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「生きた水をわたしにください」

2005年1月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 4章1節~26節

    

               人間はしばしば渇きを経験します。肉体的な渇きは水分を補給することに よっていやされます。しかし、人が経験するのは肉体的な渇きだけではあり ません。精神的な渇きもあります。この殺伐とした世界の中で、常に潤いに 満ちた心を保つことは容易ではありません。毎日の生活の中で、他者との関 わりの中で、傷つき、干涸らびてカサカサになった心は、特別ないやしを必 要とします。そのようないやしを求めて教会に来られる方もあろうかと思い ます。しかし、人間の経験する渇きはそれだけではありません。肉体的な渇 きがいやされても、精神的な渇きがいやされても、なおいやされることのな い、より深い根元的な渇きがあります。それは「命の渇き」と表現すること ができるでしょう。そして、この命の渇きがいやされることこそ、人間にと って最も重要なことなのです。

●その水をわたしにください

 今日の聖書箇所には、一人の女の人が登場します。名前は書かれていませ ん。「サマリアの女」とだけ書かれています。彼女は肉体的な渇きを知って います。水がなければ渇きます。ですから今日も水を汲みに井戸までやって きたのです。また、彼女は精神的な渇きをも知っていたに違いありません。 後に主イエスが彼女についてこう語っています。「あなたはには五人の夫が いたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)。次々と男性を求め、 今は「夫ではない」人と共に生活をしているのは、ただ単に物質的な生活の 支えが必要だったからではないでしょう。そこにはまた精神的な必要があっ たのだと思います。彼女の遍歴は繰り返し満たされなくてはならなかった必 要、繰り返しいやされなくてはならなかった渇きを示しています。

 そのような人が主イエスと出会いました。それがこの場面です。場所はシ カルというサマリアの町です。なぜ主イエスがそこに来られたのか。「ユダ ヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなか った」(3‐4節)と書かれています。これはサマリアを通る道しかなかっ たからではありません。サマリアを通らないでガリラヤへ行くルートもあっ たのです。むしろ、普通のユダヤ人であるならば、歴史的に確執のあるサマ リア人の土地を避け、ヨルダン川の東側を通ってガリラヤに向かうでしょう。 ですから、これは状況に基づく必然ではありません。神の御心による必然で す。神の御心のゆえに、キリストはサマリアを通られ、シカルの町で一人の 女の人に出会われたのです。同じことが私たちにも言えます。私たちがキリ ストと出会い、こうして共に礼拝をしていることは、決して偶然の結果では ありません。それは神による必然なのです。キリストは、出会うべくして私 たちに出会ってくださったのです。

 そして、キリストはサマリアの女に語りかけられます。「神の賜物」につ いて、「生きた水」について語り始めるのです。「もしあなたが、神の賜物 を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか 知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた 水を与えたことであろう」(10節)。

 熱い日差しの照りつける正午ごろのことです。この人は肉体的な渇きを覚 えていたかもしれません。しかし、肉体の渇きはヤコブの井戸で汲んだ水で いやされます。あるいは精神的な渇きについても、今連れ添っている「夫で はない」人によって、ある程度はいやされていたかも知れません。しかし、 キリストは「わたしがだれであるかを知るならば、あなたは生きた水を求め るだろう」と言われました。主は、その人の内になお深い渇きを見ていたの です。肉体の渇きではない、精神的な渇きでもない、根元的な命の渇きに対 しては、生きた水、命を与える水が必要なのです。

 この「生きた水」とは何でしょう。かつて主は預言者エレミヤを通して次 のように語られました。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水 の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのでき ない、こわれた水溜めを」(エレミヤ2・13)。「生きた水」の源は神御 自身です。命の渇きをいやす生きた水は神から流れて来るのです。やがてこ の福音書を読み進んでいきますときに、生きた水とは、神から流れ来る神の 霊、聖霊に他ならないことを知ることになります(7・39)。

 では、人はどのようにして生きた水を受けるのでしょう。主イエスはサマ リアの女に、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませて ください』と言ったのが《だれであるか知っていたならば》…」と言われま した。そうです。その女の人は、目の前にいるのが「だれであるか」を、ま ず知らなくてはなりませんでした。ですから、主イエスはまず、御自分がど のようなお方であるかを明らかにされたのです。「この水を飲む者はだれで もまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたし が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13 ‐14節)。

 私たちはまず、イエス・キリストを知らなくてはなりません。このお方は 単なる偉大な教師ではありません。数ある教祖や霊能者の一人ではありませ ん。ある神学者は言いました。「イエスは、一つの新しい宗教をこの世界に もたらしたのではなく、新しい命をもたらしたのだ」と。このお方は水を与 えるために来られたのです。生きた水を与えるために来られたお方です。

