「新しく生まれる」
2005年1月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 3章1節~16節
●新たに生まれなければ
ニコデモという人がいました。ファリサイ派に属するユダヤ人であり、ユ ダヤ人たちの議員でありました。そのような人物が、ある夜、主イエスを訪 ねて言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教 師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのな さるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。
ニコデモは主イエスのなさった何かを見たのです。それが何であったかは 分かりません。しかし、それが何であれ、彼はそこに、主イエスが「神のも とから来られた教師」であることを示すしるしを見たのでした。それゆえ、 彼は主イエスに対して「ラビ」と呼びかけ、語りかけます。
「ラビ」「教師」と言えば、それは言うまでもなく、律法の教師のことで す。主イエスを律法の教師と見なして訪ねてきたのですから、ニコデモが知 りたかったことは明らかです。「何をすればよいのか」ということです。す なわち、何をすれば神の国に入れるのか、永遠の命を受け継ぐことができる のか、ということです。そのような問いをもって主イエスのもとに来たのは ニコデモだけではありません。他の福音書にも、「永遠の命を受け継ぐには、 何をすればよいでしょうか」と言って訪ねてきた富める青年の話が記されて います(マルコ10・17以下とその並行箇所)。そのような人は少なくな かったのかもしれません。
そのように、ニコデモは主イエスを律法の教師と見なして訪ねて来たので すが、実は彼自身、「イスラエルの教師」(10節)でありました。ですか ら、これまで彼が教えてきたことがあり、自ら行ってきたことがあったはず です。それにもかかわらず、主イエスのもとに来たのは、まだ何か不足して いると思ったからであるに違いありません。神の国に入るにはまだ十分では ない。「神のもとから来られた教師」でなければ分からない何かがまだある はずだ。そう思ったから、主イエスのもとに来たのです。
しかし主は、そんな彼に何と答えられたでしょうか。今まで行ってきたこ とに何かもう一つ付け加えたら良い、とは言われませんでした。主はこう答 えられたのです。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神 の国を見ることはできない」(3節)。
これは実に衝撃的な言葉であると言わざるを得ません。考えても見てくだ さい。人は自分の生きてきたあり方をある程度肯定しながら、それに何かを 付け加えようとしているものです。何か良い教えを受けて《より善く》なり さえすれば、それで私は救われるのだ、と考えている人は少なくありません。 何かが不足しているならば、補えば良いと思っているものです。ニコデモの ように、それまで真面目に善いことを行い、救いを求めて真剣に生きてきた 人ならば、なおさらでしょう。しかし、イエスというお方は、そのような真 面目な努力に満ちた人生を、いわば一刀両断、切り捨ててしまわれるのです。 「新たに生まれなければならない」とは、そういうことでしょう。人間にと って《誕生》は人生の出発点です。ですから「新たに生まれなければならな い」とは、いわば「今までの人生に不足している何かを付け加えるのではな い。全く新しく、ゼロからのスタートなのだ」ということです。「新たに生 まれなければ、神の国を見ることはできない」と。
それに対してニコデモは言います。「年をとった者が、どうして生まれる ことができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるで しょうか」(4節)。この言葉に見るように、ニコデモは既に老年に達して いたものと思われます。人間、年を取れば取るほど、人生は後戻りができな いという現実の厳しさと、向き合わざるを得なくなります。先ほど、「人は 自分の生きてきたあり方をある程度肯定しながら、それに何かを付け加えよ うとする」と申しました。確かに、ある程度の肯定がなかったら、生きてい くことはできません。しかし、もう一方で、初めからやり直せたらどんなに 良いだろうか、と思う瞬間が、人には一度ならずあろうかと思います。もう 一度母親の胎内に入って生まれることができたなら、新たに生まれることが できたなら、と。しかし、それはあり得ないのです。後戻りはできないので す。ゼロからのやり直しはきかないのです。分かっているのです。ニコデモ が口にしているのは、そのような現実と向き合わざるを得ない人間の悲痛な 叫びです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」。
しかし、主イエスは言われます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊 とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた ものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生 まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思い のままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行 くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(5‐8節)。
主はあくまでも、新たに生まれることはできる、と言われるのです。「新 たに生まれねばならない」という言葉に驚くな、と言われるのです。どんな に老年になっても、新たに生まれることができる。どのようにしてでしょう か。「新たに生まれる」という言葉が、ここでは「水と霊とによって生まれ る」と言い換えられています。人は水と霊とによって、新たに生まれること ができる、と主は言われるのです。
