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「良き羊飼い」

2005年2月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 10章1節~15節

    

              本日の聖書箇所の中心は主イエスの口から発せられた二つの宣言です。主 は言われました。「わたしは羊の門である」(7節)。また主は言われまし た。「わたしは良い羊飼いである」(11節)。主はこれらの言葉をもって、 何を伝えようとされたのでしょうか。私たちはその意味することを尋ね求め ながら、今日の聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。

●わたしは羊の門である

 第一に、「わたしは羊の門である」と主は言われました。その門とは羊の 囲いの門です。囲いの中には羊の群れがいます。日々羊飼いに養われる羊の 群れがいます。羊たちは朝ごとに羊飼いによって連れ出され、牧草へと導か れ、養われます。そして、夕には再び囲いの中へと連れ帰られ、夜の間守ら れます。囲いの中には、そのような幸いな羊の群れがいるのです。そのよう な羊の群れがいる囲いの「門である」とキリストは言われたのです。

 旧約聖書においても、神の民はそのような幸いな羊の群れに喩えられてお ります。例えば、詩編100編には次のように歌われています。「知れ、主 こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その 民、主に養われる羊の群れ」(詩100・3)。あるいは、そのような群れ の中の一人として、主の羊である幸いを歌い上げている詩編23編を思い起 こすこともできるでしょう。「主は羊飼い、わたしには欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせ てくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」(詩編 23・1‐3)。

 羊は元来弱い動物です。外敵と戦う武器を持ちません。自分の身を守るこ とができません。人間はしばしば「頼りになるのは自分だけだ」などと豪語 しますが、実際には我が身一つ守ることのできない羊たちと変わりません。 しかし、先の詩人は次のように歌っているのです。「死の陰の谷を行くとき も、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなた の鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(同4節)。そのように、神 の民は羊飼いに養われる幸いな羊の群れとして喩えられております。

 しかし、もう一方において、そのような幸いな羊の群れとは対照的に、た いへん不幸な羊の群れの描写が、旧約聖書の重要な箇所に用いられておりま す。イザヤ書53章です。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの 方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた 」(イザヤ53・6)。

 そこに用いられているのは、羊飼いのもとを離れ、自分勝手な道を進んで ゆく迷える羊のイメージです。それが神の民イスラエルの歴史であったとイ ザヤ書53章は語っているのです。そして、迷える羊であるイスラエルの民 の歴史が映し出しているのは、すべての人間の姿でもあります。人間社会は 今日もなお、荒れ野をさまよいながら、飢え渇き、傷だらけになって、悲鳴 を上げている羊のような有様を呈しているではありませんか。問題は荒れ野 にいることではありません。羊飼いがいないことです。羊が自分勝手に進ん で行くならば、その先には滅びしかないのです。

 迷える羊が救われるためには、羊飼いのもとに立ち帰るしかありません。 羊飼いのもとにある羊の群れに帰るしかありません。羊飼いに背いて自分勝 手に進んで行ったのは人間の罪です。6節に書かれているとおりです。なら ば、羊飼いのもとに立ち帰るためには罪を赦していただくしかありません。 羊飼いに養われる群れに立ち帰るための門を、人間が自分で開くことはでき ません。罪の赦しの門を開いていただくしかありません。その開かれた門こ そイエス・キリストなのです。「わたしは門である。わたしを通って入る者 は救われる」と主は言われたのです。

 先ほどお読みしましたイザヤ書53章には「そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた」と書かれておりました。この「彼」とは誰なのか。 イザヤ書には書かれておりません。しかし、明らかに主イエスは、すべての 罪を負って死んでいくこの「彼」になるために、十字架への道を進んでおら れたのです。そのような主イエスが言われたのです。そのような主イエスで あるからこそ、言い得たのです。「わたしは門である。わたしを通って入る 者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(9節)と。主 イエスは、私たちの罪を代わりに背負って死んでくださることによって、私 たちの通ることのできる、開かれた門となってくださいました。私たちはそ の門を通って群れに帰ります。そして、羊飼いに養われる群れとして生活し 始めるのです。

●わたしは良い羊飼いである

 第二に、主は言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは 羊のために命を捨てる」(11節)。主イエスは救いの門であるだけではあ りません。門を通って救われた者を養い給う羊飼いそのものでもあります。 また主は次のように言われました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは 自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知 っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために 命を捨てる」(14節)。