 そして、主は言われました。「あなたの方から《その人に頼み》、その人 はあなたに生きた水を与えたことであろう」。そして、このサマリアの女の 人はどうしたでしょうか。「主よ、渇くことがないように、また、ここにく みに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言ったのです。 「ここにくみに来なくてもいいように」という言葉から分かりますように、 彼女の言葉は多分に誤解に基づいています。しかし、その言葉そのものは間 違っていません。「その水をください」――そう言って求めることです。与 えてくださるお方に、単純に求めたらよいのです。

●霊と真理をもって

 しかし、「その水をください」と言って私たちの眼差しをキリストに向け るということは、同時に、そのように求めている《私たち自身》がキリスト の眼差しの前に立つということでもあります。

 主イエスは水を求めるサマリアの女に、唐突にもこう言われました。「行 って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。その女はとっさに答えました。 「わたしには夫はいません」。しかし、主は言われます。「『夫はいません 』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添って いるのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(17‐18 節)。

 これは彼女にとって最も避けたかった話題であったに違いありません。わ ざわざ他の人が水を汲みに来ない正午頃に井戸にやってきたのは、このこと の故でしょう。彼女には他人に触れて欲しくない、光を当てて欲しくない、 人生の陰の部分がありました。しかし、キリストの眼差しの前では、すべて が明らかなのです。この女の人は、それまで何食わぬ顔をして、主イエスと 対等に言葉を交わしていました。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも 偉いのですか」などと言っていたのです。しかし、今や彼女は破れに満ちた 過去を引きずった、哀れな罪人としてキリストの前に立たざるを得なくなり ました。キリストの前に立つとはそういうことです。

 私たちも同じです。罪深い過去の自分をどこかに置いたまま、惨めな日常 生活の中の自分をどこかに置いたまま、あたかも自分が何者かであるかのよ うにキリストの前に立ち、上から見下ろすようにしてイエスを論じ、キリス ト教を論じたところで、そこに本当の救いはありません。そのようにしてい る限り、生きた水を求めることはできないのです。生きた水を求めるには、 一人の罪人としてキリストの御前に立たねばなりません。キリストが御覧に なられる自分自身のありのままの姿を認めねばなりません。そのようにキリ ストの眼差しの前に立つことなくして、生きた水を求めることはできないの です。

 しかし、この人はなおもささやかな抵抗を試みます。彼女は言いました。 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で 礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っ ています」(19‐20節)。彼女は自分自身に直接関わる話題を避け、一 般的な宗教論争の話題を持ち出すのです。サマリアの女が「この山」と呼ん でいるのはゲリジム山のことです。ゲリジム山とエルサレムのどちらが神に 選ばれた聖所であるのか。それはサマリア人とユダヤ人の間における何百年 に渡る宗教的な論争の最大の争点でありました。しかし、そのような論争が、 しばしば隠れ蓑として用いられます。今日でも、往々にして私たちは、自分 の現実の生活のことは置いておいて、神と自分の関係を問うことは置いてお いて、宗教的な議論の中に逃げ込もうとするものです。

 しかし、主イエスはそのような彼女の問いかけを足がかりに、話の核心へ と迫ります。主はまことの礼拝について語り始めるのです。「あなたがたが、 この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼 拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時で ある。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は 霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければな らない」(21‐24節)。問題は、ゲリジム山かエルサレムか、ではない のです。あなたが霊と真理をもって父なる神を礼拝するか否か、なのです。 イエス・キリストは、父によって遣わされ、私たちを霊と真理をもって礼拝 する者とするために来られたのです。ですから、キリストが来られた「今が その時である」と主は言われるのです。

 キリストは、人をまことの礼拝者とする真理そのものです。主イエスは、 「わたしは道であり真理であり命である」(ヨハネ14・6)と言われまし た。主イエスは私たちに父を啓示してくださいました。私たちはもはや漠然 と神を礼拝するのではありません。私たちを愛して、私たちの罪を赦すため、 御子をさえ惜しまず与えてくださった、父なる神を礼拝するのです。キリス トは、父なる神を私たちに示してくださった真理そのものです。

 そのキリストが、私たちに生きた水を与えてくださいます。主が与え給う 「生きた水」は、人をまことの礼拝者とする神の霊です。主が与えてくださ る聖霊により、父なる神を礼拝し、父との交わりに生きるところにこそ、命 の渇きのいやしはあるのです。私たちはこのお方に求めねばなりません。 「主よ、その水をください」と。

 
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