ここで「水」という言葉はバプテスマを指していると考えて良いでしょう。 主イエスの時代から二千年を経た今日もなお、教会は水を用いてバプテスマ を授けます。そのように教会は水を用いたバプテスマを大切にしてきました。 しかし、バプテスマがいかに重要な聖礼典であろうと、その水そのものが、 人を新たに生まれさせるのではありません。水はあくまでも水です。人を新 たに生まれさせるのは、そこに働き給う「霊」、すなわち神の霊、聖霊です。
確かに人間は人生を後戻りすることはできません。今の年齢より決して若 くはなりません。母の胎に戻ることはできません。しかし、《神は》人を新 たに生まれさせることがおできになるのです。まさにここからスタートであ る、と言えるような、決定的な人生の出発点を、神はその御霊によって人間 にお与えになることができるのです。
●上げられた人の子のゆえに
しかし、ニコデモはなおも「どうして、そんなことがありえましょうか」 と食い下がります。そこで主イエスが語られたのが10節以下の長い答えで す。もっとも、原文には鍵かっこがありませんから、どこまでが主イエスの 言葉であり、どこまでが福音書記者の説明であるのか、その境は必ずしも明 瞭ではありません。しかし、それは大したことではありません。大事なこと は、ニコデモと共に「どうして、そんなことがありえましょうか」と問いか け、ニコデモと私たちに対する答えをしっかりと聞き取ることです。
主は、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを 話したところで、どうして信じるだろう」(12節)と言われました。「地 上のこと」というのは、これまで主が語っておられた「新しく生まれる」と いうことです。それは地上において起こることです。しかし、主イエスが語 ろうとしておられるのは、ただ「地上のこと」だけではありません。「地上 のこと」が起こるその背後に「天上のこと」があるのです。すなわち、天に おいて、人間の思いを超えたところにおいて、神によって定められている計 画があるのです。神がキリストを通して為そうとしておられることがあるの です。主イエスはその「天上のこと」を人々に伝えようとしていたのであり、 福音書はその「天上のこと」を私たちに伝えようとしているのです。
今日の聖書箇所において、その「天上のこと」は次のように表現されてい ます。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられね ばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためで ある」(14‐15節)。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」という言葉は、旧約聖書の物語か ら来ています。民数記21章4節から9節までに書かれています。次のよう な話です。イスラエルの民は神の救いによってエジプトにおける奴隷生活か ら解放されました。しかし、人々は長い旅の途中で神の恵みを忘れ、耐え難 くなって不平を言うようになります。「なぜ、我々をエジプトから導き上っ たのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な 食物では、気力もうせてしまいます」(民数記21・5)。すると「炎の蛇 」と呼ばれる毒蛇が民を襲撃して多くの人々が命を落とすということが起こ りました。彼らはこの出来事を通して自らの罪に気づき、罪を悔い、モーセ のもとに来て言います。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しま した。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」(同21・7)。
そこでモーセが主に祈ると、主は次のように命じられたのです。「あなたは 炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命 を得る」(同21・8)。さっそくモーセは青銅の蛇を造って掲げました。 すると「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」と書か れています。主イエスが語られたのは、この青銅の蛇のことです。
人々は信じて青銅の蛇を仰ぐだけで良かったのです。彼らが罪を赦されて 再び生きるために必要なことは、ただ信じて仰ぐことだけだったのです。そ して、人々が信じて仰ぐことができるように青銅の蛇がモーセによって掲げ られたのと同様に、人の子、すなわちキリストもまた上げられなくてはなら ない――それが天において定められた神の御計画でありました。これが「天 上のこと」です。
そして、主イエスが語られた「天上のこと」は、そのとおりに実現したの でした。キリストは竿に掲げられた呪われた蛇のように、呪われた者として 十字架に上げられました。私たちの罪をすべてその身に負って、キリストは 十字架に上げられて死んでくださいました。そして、今もなおすべての人が 仰ぐことができるように、信じる者が罪を赦され永遠の命を得るように、天 に上げられたのです。神の御計画は実現したのです。
「どうして、そんなことがありえましょうか」とニコデモは問いました。 「天上のこと」のゆえに「地上のこと」が与えられるのです。天における神 の御心に従い、キリストが罪の贖いを成し遂げてくださったゆえに、人は新 しく生まれることができるのです。どんな人でも、新しく生まれることがで きるのです。どんなに年を取ってからでも、新しく生まれることができるの です。なぜなら、上げられたキリストのゆえに、どんな人でも罪の赦しにあ ずかることができるからです。神に赦された者として、そこから新しく生き 始めることができるのです。神の子供として、神との交わりに生き始めるこ とができるのです。そして、神との交わりにあるならば、その人は既に永遠 の命にあずかっているのです。神の国に生き始めているのです。主イエスが 言われたように、新しく生まれるならば、その人は神の国を見るのです。