 羊飼いは羊を知っています。羊も羊飼いを知っています。この言葉の背景 にあるのは、パレスチナの羊飼いの生活です。彼らは羊の一匹一匹に名前を 付けて、羊と共に生活をします。私たちから見たら羊は皆同じように見えま すが、彼らは各々の羊を見分けることができます。3節に「羊飼いは自分の 羊の名を呼んで連れ出す」と書かれているのはそのような羊飼いと羊との関 係です。要するに、羊飼いにとって、それは単なる羊の「群れ」ではないの です。彼にとって重要なのは個々の羊なのです。羊飼いが羊を「知っている 」とは、羊とはどういうものかを知っている、という意味ではなく、名前を もって呼んでいる個々の羊を知っているということです。主イエスは、人間 がどういうものであるかを知っているだけでなく、教会がどういうものであ るかを知っているだけでなく、それぞれ名前を持っている私を知っておられ、 あなたを知っておられるのです。

 しかもその関係は、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知ってい るのと同じである」と主は言われるのです。これはまことに驚くべき言葉で あると言わざるを得ません。イエス・キリストは、「わたしと父とは一つで ある」(10・30)と言われるお方です。そこには御父と御子との愛の交 わりがあり、一体性があります。それは本来唯一無二の関係です。しかし、 その関係が、羊飼いなるキリストと、キリストに従う羊たちの間にも与えら れているのだと語られているのです。

 主は私たちを知っていてくださいます。知り尽くしていてくださいます。 主に背いてきた私たちの罪も、私たちが決して外に現そうとはしない、内に 秘められた弱さをも、主は知っておられます。そのように御自分の羊を知り 尽くした上で、繰り返しこう言われるのです。「わたしは羊のために命を捨 てる」と。実際、主イエスは彼と共にいた弟子たちが、やがて自分を見捨て て散っていくことをご存じでした。ペトロが三度も主イエスを否むであろう ことをご存じでした。そのような彼らについても、主は言われたのです。 「わたしは羊のために命を捨てる」と。

 羊飼いなるキリストが命を捨てるのは、羊が命を得るためです。罪を贖わ れて永遠の命を得るためです。「羊のために命を捨てる」と語られているそ の「羊」とは一般名詞の「羊」ではありません。主が命を捨ててくださった のは、ただ「人類のため」ということでなく、「キリスト者のため」という ことでもありません。そうではなく、主が名前をもって呼んでくださる、わ たしのためであり、あなたのためなのです。

 しかし、そのような羊飼いのことだけでなく、ここには盗人や強盗につい ても語られております。「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗で ある」(8節)と主は言われました。朝、門を通って羊飼いが来る前に、誰 かが群れのもとにやって来たとしたら、それは盗人か強盗です。彼らは他の ところを乗り越えてやって来ます。「はっきり言っておく。羊の囲いに入る のに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗で ある」(1節)と主は言われたのです。まことの羊飼いだけでなく、盗人や 強盗もやって来くるのであるならば、大事なことは、羊飼いでないものに聞 き従わない、ということです。「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、 強盗である。しかし、《羊は彼らの言うことを聞かなかった》」と書かれて いるとおりです。

 羊飼いと強盗の違いはどこにあるのでしょうか。それは主が語られたよう に、どこを通って来るかというところにあります。門を通って来るか否かで す。門はキリストであり、キリストの十字架による罪の贖いです。強盗はこ の門以外のところを乗り越えてやってきます。必ずしも強盗らしい装いをも って近づいて来るとは限りません。十字架による罪の贖いを抜きにして救い を語る言葉は、しばしば魅力的に聞こえるものです。十字架によらず、人間 の努力や善行によって救いが得られるかのように語る言葉は魅力的に聞こえ るのです。なぜならそこでは人間が誇っていられるからです。自分の罪を認 めて謙ることなくしても、受け入れることができるからです。そのような教 えは、様々に形を変えて、きわめて初期の頃から教会の中に入り込んできた のです。

 それは今日においても同じです。キリストの門、十字架の門でないところ を乗り越えて近づいて来る者の声に聞き従ってはなりません。主は言われる のです。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほ かならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受ける ためである」(10節)と。

 今週の水曜日から受難節に入ります。復活祭までの約六週間、私たちは十 字架にかかられたキリストの御受難を思い巡らして過ごします。主イエスは 十字架にかかられて、私たちの救いの門となってくださいました。私たちは その門なるキリストにしっかりと目を向けましょう。またそのお方は良き羊 飼いとして、羊のために、わたしのために、あなたのために命を捨ててくだ さいました。その羊飼いに目を向け、その声にひたすら耳を澄ませ、聞き分 けてついていく者となりましょう。

 
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