人」の方に目が向きます。そのような人と 自分とを比較します。守っていない人を見下します。裁きます。そうやって 自分の優位性を確保します。自分は宗教的に他の人よりも優れた者であると いう意識が戒律にしばられた生活を支えます。

 その原動力が恐怖であるにせよ、優越感であるにせよ、そのような宗教的 な生活が、命に満ち溢れた喜びとは全く無縁であることは明らかです。その 意味において、この「清めに用いる石の水がめ」は、そのような喜びのない 宗教生活を象徴的に示しているものであったと言えるでしょう。

 しかし、ここで何が起こっているでしょう。主イエスはその「清めに用い る石の水がめ」の水を、芳醇なぶどう酒に変えられたのです!これはまさに 真理を指し示す主イエスのデモンストレーションでありました。

 ぶどう酒は旧約聖書においてしばしば救いの喜びを表します(アモス9・ 14)。婚宴も同じです(イザヤ61・10)。この奇跡の業は、主がその ような大いなる喜びをもたらすために来られたことを示します。一生懸命に 何かを行っているかもしれないけれど、その根底にあるのは恐怖か優越感で しかない――そのような命のない宗教生活に代えて、命に溢れた救いの喜び をもたらすために、主は来られたのです。清めの水に代えて喜びのぶどう酒 をもたらすために来られたのです。この出来事は、まさに主イエスがなそう としておられたことを指し示す「しるし」に他ならなかったのです。

●栄光を現された

 そのことは、第二に、主イエスが「その栄光を現された」こと密接に結び ついています。

 実は、この清めの儀式に関しては主イエスとユダヤ人の間に論争があった ことが伝えられています。マルコ7章をご覧ください。「ファリサイ派の人 々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする 者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人 の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、ま た、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。その ほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守って いることがたくさんある」(マルコ7・1‐4)。そして彼らは、なぜ汚れ た手で食事をするのか、と責めるのです。このようなことがあった後、主イ エスは弟子たちにこう言われました。20節からお読みします。「人から出 て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て 来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好 色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、 人を汚すのである」(同7・20)。

 要するに、人々は汚れを清めるために一生懸命に清めの儀式をするけれど も、自らを汚し、人を汚すものは外から来るのではなくて、内から出るのだ と主は言っておられるのです。神から見るならば私たちは内から汚れが出て くるような、徹底的に汚れたものだということです。本当に問題にしなくて はならないのは、人間の内面深くにまで及ぶ罪の問題なのです。そして、人 間の罪の問題は、清めの儀式として手を洗うことによって、形式的に戒律を 守ることによって、どうにかなるようなものではないのです。

 しかし、主イエスは、そのような清めの儀式なし得なかったことを、自ら 成し遂げようとしておられたのです。主イエスは、「わたしの時はまだ来て いません」と言われました。その主イエスが、「時が来た」と言われるとき 来るのです。ヨハネによる福音書12章23節を御覧ください。主はこう言 われるのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一 粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多く の実を結ぶ」(12・23‐24)。これを語っておられるのは、主イエス が十字架にかかられる直前です。主イエスは《十字架にかかられる時》を 「栄光を受ける時」と呼んでいます。それは主イエスによって救いが成し遂 げられる時だからです。

 人を神から引き離す人間の罪は、清めの水によっては取り除かれません。 戒律を守ることによっては取り除かれません。むしろ、そのことにおいて人 間の罪はますます露わになってまいります。しかし、罪のない主イエスが、 私たちの罪を贖う犠牲となってくださいました。罪を取り除く神の小羊とし て自ら贖いの血を流してくださいました。このキリストの犠牲によって、私 たちは罪を赦された者として、神との交わりが与えられるのです。神との命 の交わりに生きることができるのです。そのようにして、初めて恐怖でもな く、優越意識でもなく、神の注ぎ給う愛と喜びが、私たちの生活を形作るよ うになるのです。清めの水はぶどう酒に変えられるのです。

 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現 された」とヨハネは書きました。カナでの奇跡は、やがて十字架において完 全に現される栄光が、ちょうど雲の隙間から陽が射すように、ひととき垣間 見られた出来事だったのです。

 
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