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「わたしもあなたを罪に定めない」

2005年1月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 8章1節~11節

    

 「わたしもあなたを罪に定めない」これが今日の説教題です。11節に記 されています主イエスの御言葉です。本日の礼拝において私たちに与えられ ていますのは、この御言葉を耳にすることができた幸いな女性の物語です。 私たちも主から同じ御言葉を与えていただくことを願いながら、共にこの物 語を読み進んでまいりたいと思います。

●訴える口実を得るために

 1節からお読みいたします。「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、 再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、 座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦 通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。 『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打 ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考 えになりますか』」(1‐5節)。

 この女性は姦通をしているときに捕まったようです。人々がどのようにし て現場を押さえたのかは分かりません。ここで女だけが連れて来られること に不自然さも感じます。しかし、ともあれこの女が抵抗していないところを 見ると、姦通の事実はあったのでしょう。しかし、問題は彼らがわざわざこ の女性を主イエスのところに連れてきたその意図です。「あなたはどうお考 えになりますか」と尋ねてていますが、教えを請うているのではありません。 聖書は次のように説明しています。「イエスを試して、訴える口実を得るた めに、こう言ったのである」(6節)。

 律法学者たちが提示した質問は、実に考え抜かれ周到に準備されたもので した。主イエスが「モーセの律法にあるとおり、彼女を処刑しなさい」と言 ったらどうなるでしょう。彼らは主イエスを「訴える口実」を得ることにな ります。なぜなら、ローマという法治国家の中に存在する限り、死刑を執行 する権限は国家が持っているからです。もし主イエスがモーセの律法に基づ く死刑を主張するならば、その言葉を捕らえてローマ帝国に反逆を企てる者 として訴えることができるでしょう。

 では主イエスが「ローマ総督の許可なくして死刑にしてはいけない」と言 うならば、どうなるでしょう。主イエスをローマからの解放者と見なしてい た民衆はいたく失望して離れていくに違いありません。イエスから民衆を引 き離すことさえできれば、あとはユダヤの最高法院の力でどうにでもするこ とができます。モーセの律法に背くことを公然と教える悪しき教師として訴 えることもできるでしょう。

 そのような秘められた悪意を、主イエスはしっかりと見抜いていたに違い ありません。こういう悪意に満ちた質問は無視するに限ります。主イエスは、 彼らの言葉を聞き流し、かがみ込んで、指で地面に何かを書き始められまし た。しかし、律法学者たちはしつこく問い続けます。そこで主イエスは身を 起こして一言、次のように言われたのでした。「あなたたちの中で罪を犯し たことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。そして、再 び身をかがめて地面に書き続けられたのです。

●わたしもあなたを罪に定めない

 その後の展開は次のように記されています。「これを聞いた者は、年長者 から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん 中にいた女が残った」(10節)。

 「罪無き者、まず石を投げよ」と言われたら誰も石を投げられなかった、 というのは自然な展開のように見えます。しかし、ここで私たちは状況をよ く考えねばなりません。ファリサイ派などの敬虔なユダヤ人の中には、「幼 い時より律法は守ってきました」という自負を持っていた人は少なくなかっ たのです。皆が罪人であるというのは、必ずしも共通の認識ではありません でした。もし「わたしは正しく生きてきました」という人が一人でもいて、 その人が最初の石を投げたらどうなったでしょう。石打ちの刑には執行の仕 方があります。証人が最初の石を投げます(申命記17・7)。それが合図 となって皆が石を投げるのです。誰かが主の言葉に従って最初の石を投げた なら、他の人々もいっせいに石を投げ始めたことでしょう。そして、その場 はたちまち凄惨な血の海と化したに違いありません。その結果、律法学者た ちの目論みどおり、主イエスはこの出来事を先導した者として訴えられたに 違いありません。そのようなことは、十分に起こり得ることだったのです。

 ですから、この場面に描かれている展開は、むしろ特別なこととして考え るべきであろうと思います。そこには、主イエスという存在と、その言葉を 通して、極めてリアルな特別な出来事が起こっているのです。すなわち、主 イエスとその御言葉が、まさに神の言葉として彼らに臨み、人間存在とその 罪とをくまなく照らし出しているのです。人々が去って行ったのは、その結 果です。主イエスとその御言葉に触れるなら、どんなに自分は正しいと思っ ている人であっても、自らの罪を認識せざるを得なくなるのです。ナザレの イエスというお方は、当時のユダヤ人社会においてそのような存在であった し、今日の私たちにとってもやはりそのような存在なのです。

