「わたしは復活であり命である」
2005年2月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 11章17節~44節
エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、主 イエスがしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、 そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。主イエスと特別親しかった家 族のようです。ユダヤ人たちの敵意に囲まれ、命さえ危ぶまれるような緊迫 した状況の中で、主イエスが心からくつろぎ憩うことのできる家だったので しょう。
しかし、そのような幸いな家庭を突然大きな悲しみが襲いました。ラザロ が病気になったのです。彼は死に瀕しておりました。私たちは、死の力とい うものが私たちの人生に深く及んでいることを考えようとせず、その事実か ら目を反らして、意識の外に追いやろうとしているものです。しかし、それ は何の解決にもなりません。なぜなら、私たちの思惑とは全く無関係に、死 の支配力は様々な形を取って現れるからです。このラザロの家に現れたよう にです。私たちは目を反らしてはなりません。私たちに必要なのは、気休め ではなく救いです。そして、私たちに真の救いをもたらしてくれる救い主な のです。
わたしは復活であり、命である
マリアとマルタは、主イエスに使いを送って言いました。「主よ、あなた の愛しておられる者が病気なのです」。しかし、主イエスが到着したのは、 既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。ユダヤ人には民間の俗信 がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられ ていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを 意味します。遅すぎました。主イエスは人間的見地からすれば完全な絶望の 中に来られたのです。しかし、人間にとっての《終わり》は、しばしば神に とっての《始まり》となります。まさに人はそこにおいて神と出会い、神の 栄光を見るのです。
主イエスが来られたと聞いて、マルタは村の外まで迎えに出ました。マル タは主に言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの 兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは 何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」そのよ うに主イエスへの信頼を口にするマルタに対して、主イエスは言いました。 「あなたの兄弟は復活する」。するとマルタは言いました。「終わりの日の 復活の時に復活することは存じております」(24節)。
終末において、ある者は命を受けるため、ある者は裁きを受けるために復 活するという教えは、当時のファリサイ派における正統的な教理でした。マ ルタはここで一人のユダヤ人として信仰を表明しているのです。彼女は少な くとも、死んですべてが終わりであるとは思っておりません。復活の時に目 を向けています。しかし、それは「存じております」という程度のことでし た。自分が立っている地平と復活の世界は結びついておりません。ですから、 正統的な教理が本当の意味で彼女の希望とはなっていないのです。
そのようなマルタに対して、主イエスは御自分について驚くべき宣言を口 にされたのでした。主は言われます。「わたしは復活であり、命である。わ たしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、 決して死ぬことはない」(25‐26節)。すなわち、「わたしこそが、あ なたの言っているその《復活》そのものなのだ、永遠の《命》そのものなの だ」と主は言っておられるのです。
そのように、復活は遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあ るのではないと主は言われるのです。復活の命は、絶望に満ちたこの世界の ただ中に来ているのです。主イエスを信じる者は、《いつかその時に》では なく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができる。永遠の命に与って いるならば、「死んでも生きる」のです。そして、「決して死ぬことはない 」のです。そのように、主イエスを信じる者は、終わりの日の復活を、今こ こにおいて味わい始めるのです。主イエスは、そのような「復活であり、命 である」と言われるのです。
主はマルタに、「このことを信じるか」と問われました。主は私たちにも 問われます。「このことを信じるか」と。これは人間に与えられた重大な問 いかけです。そして、主は自ら宣言し、信ずることを求めたことについて、 すなわち御自分が「復活であり、命である」ことについて、それが何を意味 するのかを、さらに自らの行動をもって示されるのです。それでは話の続き を読んでまいりましょう。
●ラザロよ、出てきなさい
マルタは家に帰ってマリアを呼びました。マリアは立って、主イエスのも とに向かいます。マリアは主を見るなり、足下にひれ伏し、「主よ、もしこ こにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、 マルタとまったく同じことを訴えます。マリアはそう言って泣きました。周 りの人々も泣き叫んでいました。その時の主イエスのご様子は次のように描 かれています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いて いるのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。 』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された 」(33‐35節)。