 年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていきました。このよう に、明るく照らし出す光に対する人間の反応は、第一には《逃避》です。そ こから逃げ出すのです。この場面はそのような人間のあり方を示しています。 そして、第二の反応は《敵意》です。光によって憎しみと怒りが引き起こさ れます。人はその怒りをもって光そのものを抹殺しようとするのです。福音 書を読み進む時、私たちはそのような人間の姿をも見ることになるのです。

 しかし、聖書はなんと言っているでしょう。そこには逃げなかった一人の 人がいたと言うのです。訴えられていたその女性です。皆が去って行ったの ですから、彼女も立ち去ることはいくらでもできたはずです。訴える人々が いなくなって災いは回避されました。彼女の身に及んでいた危機は過ぎ去り つつあります。苦しみから逃れることが救いであるならば、まさにそこから 立ち去ることが、彼女の救いとなるはずです。しかし、彼女は立ち去らなか ったのです

。  「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)と書かれています。 主イエスは問われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれも あなたを罪に定めなかったのか。」彼女は答えます。「主よ、だれも」。誰 も彼女を罪に定めることはできませんでした。いや、一人もいなかったわけ ではありません。そこに一人だけおられます。主イエス御自身です。

 先ほど、主イエスとその御言葉に触れるなら、どんなに自分は正しいと思 っている人であっても、自らの罪を認識せざるを得なくなると申しました。 それは主イエスこそ真に正しいお方だからです。真にに清いお方だからです。 父なる神と一つであり、神の愛の現れであるからです。ですから、人間がど んなに正しさを装っていても、清さを装っていても、愛の姿を装っていても、 このお方の光によってその内面にあるものが照らし出されてしまうのです。

 「罪無き者、まず石を投げよ」と主は言われました。その石を投げること のできる唯一のお方がそこにおられます。そして、彼女を罪に定めることの できる唯一のお方がこう言われたのです。――「わたしもあなたを罪に定め ない。」

 こうして、裁かれるべき罪人が、その罪を赦され、再び生きることを許さ れました。彼女は確かにその言葉を聞いたのです。ただ苦しみを免れるとこ ろにではなく、危機から逃れるところにではなく、キリストによって罪を赦 されるところにこそ、真の救いはありました。どうしてこの人だけが主の赦 しの言葉、救いの言葉を聞くことができたのでしょう。それは彼女が主イエ スのもとに留まったからです。主の光に照らされた一人の罪人として主イエ スのもとに留まったからなのです。

●もう罪を犯してはならない

 そして、最後に一つのことを申し上げて終わりたいと思います。今日の聖 書箇所をお読みになった時、この部分が括弧で囲まれていることに気づかれ たことでしょう。結論から申しますと、この部分は本来のヨハネによる福音 書の一部ではなく、別に伝承された古い物語なのです。この物語は多くの写 本には欠落しています。またある写本ではヨハネによる福音書の一番最後に 付録のように置かれています。また別の写本ではルカによる福音書の中にこ の物語が置かれています。これはそのような物語なのです。しかし、そのよ うにヨハネによる福音書とは全く別に伝えられた物語が、何百年かするうち に、この福音書の中に入れられて読まれるようになりました。そこには大き な意味があると思うのです。というのも、この出来事は十字架へと向かって 歩まれた主イエスの旅路の途上に置かれてこそ、初めて正しく理解され得る と考えられるからです。

 「わたしもあなたを罪に定めない」と主イエスは言われました。しかし、 そのように言われた主イエスはまた、洗礼者ヨハネが語ったように、「世の 罪を取り除く神の小羊」(1・29)に他なりません。罪を贖う犠牲として 屠られるために十字架へと向かっておられたお方が、「わたしもあなたを罪 に定めない」と言われたのです。この言葉は、キリストの命の重さをもった 言葉なのです。決して安っぽい恵みとして聞いてはならない言葉なのです。

 ですから、私たちはその後に語られた言葉をも一緒に受けとめねばならな いのでしょう。主は彼女にこう言われたのでした。「わたしもあなたを罪に 定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。

真にキリストの赦しの言葉に出会った者は、キリストの命の重さをもった恵 みに応えて生きる者として、そこから立ち上がり歩み出すのです。

 
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