死の支配がもたらす人間の悲惨な現実に、私たちはしばしばやり場のない 憤りを覚えます。主イエスは、そのような私たちの悲しみに、嘆きに、そし て憤りに目を留めてくださいます。そして、共に憤り、共に泣いてくださる のです。主は私たちの苦悩に無関心ではあられません。「御覧なさい、どん なにラザロを愛しておられたことか」と人々は言いました。主の憤りと涙は 主イエスの愛の現れでありました。同じように、主は私たちをも愛していて くださいます。しかし、私たちを愛し給う主イエスは、ただ共に憤り、共に 泣いてくださるだけではありません。主はそのような人間の嘆きの中に、救 いの力をもって入ってきてくださるのです。私たちを愛してくださるお方は、 私たちを死から救うこともできるお方なのです。
主イエスは、墓に来られました。墓は洞穴で、石でふさがれていました。 主イエスは、「その石を取りのけなさい」と言われます。人々が石を取りの けると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来 なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人 が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」のでした。そんなことがあり得る か。いったい何が起こったのか。これを読む人は、その不思議さや不可解さ に思いを向けることでしょう。しかし、これを書いたヨハネは、たった一節 でこれを済ませてしまいます。細かい描写も論証もしようとはしていません。 重要なのは、その出来事が何を意味するかを伝えることだからです。それは 真理を指し示す「しるし」なのです。
この福音書において最初のしるしとして描かれていたのは、カナの婚礼に おいて水をぶどう酒に変えた奇跡でした。「イエスは、この最初のしるしを ガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(2・11)。そこから始 まりまして、この福音書には七つのしるしが伝えられています。ラザロをよ みがえらせた奇跡は七つ目のしるし、すなわち最後のしるしです。そして、 重要なことは、このしるしがユダヤ人の殺意を引き起こす直接の原因になっ た、ということです。
今日は44節までお読みしましたが、その直後にはこう書かれています。 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多く は、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、 イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、この ことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行 う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機に さらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」と いうのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らは イエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。
実は、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れでありました。 主イエスがベタニアのラザロの家に着いた時から、主は既に大きな危険の中 に置かれていたのです。主が「もう一度、ユダヤに行こう」(7節)と言い 出した時、弟子たちは驚いて、「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなた を石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8節)と言 ったのです。ですから、ユダヤに再び向かうこと自体、弟子たちにとっても 大きな覚悟を必要とすることでありました。トマスは他の弟子たちに言って います。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)と。
そのような緊迫した状況の中で、主イエスは、「わたしは復活であり、命 である」と言われたのです。それは十字架へと向かっているお方の言葉に他 ならないのです。そして、十字架へと向かっているお方として、このしるし を行われたのです。主イエスは墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれ た」と書かれています。このような表現が主イエスについて用いられている のはここだけです。鬼気迫るものを感じませんか。このしるしを行うことが、 御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。い わばこれは主イエスの命がけの叫びなのです。主イエスは御自分の命と引き 替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。
それゆえに、この出来事は、まさにキリストの死とひきかえに私たちに与 えられる永遠の命を指し示す出来事でもあるのです。キリストは私たちの罪 を贖うために十字架にかかってくださいました。私たちに罪の赦しをもたら し、神との交わりを与え、永遠の命を与えるためでした。このキリストの十 字架と共にあるならば、「死んでも生きる」のです。復活であり命であるお 方によって、命の源なる神との交わりの中にあるならば、「決して死ぬこと はない」のです。
今も、キリストの大声が、この世界に――神との交わりを失い、神の命を 失った、墓のようなこの世界に――響き渡っています。復活であり命である お方が、その体である教会を通して、今も大声で叫んでおられるのです。 「あなたは神の命を失った罪の世界に留まっていてはならないのだ。死の中 に留まっていてはならないのだ。そこはあなたのいるべきところではない。 墓から出て来なさい。命の中へと出て来なさい。ラザロよ、出て来なさい!」 と。